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バスで行く「奥の細道」(その3 ) ( 「殺生石」 (栃木県) 


  

(写真は、殺生石の”妖怪・九尾の狐”)



芭蕉は、14日間も逗留した黒羽の浄法寺家をあとにして「殺生石」へ向かいます。

黒羽の城代家老の浄法寺高勝が、用意した馬で送ってくれました。

この馬を引く男が、「短冊に一句書いてくれませんか」と芭蕉にせがみます。

芭蕉は、風流なことを望むものだ、と感心して、一句詠んで書いてあげます。

 ”野を横に 馬牽むけよ(うまひきむけよ) ほととぎす”

 (どこかでホトトギスが鳴いている。ホトトギスの鳴き声が聞こえる方向に馬を差し向けて、
  聞こうではないか。)


我々のバス旅行も、黒羽から殺生石へと向かいます。



(バスの中)

「殺生石」(せっしょうせき)は、平成26年に国指定「奥の細道の名勝地」に指定されました。



その荒涼とした情景は、我々の持つ那須高原の穏やかなイメージとは異なる独特の雰囲気です。



私は、青森の恐山の風景を思い出しました。



草木が一本も生えていない「賽の河原」(さいのかわら)の中の緩やかな木製の歩道を、
その一番奥にある「殺生石」を目指して上って行きます。










写真は、「千体地蔵」で、お地蔵様が約800体も並んでいます。


このお地蔵様は、何と!、1人の石工職人によって作られたものだそうです!





上の写真は、「盲目蛇石(めくらへびいし)」です。

説明版によると、その昔、五左ヱ門という湯守が、目の見えない大蛇と出会い、その大蛇が冬を
越すための小屋を、ここに作ってあげました。

その後、その大蛇は見当たらなくなりましたが、代わりに、ここに「湯の花」が出現したそうです。

それを見た村人達は、大蛇に感謝して、蛇の首に似たこの石を「盲目蛇石」と呼んで、大切にした
そうです。




上の写真は、その出現した「湯の花」で、周辺には、温泉特有の硫化水素ガスの臭いが漂います。





ようやく、写真の「殺生石」(せっしょうせき)に着きました。



以下は、この「殺生石」と「九尾の狐」(きゅうびのきつね)についての有名な伝説です。

  平安時代、鳥羽帝の愛する妃に「玉藻」(たまも)という美人がいましたが、実は、この妃は
「九尾の狐」の化身でした。

  「九尾の狐」とは、唐から飛来してきた”9本の尻尾”を持つ”狐の妖怪”です。

  玉藻は、鳥羽帝の命を奪って、日本の国を我が物にしようとしたため、帝は、日に日に衰弱して
  床に伏せるようになってしまいました。



  しかし、陰陽師の阿倍泰成が、その妃の正体を見破ってしまいます!

  そこで、「玉藻」は、「九尾の狐」の姿となって、ここ「那須野が原」に逃げ込みます。

  朝廷は、上総介広常(かずさのすけ ひろつね)と三浦介義純(みうらのすけ よしずみ)の
  両名に、九尾の狐の退治を命じます。
 
  命を受け那須野が原へ向かった2人は、この地で、見事に九尾の狐を退治しました。

  すると、殺された九尾の狐は、恨みを残したまま石となり、その怨念は毒気となって、近づく人や
  鳥獣を殺し続けたのでした。

  その石が、この「殺生石」(せっしょうせき)なのです。



曽良は、この殺生石を見て、下記の句と文を残しています。

 ”石の香や夏草赤し、露あつし” (曽良)

 「殺生石は温泉の出づゆ山影にあり。石の毒気いまだ滅びず、蜂、蝶のたぐひ真砂(地面の砂)
  の色の見えぬほど重なり死す」


「殺生石」の隣の左手の山側に、「那須温泉(ゆぜん)神社」が見えています。



殺生石から、那須温泉神社を目指して、石段を上って行きます。









那須温泉神社の境内には、更に「九尾稲荷神社」があり、そこには、下の写真の”妖怪・玉藻”の
化身である「九尾の狐」が祀られていました。





待てよ・・・、確か、大田原宿の大田原神社の狛キツネには、尻尾が何本もあったゾ・・・?

そうか、 (名探偵コナンの口調で ) 「謎は全て解けた」、 そうだったんだ!

大田原宿の大田原神社にあった、下の写真の不気味な狛キツネは、この「九尾の狐」だったんだ!!





(大田原宿・大田原神社の狛キツネ:(奥州街道・大田原宿))

道理で、狛キツネにしては、気味の悪い妖怪の様な表情をしていた訳だ。

那須温泉神社の創建は630年で、那須与一が、屋島の戦いの折に戦勝祈願したそうです。







ここには、「君が代」の歌詞に出てくる下の写真の「さざれ石」が祀られています。



中山道の下諏訪宿の下社秋宮で見た下の写真の「さざれ石」と同じ感じです。



(下諏訪・下社秋宮の「さざれ石」:(中山道・下諏訪宿))