(写真は、「武家屋敷跡」の「御用堀」)
「喜連川(きつれがわ)」は、源平合戦で、源氏側に参戦して戦功があった
塩谷五郎が、この地に城を築いたのが始まりです。
江戸時代には、喜連川足利氏(1万石)の城下の宿場町として、本陣1軒、
脇本陣1軒、旅籠19軒がありました。
喜連川藩は、石高は1万石に過ぎませんが、足利尊氏の流れを汲む
「古河公方」の格式を誇り、幕府も参勤交代の義務を免除するなど、普通の
大名とは異なり、別格扱いでした。
大大名の仙台藩主・伊達氏が、喜連川を通りかかったとき、喜連川藩主が
橋の下で釣りをしていましたが、伊達氏は、頭上を素通り出来ずに、釣りが
終わるまでの長い間、大名行列を止めて待っていたそうです。
驚き!
そして、ここの本陣・脇本陣には、奥羽・越後・下野など37もの大名が
宿泊しました。
それにしても、「喜連川宿」の「喜連川」という変わった地名の由来、
気になりますよね?
そもそも、「喜連川」という川は存在しません?
足利時代、この辺りの「荒川」の上流は、狐が住んでいたので「狐川」と
呼ばれていました。
しかし、「きつね川」ではあまりパッとしないというので、縁起を担いで、
この町を流れる3つの小川が、”喜んで連なって流れる川”という意味で、
「狐(きつね)」を「喜連(きつれ)」に置き換えたそうです。
従って、元が「きつね川」と発音が濁らないため、「きづれ川」と濁らないで
「きつれ川」と読みます。
なるほどね!
その関係でしょうか、「きつねの嫁入り」のイベントのポスターが、宿場町の
随所に貼られています。
喜連川宿の入口に架かる連城橋を渡り、宿場町に入ります。
喜連川宿は、静かな街並みで、何処となく宿場町の雰囲気を残しています。
宿場町の街道沿いの左側に、「御用堀」の案内板が出ています。
案内板に従って、路地を入って行くと、「武家屋敷跡」の立派な塀に沿って
「御用堀」が続いています。
説明板によると、藩主の喜連川氏が、飲料、灌漑、防火用水の目的で堀を作ったもので、当時は、城の中まで通じていたそうです。
車も通らず、人通りも少ない、落ち着いた雰囲気の古い家が並んでいます。
御用堀の水路の中を覗いてみると、大きな鯉が泳いでいました。
武家屋敷跡を更に奥へと歩いて行くと、右手の細い道の奥の階段の上に、
写真の「喜連川神社」がありました。
案内板によると、喜連川神社は、”あばれ御輿”の行事で有名なのだ
そうです。
喜連川神社から、宿場町の通りに戻って、本町の交差点を過ぎると、
右手に、喜連川足利氏の歴代の墓所である「龍光寺」の案内板が出ています。
案内板に従って、路地を入って行くと、前方に朱色の山門が見え、山門を
くぐると、正面が龍光寺の本堂です。
この寺の創始者は、何と!、足利尊氏だそうです!
龍光寺の本堂の左手に、喜連川足利氏の歴代の廟所がありました。
龍光寺は、代々、喜連川足利氏の菩提寺として、寺領50石で、喜連川藩の
加護を受けたそうです。
龍光寺を出て街道に戻り、少し歩くと、「街の駅本陣」の看板が見えました。
ここが、かつての本陣跡みたいです。
本陣跡には、大正15年に警察署が建てられ、現在は、その警察署は、
現在は上の写真のレストランになっていました。
上の写真は、本陣跡の敷地内にある「突抜き井戸」と呼ばれる”自噴井
(じふんせい)”です。
(自噴井:この辺りの地域では、特殊な地層の影響で、地下水に圧力が
かかっているので、井戸を掘ってパイプを差し込むと、地下水が噴水のように
噴き出すのだそうです。)
写真は、「脇本陣跡」で、明治天皇小休止の石碑と、脇本陣の位置を示す
松が植えられています。
宿場町の街道沿いには、蔵のある立派な建物もあり、落ち着いた雰囲気です。
上の写真の「笹屋」は、創業250年の老舗で、江戸時代には「萬ヤ」(よろずや)
の屋号で呉服商を営んでいました。
蔵造りの建物には江戸時代の名残りが感じられます。
未だ、お昼時ですが、整形外科医の指示の「1日5キロ制限」を守るため、
喜連川宿の見物を終わり、早々と喜連川のバス停へ向かいます。
ここ喜連川本町のバス停から路線バスに乗り、いったんJR氏家駅に出て、JR氏家駅から、今晩の宿を予約しているJR宇都宮へ戻ります。
現在、お昼の12:30ですが、JR氏家駅行きのバスの時刻は、
何と!
