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バスで行く「奥の細道」(その7) ( 「しのぶもじ摺り」石) (福島県 ) 


 

(写真は「しのぶもじ摺り石」)

「バスで行く奥の細道」ツアーは、前回の「安達ケ原の鬼婆」に続き、今回は「信夫(しのぶ)
もじ摺り(ずり)」の石です。

芭蕉の「奥の細道」の目的は、「しのぶもじ摺り」などの「枕詞」(まくらことば)の地をたどって
行くことでした。

芭蕉が、奥州街道を外れて、わざわざ「しのぶもじ摺り石」を見物に行ったのは、「信夫(しのぶ)」の里が有名な「歌枕」であり、そこに「文知摺石」があったからに外なりません。


平安時代、嵯峨天皇の皇子の中納言・源融(みなもとの とおる)は、按察使(あぜち:監督官)
として、陸奥国に赴任していました。


その源融が、ある日、「文知摺石」を訪ねて「信夫の里」にやって来ました。

源融は、村長の家に泊まり、美しくて気立てのやさしい村長の娘の「虎女」(とらじょ)を見初め、
虎女もまた源融の高貴さに心を奪われました。

こうして、二人の愛情は深まり、源融は、そのまま1ヶ月余りも、村長の家に逗留しましてしまい
ました。


やがて、源融を迎えるための使いが都からやって来ます。

別れを悲しむ虎女に、源融は再会を約束し、都に旅立ちます。

再会を待ちわびた虎女は、慕情やるかたなく、「文知摺(もじずり)観音」に、百日詣りの願を
かけます。

やがて満願となりましたが、都からは何の便りもありません・・・

嘆き悲しんだ虎女が、ふと見ますと、文知摺観音の「文知摺(もじずり)石」の面に、慕わしい
源融の面影が彷彿と浮かんで見えました!   

懐かしさのあまり虎女がかけ寄ると、それは一瞬にしてかき失せてしまいました。

そして遂に、虎女は病の床に臥せてしまいました。

ちょうどこの時、都から、源融の歌が寄せられたのでした。

 ”みちのくの 忍ぶもちづり(注) 誰ゆえに  乱れ初めにし 我ならなくに ” 

(小倉百人一首:河原左大臣・源融)

 (「もじ摺り石」の乱れ模様の様に、あなた以外の誰のために、心を乱す私でありましょうか。)

源融の歌をひしと抱きしめながら、虎女は、その短い生涯を閉じました。

(注)「信夫 文知摺(しのぶ もじずり)石」:「信夫」は福島市内の地名で、「文知摺石」は、
信夫の里の「文知摺(もじずり)観音」の境内にある巨石。

   「文知摺」とは、石に絹布をあてがい、その上から忍(しのぶ)草の草木汁を摺り(すり)付けて
    石の表面の乱れ模様を染めたもので、当時、信夫地方の特産品として都の貴族達にも
    珍重された。

   「文知摺石」を磨くと、表面が鏡の様になるので、「文知摺石」は、別名「鏡石」とも呼ばれた。

因みに、この「源融」は、紫式部の「源氏物語」の「光源氏」のモデルだそうです。

驚き!


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芭蕉が、ここ「信夫の里」を訪れたときには、歌枕として有名だった「文知摺の石」は、何と!、
半分ほど土に埋まっていたそうで、村の子供が、その経緯を次のように語ったそうです。

この石は、昔は、山の上にあったのですが、ここを通る人たちが、畑の麦の葉っぱを無断で
取って荒しては、この石に擦りつけて試していました。

地元の人々がこれを嫌い、石を谷に突き落としたので、石の上面が下になってしまい、
半分ほど土に埋まってしまいました。


芭蕉は、いかにもありそうな事だと、嘆息しながら句を詠みました。

”早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺(ずり)”

(田植えをする早乙女たちの素早く器用な手さばきに、忍草を取っては擦り出していた、昔の手振りがしのばれる。)



パック旅行のバスは、「文知摺石」がある福島市内の「文知摺(もじずり)観音」に到着しました。



江戸時代には福島藩主の堀田正虎が、明治時代には信夫郡の郡長が、ここの「文知摺」石の
周辺を整備したそうです。



(堀田正虎の顕彰碑)



「文知摺観音」の入口に、上の写真の「芭蕉像」と、下の写真の「芭蕉句碑」がありました。



”早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺”



(もちずり観音堂)



上の写真が、源融の顔が写ったと言う「信夫文知摺り石」です。



文知摺り石の前には、上の写真の様に、「綾形石」というもう一つの薄くて平らな石が置いてあり、実際には、この平らな石で、布地を押し当て模様を付けて染めたらしいです。



上の写真は、虎女と源融の墓です。



(河原左大臣・源融の歌碑)



(文知摺観音の多宝塔:重文)