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奥州街道を歩く 22:大田原




(写真は、道標を兼ねた大きな金属製の「金燈籠」)

前日は、早朝に東京駅から東北新幹線に乗り、那須塩原駅で下車、駅前から
路線バスで佐久山宿に着きました。 

そして、奥州街道を、佐久山宿から大田原宿まで歩き、大田原宿の入口から
路線バスで、JR西那須野駅前のビジネスホテルに向かいました。 


今朝は、西那須野駅前のビジネスホテルを出て、9:20の路線バスに乗り、
9:56に大田原市内の末広二丁目で下車、前回ゴール地点の神明交差点まで
少しだけ歩きます。
 


下の写真の神明交差点が大田原宿の入口で、その交差点から、「薬師通り」
と呼ばれる大田原市の中心街に入って行きます。




大田原宿は、戦国時代の1545年に、那須氏の家臣の大俵(たいひょう)氏が
大田原城を築城して城下町を開いたのが始まりです。

江戸時代には、人口1,428人、戸数245で、うち本陣2、脇本陣1、旅籠43の
賑やかな宿場でした。

大田原宿を支配した「大田原」氏は、当初は、「大俵」と書いて、”たいひょう”と
読みました。

その後、改名して、「大俵」の字を「大田原」と改め、”おおたわら”と読むように
しました。

う〜うん?、ややこしい・・・



「薬師通り」を進むと、左側には、寺全体が大田原城の西の守りだったという
「薬師寺」があります。









薬師堂内の金剛力士像、境内の七重塔、舎利塔など、いずれも市文化財です。








薬師通りを更に進むと、左手の大田原信用金庫の前に、写真の「那須与一像」
が建っています。



大田原宿は、那須与一のゆかりの土地ということらしいです。

那須与一は、源平の屋島の戦いで、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を
射落とした、という逸話で有名です。

薬師通りは、やがて金燈籠交差点に出ます。



交差点の手前の左角は、「金燈籠ポケット公園」になっていて、大きな金属製の
「金燈籠」( かなどうろう )が建っています。

金燈籠は、江戸時代末期の1819年に建立されましたが、太平洋戦争時に供出、
その後、昭和54年に復元されました。



但し、石の台座の部分は、江戸時代のままで、写真の様に、道標として、
西側に「江戸」、東側に「白川」と大きく彫られています。





また、この小公園内には、金燈籠の説明の石碑と、「旧奥州道中 大田原宿」
の石柱が建っています。



金燈籠のある交差点を直進して、その先の交差点を左折します。

左折した道を少し進むと、江戸時代には旅籠屋「上州屋」だったという
下の写真の「ホテルみつや」があります。





その「ホテルみつや」の角に、写真の「旧奥州街道 大田原 寺町」の道標が
あるので、これに従って右折します。



この辺りが、大田原宿の外れ近くで、城下町特有の枡形になっています。





この枡形を抜けて少し歩くと、左手に、上の写真の真新しい本堂の龍泉寺が
ありますが、その左脇の左にカーブする道路の先に、下の写真の「光真寺」が
あります。





山門をくぐると本堂があり、その左脇に、1545年にこの寺を建立した大田原資清の像があります。







光真寺は、大田原藩主の菩提寺なので、本堂の左奥には、歴代の大田藩主の
墓が並んでいます。



大きな宝筐印塔がずらりと並んでいる風景は圧巻です!



もとの龍泉寺の前の道に戻り、奥州街道を少し進むと、左手に「大田原神社」
の石段が見えてきます。



807年創建の大田原神社は、大田原城築城に際し、大田原資清が大田原城の
鎮守社としました。

急な階段を上り左に折れると参道で、その奥に本堂があります。







狛犬というより狛オオカミとか狛キツネとかでしょうか?

