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バスで行く「奥の細道」 (その04: 「白河の関」) (福島県)


  

(写真は白河関跡)
 
”都をば 霞とともに 立ちしかど  秋風ぞ吹く 白河の関”

(春霞の季節に京都を発って、秋風が吹く頃にようやく白河関に着いた。)

今回は、上の能因法師の句で有名な「白河関」を訪れます。

「白河関」(しらかわのせき)は、奈良時代から平安時代に機能していた”国境の関”で、
蝦夷(えみし)の南下を 防ぐために築かれていました。


太平洋岸の「勿来(なこそ)の関」、日本海岸の「念珠(ねず)が関」と並ぶ”奥羽三古関”の
一つです。


その後、律令制の衰退と共に関所としての機能を失いましたが、辺境「みちのく」の入口
としてのイメージは、 その後も「歌枕」として残り、ずっと多くの歌人に詠まれ続けました。

ここを通過した能因法師など、時代を代表する歌人たちは、必ずここで歌を残しています。

そういう訳で、芭蕉としても、歌枕の聖地として、どうしても訪れねばならない場所でした。

しかし、驚くことに、江戸時代には、関の跡がどこなのか全く判らくなってしまっており、
芭蕉は、関跡を探しながら、あちこち尋ね歩くハメになってしまいました。

(曽良の随行日記)

芭蕉は、 ”白河の関越えんと”と、意気込んで来たものの、結局、白河関跡がどこなのか最後まで
判明せず、期待に反して、分からないままで白河の関を超えざるを得なくなりました・・・

張り切って、「白河関」を目指して来た芭蕉にとっては、白河関跡がどこか判明しなかったのは、
さぞやショックだったでしょうねえ〜。


芭蕉がここでの句を残していないのは、ホントに不本意だったからでしょう。

代わりに、曽良が下記の句を詠んでいます。

 ”卯の花を かざしに関の 晴着かな”  (曽良)

 (「白河関を越える際には正装する」、という故事に基づいて、白を連想させる卯の花をかざして、
晴着を着たようにして関を越えよう。)
現在の「白河関跡」の場所を、「白河の古関跡」と認定したのは、松平定信で、芭蕉から100年も
後のことです。


知恵伊豆と呼ばれた定信が、場所を断定して石碑を建てたくらいですから、現在の「白河関跡」の
位置は、間違いないと思われます。



私は、「白河の関」は、奥州街道の「白河宿」の中にあると思っていました。

しかし、調べてみると、白河宿から南に10キロも離れたところにあり、何と!、白河宿からバスで
30分も かかることが分かりました。


という訳で、1日徒歩5キロ制限の私は、今回の「奥の細道」の「白河の関」も、バスツアーの
お世話になります。




(バスの中)


我々の乗る「バスで巡る奥の細道」のバスは、「白河の関」に着きました。





白河の関跡の入口を入った右手に、松平定信が建立した写真の「古関蹟碑」があります。



当時、白河藩主だった松平定信が、1800年に、この場所が、「白河関跡」に間違いないと断定した
際に建立した碑が、上の写真の「古関蹟碑」(こかんせきひ)です。




上の写真は、「幌掛けの楓」で、前九年の役で、源義家が、白河関を通過する際に、
「幌(ほろ)」(注)を、 このカエデの木に掛けて休憩したそうです。


(注)下の写真の様に、馬上の武者は、背後からの矢を吸収するために、背中に大きな
   袋状の布を背負っていますが、この布を「母衣(ほろ)、または幌(ほろ)」と言います。



(NHK歴史秘話ヒストリアから)

右手に「古関蹟碑」を見て、石段の参道を上ると写真の「白河神社」があります。







社殿は、仙台藩主・伊達政宗が奉納したものだそうです。

白河神社の社殿の脇には、能因法師、平兼盛、梶原景季の下記の3句を刻んだ「古歌碑」 が
建っています。



 ”都をば 霞とともに 立ちしかど  秋風ぞ吹く 白河の関” (能因)  

 ”たよりあらば いかで宮こへ告げやらむ 今日白河の 関を越えぬと” (平兼盛)

 (平兼盛が、歌枕の白河関を越えた感激を、都の知人にどうやって知らせようか、と詠んだもの。)

 ”秋風に 草木の露を はらわせて 君がこゆれば 関守もなし”  (梶原景季)  

(源頼朝が、1189年、奥州平泉の藤原氏を攻める途上、側近の梶原景季が、白河関の社殿で詠んだもの。)



白河神社に参拝した後、ぐるっと遊歩道を廻って、「白河関の森公園」へ向かいます。



遊歩道沿いの写真の土塁や空堀は、古代の白河関の関所としての防禦施設の遺構だそうです。




「白河関の森公園」は、白河関跡に隣接した公園として整備されています。





この公園の入口近くには、芭蕉と曽良の像が置かれています。

白河の関は、別名「二所の関」とも呼ばれていたそうで、相撲の「二所ノ関部屋」は、ここから
名付けられそうです。



その関係でしょうか、白河関の森公園には、「相撲のけいこ場」がありました。















我々のバスは、昼食をとるため、白河関跡の近くの「南湖(なんこ)公園」へ向かいます。







南湖公園は、1801年、白河藩主・松平定信が、大沼と呼ばれていた湿地帯に堤を作って水を貯め、松・桜、楓などが 四季折々に楽しめる庭園として築造しました。



南湖公園は、これまでの大名庭園と異なり、武士から農民まで身分に関係なく、全ての領民に
開放されたことから”日本で最初の公園”と言われています。



南湖の名は、唐の詩人・李白が洞庭湖に詠んだ詩「南湖秋水夜無煙」からとったそうです。

大正13年、「南湖公園」として国の史跡名勝となりました。