(写真は、江戸初期の創業で、現在も営業を続ける鰻屋兼旅籠の「丁子屋」)
朝、芦野温泉ホテルを出て、「芦野宿」への坂道を下りて行き、宿場町の入口に着きました。
「芦野宿」は、那須7騎の一人である芦野氏の城下町として発展し、江戸時代は、旗本で
3千石の芦野氏の知行地となりました。
芦野氏は、那須一族の血をひく名門だったため、1万石以上の待遇を受け、参勤交代も
行いました。
また、奥州街道の宿場として、40軒余りの旅籠がありました。
芦野宿に入ると、右手に、日本三聖天の一つという上の写真の「三光寺」があります。
三光寺を後にして、芦野宿の中心街に進んで行きます。
芦野宿に入ると、 道の両側の各々の軒先に、屋号を記した石灯篭が建っています。
芦野の交差点で右折して、芦野郵便局の横を通って進むと、芦野家の重臣だった
「平久江(ひらくえ)家」で、現在も、ご子孫が住まわれています。
写真の「平久江家の門」は、上級武家屋敷の門が当時のまま現存しています。
平久江家の庭には、上の写真の左端の推定樹齢400年の「平久江家のしだれ桜」が
あります。
平久江家の前の道を進んで行くと、廃城になった館山城の本丸の跡に、上の写真の
那須歴史探訪館がありましたが、残念ながら閉鎖中でした。
この那須歴史探訪館の前の丘の上に、芦野氏の居城の「芦野城」(芦野氏陣屋跡)の
本丸、二の丸、三の丸の跡があるそうです。
城跡を目指して坂道を上って行きますが、急な坂道が延々と続き、途中で息切れして
しまいました・・・
心残りですが、今日は、まだ先が長いので、急な坂道を芦野のメインストリートの交差点
までまで引き返します。
メインストリートの右手の奥に芦野氏の菩提寺の「建中寺」があります。
寺の右側を上がって行くと、小高い所に、歴代の芦野氏と家族の墓がありました。
江戸中期になると、当主の芦野氏は江戸滞在が多くなり、亡くなると、駒込千駄木の總禅寺
に葬られ、菩提寺であるここ建中寺には、遺髪のみが埋葬される様になったそうです。
街道のメインストリートに戻ります。
上の写真は、「石の美術館」ですが、この辺りに「臼井本陣」があったらしいです。
地場産の芦野石を使った上の写真の「石の美術館」は、あの新国立競技場を設計した
隈研吾氏の設計らしいです。
上の写真は、「旅籠・吉川屋」の跡に建つ「ほてい屋」です。
下の写真は、江戸初期の創業の旅籠「丁子屋」(ちょうじや)で、現在は15代目の当主
だそうです。
店の奥には、当時からの蔵屋敷が残っているそうです。
現在も、旅館と割烹の兼業で、この店の鰻は、江戸時代からの名物だそうです。
お昼近くになったので、その名物の鰻重(2,500円)を頂きます。
鰻重で満腹になり、メインストリートを進むと、1717年建立の新町の地蔵尊のところで
芦野宿は終わりでした。
ここで、奈良川を渡って国道に合流します。
芦野宿を出ると、直ぐ左手の「那須湯泉(ゆせん)神社」へ向かう参道の脇の石囲いの中に
「遊行柳」(ゆぎょう やなぎ)があります。
遊行柳を訪れるのは、「奥の細道バスの旅」に続いて2度目です。
(バスの旅のときの遊行柳については、(遊行柳)を見てね。)
遊行柳は、 時宗の宗祖である一遍上人(遊行上人)が、旅の途中で使用していた
柳の杖が、ここに根付いて柳になった、という伝説に由来します。
西行法師も、ここの柳を詠みました。
”道のべに 清水流るる柳かげ しばしとてこそ 立ちとまりつれ”(西行法師)
(旅に疲れて、道の脇の清水が流れている柳の木の下で、しばらく休もうと思って
立ち止まった。)
西行のこの歌は、謡曲「遊行柳」の舞台で詠われたため、これにより、芦野の柳は
「遊行柳」として広く世に知られ歌枕の地になっていました。
芭蕉もまた、尊敬する西行法師ゆかりのこの柳を見に行き、柳の木の下で、
もの思いにふけりながら詠みました。
”田一枚 植えて立ち去る 柳かな”
(有名な柳の陰で西行法師を偲んでいると、いつの間にか時間が過ぎ、気がつくと
早乙女たちは田を一枚植え終えて立ち去ってしまった。)
「遊行柳」から国道に戻って、次の白坂宿を目指して歩いて行きます。
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