表情が何だか怖いです・・・


今朝は、大田原の宿場町の入口からスタートして、道標を兼ねた金燈籠、
大田原藩主の墓が並ぶ光真寺などを見学し、宿場町の外れの大田原神社
まで歩いて来ました。





太田原神社には、旧奥州街道をまたいで、大田原城址の入口へ渡れる
写真の横断歩道橋が架かっています。










大田原城は、1545年、大田原資清(すけきよ)によって築城された平山城
(ひらやまじろ)です。

資清は、大田原城を築いて居城とすると同時に、それまでの「大俵」から
「大田原」へと名を改めました。


関ヶ原の戦いの直前、家康は、大軍を率いて上杉景勝討伐のために出陣
します。

その際、家康は、急遽、大田原氏に城の修理を命じて、上杉氏の攻撃に
備えさせました。

関が原の戦いのあと、大田原氏は1万2千石の大名となります。

徳川幕府は、奥州への備えとして、大田原城を重視していました。

しかし、戊辰戦争の際には、大田原藩が逆に新政府軍に付いてしまった
ために、大田原城は新政府軍の会津攻めの重要拠点になってしまいました・・・


このため、大田原城は、旧幕府軍の攻撃を受けて三の丸が炎上してしまいますが、何とか
落城だけは免れました。


そして、明治4年に廃城となります。

現在は、「龍城公園」として整備されて、お花見の名所になっています。  




大田原城は、本丸・二の丸・三の丸に区画され、この外に、北側と西側に曲輪(くるわ)が
ある複郭式の平山城です。


本丸を囲む土塁は非常に高く、写真の様によく残っていて、素晴らしいです!



(本丸の土塁の上から)

そして、この高い土塁はウォーキングコースにもなっており、地元の方々が散策していました。

高い土塁のウォーキングコースなんて素敵だと思いませんか?



(本丸跡)

また、本丸の土塁以外にも、堀切、空堀、三日月堀などの遺構も残っています。

全体としては、曲輪の形が分かりやすく残っており、非常によく整備された公園になって
います!




そして、木立を通して大田原の街並みもよく見えます。



(本丸土塁上から)



(本丸跡)



(二の丸跡)





(硝煙庫跡)





(台門跡)





(北曲輪跡)



(北曲輪跡)



(北曲輪跡)



(坂下門跡)





(三日月堀)






(本丸土塁上から蛇尾川を見る)
城の北側には、”じゃびがわ”とも 呼ばれる「蛇尾川」(さびがわ)が流れています。

現在、整形外科の先生の指示で、「1日5キロの歩行制限」の条件付きで街道歩きを
しているため、このあと、今日の残りの3キロ程度を歩いたら、日帰り温泉にでも浸かって
のんびりと過ごす予定です。


そういう訳で、「安心して下さい。大田原市内の日帰り温泉は、ちゃんと調べてありますよ!




本丸の土塁から、蛇尾川の河原への階段を下りてみます。



大田原城跡の対岸に、日帰りの大田原温泉があることを事前に調査済みなのですが・・・

あっ!、対岸に、大田原の日帰り温泉施設と宿泊施設の大きくて立派建物が見えます!



このあと、対岸に渡り、日帰り温泉にゆっくりと浸かって生ビールでも飲みながら昼食を
食べ、残りの3キロを歩いてから横浜に帰る予定です。




朝から、大田原の金燈籠や歴代大田原藩主の墓などを見て回り、宿場の外れの「大田原城址」を
見学したところで昼過ぎになりました。




先程、太田原神社から大田原城址の入口へ渡った高架の横断歩道橋が、上の写真の中央に
見えています。

大田原城址公園前のバス停がある奥州街道を少し進み、「蛇尾川」(さびがわ)に架かる蛇尾橋を
渡ります。










橋の上から振り返ると、左手に大田原城址の崖の木立が見えます。

蛇尾橋を渡り、先程、大田原城址の対岸に見えた「大田原温泉・太陽の湯」に向かいます。



目指す日帰り温泉は、上の写真の「ホテル竜城苑」に併設された下の写真の平屋の建物で、
「大田原温泉・太陽の湯」の看板が出ていました。





私は、当初、この奥州街道沿いの「ホテル竜城苑」に泊まるつもりでインターネット検索したのですが、
1泊2万円以上の部屋しか
空きがなかったので、仕方なく、西那須野駅前の1泊4千円のビジネスホテルを予約しました・・・

「日帰り温泉・太陽の湯」は、ホテル竜城苑の併設の温泉なので、入浴料は高めかなと思いました
が、意外に安く700円でした。



施設は新しくて清潔感があり、内風呂には、大浴場の他にサウナも付いていました。

露天風呂は、広い岩風呂と檜風呂があり、気持ちがいいです。

温泉は無色透明ですが、スベスベ感があり、少し硫黄の臭いがします。

飲食スペース、マッサージ、ゲームなどの施設も充実していました。



お昼過ぎだったので、湯上りに、生ビールを飲みながら、写真のランチ(750円)を食べます。

そして、未だ時間も早いので、ついつい良い気分になり、生ビールをもう一杯・・・

私の街道歩きのタイトルを、”完全踏破の一人旅”から、”温泉三昧一人旅”に変更しなければ
ならない感じになりました・・・?