朝9:46の次は、夕方の17:26です!
えぇ〜?、ウソ〜・・・
あと5時間も、何もないこの田舎町で、どうやって過ごせばよいの?
途方に暮れ、バス停の前に呆然と立ち尽くしてしまいます・・・
バス停には、上の写真の喜連川宿の観光案内地図があったので、暫くの間
じっと見詰めていました・・・
地図をよく見ると、「寒竹囲いの家」の更に先の方に「もとゆ温泉」と書かれて
います。
温泉だと、ひょっとしたら日帰り入浴が出来るかも知れない!、と思い、
取り敢えず、その温泉に行ってみることにしました。
地図に従って脇道に入ると、下の写真の「寒竹囲い(かんちくがこい)」という
竹の生垣に囲まれた民家がありました。
その説明板によると、喜連川氏の六代藩主が、藩士の家の周りを板塀にすると
お金が掛かるので、経費削減のために、竹(笹)の生垣を奨励したそうです。
「寒竹囲いの家」から、立派な武家屋敷風の家を見ながら、更に狭い脇道を、
ずっと歩いて行きます。
やがて人家がまばらになり、何もなさそうな風景のところまで来ると、その前に
目指す「喜連川もとゆ温泉」の建物がありました。
この温泉は、さくら市の市営みたいで、入浴料300円を払って入ります。
施設は新しくて綺麗で、平日ですが地元のお年寄りで賑わっています。
温泉のお湯は薄い茶色ですが、風呂場の説明書きによると、この「もとゆ温泉」
は、”美肌の湯”として有名なのだそうです。
少し熱めのお風呂と、ぬるめのお風呂と、露天風呂の3種類の浴槽が
ありました。
ここで5時間を過ごすつもりで、ぬるめのお風呂に、ゆっくりと浸かります。
しかし、1時間も入っていたら、湯あたりしそうになったので、食事処へ移って、
盛りそば(400円)を食べます。
そのあとは、休憩所の畳の上に横になって一休みしましたが、ここで過ごす
のは3時間が限度でした。
「もとゆ温泉」を出て、宿場町のメインストリートに戻ります。
温泉で3時間を過ごせたものの、バスの時間まで未だ2時間もあります・・・
上の写真の大正時代風のモダンな建物の「観光情報館」に入ってみます。
観光情報館のお姉さんに、時間の潰し方?を相談してみます。
”街道沿いの史跡は見終えたけれども、この近くで、どこか2時間くらいかけて見物するところはありませんか?”
