本文へジャンプ
60:柏原



 

(写真は、伊吹モグサの老舗「伊吹堂かめや」)

柏原宿は、近江の国(滋賀県)に入って最初の宿場です。

柏原宿に入り、右手の立派な鳥居の八幡神社の先を右に入るとJR柏原駅です。









駅前に「中山道柏原宿案内」の大看板が建っています。

柏原宿は、宿場町らしい雰囲気の家並みが続きます。















下の写真の様に、「問屋場」跡と「東の荷蔵」跡の説明板が立っています。



説明版によると、荷物を次の宿場まで運ぶために、中山道の「問屋場」は、馬50匹と人夫50人を置くことが義務付けられていました。

そして、「荷蔵」は、その荷物を一時保管する蔵です。

問屋場の先には、下の写真の「脇本陣」跡の説明板が立っています。



街道沿いの家には、写真の様に、当時の職業と名前を記載した板が立てられています。



下の写真の2軒の「本陣跡」が並んでおり、連子格子の「旅籠屋跡」も点在し、この辺りは雰囲気があります。









少し歩くと、小さな橋の手前の常夜灯の横に、「高札場跡」の立て札がありました。



伊吹山の麓にある柏原宿の名産は、”お灸(おきゅう)”の原料である「伊吹艾(もぐさ)」でした。

江戸時代には、長旅に出掛ける時は、足のツボに、必ずお灸を据えるのが常識だったらしいです。

下の写真は、創業350年を超えて、昔のままで、現在も営業を続けている、伊吹艾(もぐさ)の老舗「伊吹堂かめや」です。







時間が早くて開店前だったので、江戸時代のままで店に置かれているという等身大の「福助」人形を見ることが出来ませんでした。

残念!

「福助」は、江戸時代に、この店に”実在した番頭”で、働き者で知られ、店を繁盛させた功労者だったそうです。

後に、その評判が全国に広まり、「福助人形」として有名になりました。

「福助」は、御存じの様に、足袋・ストッキング・下着などの製造販売の会社です。

これは、江戸時代に有名だった福助人形を、明治時代に商標登録したのが現在の福助株式会社ということなので、「伊吹堂かめや」との直接の関係はなさそうです。





(福助人形:インターネットから)




浮世絵「木曽海道69次乃内 柏原」で、広重が描いているのは、この「伊吹堂かめや」です。

絵の右端には、等身大の福助人形が置かれており、その横では、店員たちが紙に包んで並べられた「艾(もぐさ)」を売っています。



「かめや」は店の左側で、茶屋も兼業していて、金太郎あめ等も売っています。

店の前では、人足たちが、荷物を杖で支えて休憩しています。


更に進むと、その右手に写真の「柏原宿歴史館」( 国重要文化財)がありますが、時間が早くて開館前でした。






残念!

次の機会に、柏原宿歴史館と福助人形を見るために再び訪れたいです。

柏原宿歴史館の前で、近所のおばさんから街道歩きについて聞かれたので、暫くの間、立ち話しをします。

おばさん曰く、”私は、この柏原周辺から、ほとんど出掛けたことがないのに、東京から京都まで歩いて旅をするなんて羨ましい。”

そう言われれば、確かに、私は、今、羨まれる様な贅沢な旅をしているのかも知れません。


宿場町を更に進んで行きます。








(軒下の干し柿)


柏原宿の宿場町の中を更に進んで行きます。







やがて、左手の「やくしえのみち」の道標を過ぎると、街道の交差点の右手に「お茶屋御殿」跡があります。






「お茶屋」とは、徳川家康が、将軍専用の休息・宿泊施設として作らた建物です。



案内板によると、このお茶屋は、家康・秀忠・家光が、14回利用したとあります。

お茶屋御殿跡は、小公園になっていたので、ここで一休みして、水分を補給します。

お茶屋御殿跡の先に、「郷宿(ごうやど)」跡の案内板がありました。





その案内板によると、「郷宿」とは、脇本陣と旅籠屋の中間クラスの旅館で、武士や庄屋などが使用したそうです。

郷宿跡の先に、「柏原の一里塚」があり、「西見付」跡の説明板もありました。





この「西見付」跡の辺りで柏原宿は終わりです。

柏原宿を抜けると、街道は、やがて、ほとんど人家がなくなり、田園風景に変わります。







暫くすると、中山道は、「鶯(うぐいす)が原」という所に出ました。


案内板によると、太田道灌は、江戸から京都への旅日記「平安紀行」の中で、ここ「鶯が原」で、



”聞ままに かすみし春そ しのばるる 名さへなつかし 鶯が原”と、詠んだとあります。

やがて、中山道が、長沢(ながそ)集落に入ると、左手に「やくし道」への道標があり、明星山薬師寺への道を示しています。



更にその先に、「小川(こかわ)の関」跡の古い石碑と、「歴史街道 柏原宿 枝郷 長沢(ながそ)」の新しい石碑が同じ場所にありました。



「小川の関」は、不破の関よりも以前に設けられた関所です。

そして、小川の関跡の先には、「菖蒲(しょうぶ)が池」跡の石碑と案内板がありました。





案内板によると、大納言俊光が、ここ菖蒲が池で、

”君が代の ながき例(ため)しに 長沢の 池のあやめは 今日ぞ 引かるる”

と詠った、とあります。

また、案内板には、昔は、ここに大きな池があり、源氏ホタルで有名な天野川の水源だった、と書かれています。

しかし、江戸時代に、田地になって消滅してしまったらしいです。

菖蒲が池跡を過ぎると、中山道は、やがて杉林の道になります。



杉林を抜けると、右手に「歴史街道 中山道 東山道 横川駅跡 梓」と刻まれた大きな石碑と、道祖神がたくさん入っているお堂がありました。





そこから、中山道は、国道21号と名神高速を左手に見ながら平行して進みます。



ここにも、道祖神がたくさん入っているお堂があります。







梓河内のバス停を過ぎて、梓集落を抜けて行くと、松が少しある並木道になりました。







やがて、街道は、国道21号にぶつかるので、案内板に従い、国道21号を横断して、国道21号の反対側の歩道を歩いて行きます。





中山道は、国道21号から左の細い道へ入ると、直ぐに一色集落です。



直ぐに、「八幡神社」があり、その先に「一里塚の跡」の碑があり
ました。






その先に、上の写真の古くて長い塀の立派な家があったので覗いてみると、下の写真のツルベの付いた古い井戸がありました。





間もなく、醒ヶ井宿に入ります。

柏原宿から醒ヶ井宿までは、約6キロです。




59:今須へ

61:醒ヶ井へ

                 00:目次へ戻る