ほろ酔い気分で「太陽の湯」を出て、蛇尾橋に戻ります。

奥州街道は、蛇尾橋を左手に見て、大きく右にカーブして県道72号になります。



道は一直線で、やがて左手に、広大な富士電機の工場の正門が見えました。





その後は緩やかな上り坂になると、左手に、写真の立派で広大な家がありました。





塀の脇には、上の写真の真新しい説明の石碑が立っており、それによると、この家は平家の
末裔の「瀬尾家」で、ここは「居館(中田原城)跡」らしいです。






更に、一直線の道をどんどん進んで行き、巻川に架かる二本松橋を渡ると、少し先の
セブン・イレブンの駐車の脇に写真の「中田原の一里塚」がありました。





右側の塚は失われ、左側の塚が少し削られた形で残っています。







中田原の一里塚から、更に1キロくらい歩いた写真の市野沢小入口の交差点には、「黒羽刑務所の
作業製品の展示場へ お気軽にお寄りください」と大きく書かれた目立つ看板が立っています。





つい、刑務所の広告看板?に気を取られてしまいましたが、実は、この交差点は、奥州街道と
「棚倉街道」の追分(小滝入口分岐点)なのです。



交差点の角には、刑務所の広告看板に隠れる様に、「記念物 (史蹟)道標」の白杭が立っており、
大小3基の「道標」と「聖徳太子顕彰」の石碑があります。




案内板によれば、「道標」には、正面は「南無阿弥陀仏」、側面には「右 たなくら(棚倉)、
左 しらかわ(奥州街道の白河宿)」と彫ってあるそうです。

しかし、案内板の立っている位置が曖昧なうえに、文字が風化してしまっているので、大小3基の
道標うちのどれの説明なのかわかりません・・・




「棚倉街道」は、茨木県の水戸藩の城下町と福島県の棚倉藩の城下町を結ぶ街道です。

1629年、有名な「紫衣事件」(注)で、流刑地の羽州上山(かみのやま)と奥州棚倉に流されることに
なった沢庵と玉室は、この追分で別れを告げました。


(注)紫衣(しえ)事件

   「紫衣」とは、天皇の勅許を受けた高僧だけが着けることが出来る紫色の袈裟の事です。

   幕府は、朝廷がみだりに紫衣を高僧に授けることを禁じましたが、後水尾天皇はこれを
   無視して、従来の慣例通りに紫衣を与えました。

   これに腹を立てた幕府が、これまでの朝廷の紫衣勅許を全て無効にした、という事件です。

   寺院の僧達も激しく幕府に抵抗しましたが、幕府のこれに対する態度は厳しく、有名な
   沢庵和尚や玉室らは流罪となりました。


追分から更に暫く歩くと、練貫(ねりぬき)交差点に来ました。



この辺りの交差点の表示は、交差点ではなくて十文字と表示されており、バス停の名前も
練貫十文字です。

なるほど、十文字の交差点のイメージが湧きやすくて分かり易いです。

ここ練貫交差点のバス停から乗って、約20分で太田市役所へ戻り、バスを乗り継いで
JR西那須野駅へ向かい、東北本線と新宿湘南ラインで、今晩、横浜の自宅に戻る予定です。

現在、15:45ですが、大田原市街地に戻る最終のバスの時刻は、何と!15:14で、最終便が
行ってからもう30分も過ぎてしまっています!!



えぇ〜?、最終便に乗り遅れた?、ウソ〜・・・

最終便が15:14なんて早すぎない?、と、事前に最終便の時刻を調べてはいたものの、ついつい
愚痴が・・・


「大田原温泉・太陽の湯」で、のんびりと生ビールを飲み過ぎて、気持ちが大きくなってしまった
ので、最終便の時刻への緊張感が鈍ったのかな〜?


う〜ん?、電車も無い、バスも無い、タクシーも走ってない、聞く人も歩いてない、こんな田んぼの
中のバス停で、日没になったらどうすればよいの?

ホントに、参ったなあ〜・・・

途方に暮れ、バス停の前に呆然と立ち尽くしてしまいます・・


生ビール2杯のほろ酔い気分も完全に醒めて、どうやったら、ここから横浜の自宅まで、今日中に
帰宅出来るか?考えを巡らせます・・・


色々な方法を考えてみますが、日没が迫る中で、電車も無い、バスも無い、タクシーも走ってない、
聞く人も歩いてない、こんな田んぼの中のバス停からのスタートでは、良いアイデアが浮かんで
きません・・・


しかし、バス停の時刻表を何回も見直しているうちに、あることに気付きました!