すると、お姉さんが親切に教えてくれました。
”現在、「喜連川城跡」は、震災修復の工事中で原則立入り禁止ですが、
途中までの見学は可能です。
途中まで行けば、城跡の主要な部分は見学出来ますよ。”
「観光情報館」の展示資料によると、源平合戦で源氏側に参戦し、戦功の
あった塩谷五郎が、喜連川付近に領地を賜り、1186年、喜連川城(当時は
大蔵ヶ崎城)を築いて居城としました。
以降、喜連川城を居城とした塩谷氏の支配は、17代400年にもわたって
続きました。
しかし、戦国時代に入ると、17代・塩谷惟久が、豊臣秀吉による小田原征伐の
際に遅参したとして改易されてしまいました。
そして、秀吉は、塩谷氏の後釜を、室町幕府の将軍家・足利氏にしました。
これは、当時、名門の足利氏が断絶しそうになっていたので、秀吉がこれを
惜しんだためだそうです。
そして、江戸時代に入ると、足利氏の後裔という家柄が徳川家にも重んじられ、
10万石格の格式が与えられて、参勤交代の義務なども免除されます。
足利・喜連川氏の支配は幕末まで続きました。
明治3年、喜連川城は廃城となりますが、城の遺構としては、一の堀、二の堀、
三の堀、四の堀の空堀や土塁などが残されました。
昭和に入り、城跡は「お丸山公園」として整備され、山頂には、高さが
50メートルもある「喜連川スカイタワー」が造られました。
しかし、2011年の東日本大震災により、喜連川城跡は壊滅的な被害を受け、
お丸山公園への立ち入りは禁止されました。
現在も、喜連川城跡の損傷は激しく、復旧に多額の費用を必要とする
スカイタワーなどの施設は復旧の目途がたっていません・・・
観光情報館のお姉さんにお礼を言って、「喜連川城跡」を目指して、
教えられた通りに、観光情報館の少し先の市役所の駐車場へ向かいます。
市役所の駐車場の奥に、再建された「喜連川城大手門」がありました。
大手門の先に「お丸山公園」と書かれた門があり、お丸山公園の急な道を
上って行くと、山頂の本丸跡と思われるところが広場になっていました。
ここからは、喜連川の街並みが良く見渡せ、真下には、先程入浴した下の
写真の「もとゆ温泉」の建物も見えます。
右手の道を進み、朱色の橋を渡りますが、下を覗くと、非常に深くて幅も広い
堀があります。
更に進むと、堀の向こう側に「喜連川スカイタワー」が見えましたが、
ここから先は、工事中で進めないため引き返します。
喜連川城跡の見物を終わり、喜連川のバス停へ向かいます。
ようやく、17:26発の路線バスに乗り、いったんJR氏家駅に出て、JR氏家駅
から、今晩の宿を予約しているJR宇都宮へ戻ります。
JR宇都宮駅で恒例の餃子(12種類の餃子食べ比べセット:850円)を食べて
から、今晩の宿のビジネスホテルへ向かいました。
(パークプラザ宇都宮:4,480円)
早朝に、宇都宮のビジネスホテルを出て、JR宇都宮駅から東北本線に乗り、
3つ先の氏家駅で下ります。
氏家駅前から、始発の路線バスに乗り、昨日のゴールの喜連川宿のバス停に
着きました。
喜連川宿は、昨日、隅から隅まで見物したので、直ぐに、宿の北の外れへ
向かいます。
宿場の外れに、由緒がありそうな立派な門構えの写真の「たかしお薬局」が
ありました。
宿場町を抜けると、三叉路の台町信号に出ます。
三叉路の正面の一段高い位置に、1724年建立の「右 奥州街道 左 在郷道」
と刻まれた道標がありました。
この道標に従い、台町交差点の手前を右折する細い道を下りて行きます。
(写真の赤線矢印)
坂を下った突き当りを左折し、「内川」に架かる「金竜橋」を渡ります。
金竜橋を渡ると、旧奥州街道(114号)は、緩やかな上り登り坂となり、
真っ直ぐに北上して、次の佐久山宿へ向かいます。
白沢宿にあった下の写真の説明板によると、今日の喜連川宿から佐久山宿
への歩行距離は5.3キロなので、股関節炎のために、私が整形外科から
課せられている1日5キロの歩行制限にピッタリの行程です。
(19.0キロ ー 13.7キロ = 5.3キロ)
旧奥州街道の上り坂の途中の「金鶏神社」を右手に見ながら進むと、
少し先に、下の写真の大きな「双体の道祖神」がありました。
上り坂が少し緩やかになったころに、菖蒲沢公園の信号機があり、
その左手には、JR東日本が開発した「びゅうフォレスト喜連川」の看板が
あります。
私は以前から「喜連川」の地名だけは知っていました。
それは、私が通勤に利用していた京浜東北線の車内や駅に、長い間
「びゅうフォレスト喜連川」の広告が大々的に掲げられていたからでした。
(現在の横浜・桜木町駅のホームの「びゅうフォレスト喜連川」の巨大な
広告ポスター)
JR東日本が開発した戸建て団地なのに、何故、何年も売れずにしつこく
車内広告を続けるのだろう?、とずっと不思議に思っていました。
ここへ来てなるほど!、と納得しました。
こんなバス路線もない、人家もない様な不便な土地の一戸建てを買う人は
少ないでしょう・・・
それにしても、最大手のJR東日本が何故こんな辺鄙な土地の開発を?
