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バスで行く「奥の細道」(その6) ( 「安達ケ原の鬼婆」 (福島県 ) 


 

(写真は、奈良時代に「鬼婆」が住んでいた「岩屋」。)


今回は、「安達ケ原の鬼婆」を訪れますが、先に、その「安達ケ原 」の「鬼婆(おにばば)伝説」に
ついて、以下にご紹介します。

  ここ安達ケ原の「鬼婆」は、京都のある公家屋敷の乳母でした。

  長年、手塩にかけて育てた姫の病気を治したい一心から、「妊婦の生肝(いきぎも)を
  飲ませれば治る。」という易者の言葉を信じ、遠くみちのくに旅立ち、ここ安達ケ原の岩屋に
  たどり着きました。


  そして、木枯らしの吹く晩秋の夕暮れ時、生駒之助(いこまのすけ)・恋衣(こいぎぬ)と名のる
  旅の若夫婦が一夜の宿を求めてやって来ました。


  その夜ふけ、恋衣が急に産気づいたため、生駒之助は産婆を探しに出て行きました。

  鬼婆は、この時とばかりに、出刃包丁をふるって、苦しむ恋衣の腹を裂き、「生肝」を
  取り出しました。

  恋衣は、苦しい息の下から、「私は、幼い時に京都で別れた母を探して歩いているのです。」
  と語り息をひきとりました。


  鬼婆は、亡くなった恋衣のお守り袋を見て、昔、別れた自分の愛しい娘であることに気付き、
  驚きのあまりに気が狂い、鬼と化してしまいました!


  以来、宿を求めた旅人を殺し、生き血を吸い、肉を食らい、いつとはなしに「安達ケ原の鬼婆」
  と言われる様になりました。

  数年後、何も知らずに宿を求めた紀州熊野の僧・東光坊は、岩屋の秘密を知り逃げ出しますが、
  鬼婆はすさまじい形相で追いかけて来ます。

  東光坊は、もはやこれまでと、如意輪観音が入った笈(おい)を降して祈願すると、観音像が
  空高く舞い上がって、一大光明を放ち、白真弓(白木のマユミで作った弓)で鬼婆を射殺して
  しまいました。


  鬼婆は、阿武隈川の川岸に埋められ、その塚は「黒塚」と呼ばれる様になりました。


奥州街道の道筋ではありませんが、江戸時代、二本松地方を通る多くの旅人が、「安達ケ原
(あだちがはら)の鬼婆」伝説の地に立ち寄る様になりました。

芭蕉も、奥州街道から外れて寄り道しています。

私は、「安達ケ原」は、奥州街道の「二本松宿」の近くにあると思っていました。

しかし、調べてみると、二本松宿から4キロ余り離れており、徒歩往復に2時間かかることが
分かりました。


という訳で、1日徒歩5キロ制限の私は、今回の「奥の細道」の「安達ケ原の鬼婆」も、バスツアーの
お世話になります。




(バスの中)






鬼婆が住んでいたという「岩屋」が境内にある「観世寺」(かんぜじ)に着きました。













観世寺の境内にある色々な岩の前には、それぞれ説明の立て札が立っています。



上の写真が、鬼婆が暮らしていたという岩屋で、張り出した岩が笠のような屋根になっています。
ここで、旅人が来るのを虎視眈々と待っていたのでしょう。



上の写真は、鬼婆が旅人を殺した時に出刃包丁を洗ったという「出刃洗いの池」です!

怖っ〜・・・



上の写真は、「蛇石」で、この石には、参詣人の安全を守ってくれる白蛇が住んでいたそうです。



上の写真の「安堵石」は、悩み事を聞いてくれるという石です。



写真の「胎内くぐり」は、巨岩が組み合わさった、かろうじてくぐり抜けられる隙間のある岩なので、
スリムな体型でないと無理みたいです・・・



境内の「宝物資料館」では、鬼婆ゆかりの品々の展示が見られます。



写真撮影は禁止ですが、ここの岩屋から出土したと言われる鬼婆の使った出刃包丁、人肉を
煮た鍋、生き肝を入れたツボ等、おどろおどろした品が並んでいます。


更に、鬼婆が殺戮する生々しい場面の絵巻も・・・

背筋がぞっ、ぞぞ〜。



観世寺の前の阿武隈川の河原には、写真の「黒塚」があります。



黒塚には、杉の大木がそびえていて、その根本に「黒塚の石碑」があります。


ここには、退治された鬼婆の亡骸が埋められているそうです。