私が最終便に乗り損ねたバス路線の名称が「金田方面”循環”線」となっています。

ん?、”循環”と言うことは、ひょっとして、逆方向の郊外へ向かう便に乗れば、巡り巡って目的地の
大田原市の繁華街に着く?


幸いにして、逆方向へ行くバスは、未だ2本あります。

このバス停であと30分待てば、反対方向の郊外に向かう 16:12 のバスが来ます!

目的地までどれくらい時間がかかるか分からないけど、トライしてみるか?

他にすることもなく、まだ時間があるので、じっくりとバス停の時刻表の注意書きを読みます。

注意書きによると、ここでは、市街地へ向かう側にはバス停がありますが、反対側にはバス停が
ない旨が記載されています?

何か嫌な予感が・・・

不安な気持ちでバスを待っていると、定時にバスがやって来ました。

思わず、私は、歩道から道路側へ1歩踏み出します。

しかし、不安な気持ちが的中!、バスは私に気付かずに通り越して行きました!

股関節炎の痛みも忘れて、必死で、手を振りながら、バスを追いかけます!

バスのサイドミラーに、必死で追いかける私の姿が写ったのでしょうか、気付いて直ぐに止まって
くれました。


息を切らせながら、バスの中程の席に座りました。

お客は、私一人でした。

それから、バスは、かなりの距離を走りましたが、いつまで経っても私が下りる気配がないから
でしょうか、
運転手さんの不信の眼差しを感じます・・・

それはそうですよね。

市街地に向かう最終便ではなくて、観光地でもない僻地へ向かうローカル路線の最終便に、
リュックを背負った変なオジサンが、一人で無言で座っている訳ですからね。



怪しまれているみたいなので、一番前の席に移って、事情を説明します。

事情を聴いた運転手さんは、「なるほど、確かに、この方法しかないですね。」と納得してくれました。

ほっ!・・・

事情説明のために、運転手さんの斜め後ろの一番前の席に座ったので、運転手さんとの世間話が
始まりました。




運転手さんの説明によると、郊外へ向かうバス便だけが遅くまであるのは、最終便を、農村地帯
から通う生徒の部活が終わる時間に合わせてあるのだそうです。


なるほどねえ〜、私は、部活対策のバス便に救われた訳だ!





その後も、お客は私一人だったので、やがて、親切な運転手さんは、停留所毎に、その辺りの
説明と、その近くの観光スポットの案内を始めてくれました。






やがてバスは、「黒羽刑務所」の中に入って行きます!



えっ、バスは、刑務所の中に入れるの?





まさか、先程、奥州街道と棚倉街道の追分で見た上の写真の黒羽刑務所の広告看板の場所の
中に、その数時間後に、入って行くことになるとは、夢にも思いませんでした!



運転手さんの解説によると、芸能人がヤクをやって捕まったときは、この黒羽刑務所に収監される
ので、そのときは、この辺りに、マスコミのカメラの放列が出来て、大変な賑わいになるそうです。




黒羽刑務所を出たバスは、東部集落、小滝集落など、「集落」という名前のバス停を通過して
行きます。




いかにも”集落”というバス停の名前と周辺の風景がピッタリくる様な、長閑な雰囲気の田園風景です。







暫く走ると、狭い田んぼ道の前方から、耕運機がこちらに向かってきます。



すれ違いが出来ないので、バスが道幅が広がる場所までバックして行きます。



その後も、バスは、遮るものがない広々とした田畑の中を走って行きますが、運転手さんの話しだと、
この辺りは、風が非常に強くて、バスが風に流される感覚のこともあるそうです。

怖っ〜・・・



日没が迫ってきます。



循環バスが市街地の大田原市役所に着いたときは、辺りは既に真っ暗になっていました。

ここで、運転手さんに丁寧にお礼を言って、バスを乗り換え、JR西那須野駅に向かいます。

今日は、期せずして、贅沢な市内循環バスの旅になってしまいましたが、1時間近くも乗って、
更に観光案内もしてもらって、これで200円(市営バスは一律200円)では、申し訳ない気持ちで
いっぱいです。


JR西那須野駅から8駅先の宇都宮駅で、上野東京ラインに乗り換えて、夜遅くに無事に横浜へ
帰宅しました。




21:佐久山へ

23:鍋掛


        
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