旧奥州街道は、森林の中を進みます・・・
やがて、街道は田園風景に変わり、「JA栃木 米コシヒカリ」の大きな倉庫を
右手に見ながら歩き続けます。
間もなく、道は一直線に続く広い道路になり、その真っ直ぐな道を延々と
歩いて行きます・・・
変だなあ〜?
喜連川宿をスタートしてからの時間と歩数からすると、もう5キロを超えており、
とっくに次の佐久山宿に着いているハズなのに?
しかし、行けども行けども、一直線の道が続き、どう見ても、旧奥州街道の
雰囲気ではありません・・・
どう見ても、道を間違えてしまいました。
しかし、どの分岐点で道を間違えたのか?
ここは、電車も路線バスも走っていないし、道を聞く人も歩いていないし・・・
仕方なく、殆ど車も人も通らない道を、次の集落まで延々と歩いて行きます。
かなりの距離を歩いて行くと、やがて小さな集落に入り、下河戸駐在所の
建物の先の丁字路に、「直進 25号線 矢板、右折 114号線 大田原」の標識
が見えました。
右折する道の先の方を眺めると、右側に大きな道祖神が見えます
道端に道祖神が立っているということは、右折する道は、旧奥州街道の
可能性が大です!
やった!!
てっきり道を間違えたと思いながらずっと歩いて来ましたが、どうも正しい道を
歩いていたみたいです。
足を痛めているだけに、来た道を引き返さずに済んで、結果オーライで嬉しい
です!
大きな「道祖神」の後ろには「天皇御小休之際御膳水」碑が建っています。
道祖神を過ぎると、建物もまばらになり、やがて旧奥州街道は下り坂に
なります。
街道の脇には、「源氏ぼたるの里」の看板があるので、多分、この辺りは
ホタルで有名なのでしょう。
それにしても、もうとっくに5キロは歩いているのに、次の佐久山宿へ入る
気配は全くありません・・・
あの白沢宿にあった、喜連川宿から佐久山宿への距離表示の説明板は
何だったのだろう?
更に進んで行くと、右手に「きつれ川幼稚園」と「老人ホーム」があり、
そこに「明治天皇御休輦之處」碑が建っていました。
そして、更に、田園風景の中を延々と歩いて行くと、さくら市と大田原市の
境の看板があり、その更に先に、写真の「与一の里の名木」の説明板が
ありました。
その説明板によると、ここは、高久宅の樹高5メートルのツツジ群で、
推定樹齢200年だそうです。
大田原市は、源平合戦で、弓で活躍した那須与一の出身地です。
そして、その先も「48号線 大田原市街」への標識に従い、延々と歩いて
行きます。
その標識に従い、丁字路で左折すると、ようやく佐久山宿の入口の佐久山
前坂の交差点に着きました。
交差点の角に和菓子の松月があり、その和菓子屋の右側の長い坂道を
下ると、ようやく佐久山宿の中心の通りです。
喜連川宿から佐久山宿までは、約12キロです。
当初は1日5キロ制限に収まる距離だと勘違い!、結果的には制限の
倍以上の12キロもありましたが、足の痛みが再発しなかったのは幸いでした。
それにしても、白沢宿にあった下の写真の喜連川宿から佐久山宿への
宿場間の距離表示板は、いったい何だったのでしょうか?
ps.
上記の白沢宿の距離表示道標については、hide-sanさんから、下記の
コメントがありました。
「道標の佐久山宿まで 6里12町 − 3里18町 = 約3里(12キロ)
の方を利用すれば良かったですね。
こうした間違いに気付かなかったのを不運と諦めることですね。
時々、道標や案内が間違っていることがあります。」
hide-sanさん、ご指摘ありがとうございました。
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