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奥州街道を歩く 19:氏家




(写真は、光明寺の不動明王坐像)

奥州街道踏破のスタート早々に、足の付け根を痛めてリタイアを余儀なくされた
ので、帰宅後直ぐに、近くの整形外科に行きました。

診察の結果、レントゲン写真ではよくわからず、更にMRI撮影をしたところ、
足の付け根の骨の周りに水が溜まっているので、安静にしなさいとのこと。

それでも、何とか奥州街道歩きを続けたい旨を先生に訴えると、「1日の歩行距離を5キロ程度に抑え、毎週診察を受けること」を条件に許可が下りました。

う〜ん・・・、都内を5キロ刻みで歩くことは可能ですが、電車もバスもない
田んぼの真ん中で、1日5キロを終了しても、その後、どうすればよいの?

でも、とにかく、何とか英知を絞って、「1日5キロ」のプラン策定するしか
ありません。



早朝に、JR横浜駅から、上野東京ラインに乗り、宇都宮駅で東北本線に
乗り換え、宇都宮から3つ先の前回ゴールのJR氏家駅で下ります。

整形外科で貰った足の痛み止めを飲み、湿布薬をたっぷり貼って、
「1日5キロ計画」のもとに、JR氏家駅前をスタートします。




ここ氏家の地は、鎌倉時代、宇都宮氏が勝山に築城して、この地を支配して
いました。

そして、宇都宮公頼が、この地域を「氏家郡」と称し、この地名をとって自ら
「氏家氏」を名乗りました。

1597年、宇都宮氏の滅亡に伴う勝山城の廃城で、禄を失った家臣達の一部が
ここ氏家に住み着き、宿場としての町並みを開きました。

ここ「氏家宿」は、もともと、鬼怒川の水路が江戸まで通じていたため、宿場町の端の「阿久津河岸」が鬼怒川舟運の起点となっていました。

そして、1627年には「奥州街道」が開通し、更に1695年に「会津中街道」
(氏家〜会津若松)が開かれ、また「会津西街道」(氏家〜大内〜会津若松)
の整備もあって、「氏家宿」は、物資の集散地として、また、交通の要衝として
繁盛しました。



JR氏家駅の東口を出て、駅前の道を右折した小道沿いに、写真の
「蔦地蔵」
あります。





「蔦地蔵」は「定家地蔵」とも呼ばれています。



鎌倉時代、宇都宮氏によって形成された”宇都宮歌壇”は、藤原定家とも親交があったそうです。

その藤原定家との縁で、定家の7周忌に、”定家の面影を模した”という地蔵が
ここに建立されました。

う〜ん・・・、歌人・藤原定家とは、この蔦地蔵の様な顔をしていたのでしょうか?



「蔦地蔵」の奥の敷地は、氏家氏の始祖で、勝山城を築いた氏家公頼が、1191年に建立した
「西導寺」があります。



上の写真の西導寺の本堂は、1784年の建立です。




西導寺を出て、氏家駅東入口の信号を直進します。



氏家の中心部の街道沿いのは、宿場当時の面影は何も残っておらず、また
更地が目立ち、何となく淋しい雰囲気です。





直ぐに「光明寺」の山門が見え、その山門の先に、
「青銅不動明王坐像」
(県重文)が、凄い形相でこちらを睨んでいます!



1759年、宇都宮藩の御用鋳物師が造ったという高さ3メートルの不動明王が、
激しい憤怒の表情で露天に鎮座しています!



うわ〜!、ど迫力!、これは見ものです!



不動明王像の左手は本堂です。

光明寺を出て、更に進むと、下の写真の上町信号交差点に出ました。

この交差点を直進するのが「会津西街道」(氏家〜大内〜会津若松)で、
奥州街道は、ここを右折して48号線を進みます。



(赤色線が奥州街道、黄色線が会津西街道)

整形外科の痛み止めと湿布薬の効果か、これまでのところ、足の痛みはなく、
順調なウォーキングです。




氏家宿を抜けると、 直ぐに写真の五行川橋を渡り、桜野地区に入ります。





桜野地区の左手には、江戸時代に庄屋を務めたという上の写真の
「村上家」
残っています。



村上家の門には、写真の「水位痕」の張り紙がしてありました。



その説明書きによると、1683年、日光大地震で、鬼怒川の上流が堰き止められて五十湖が出来ました。

その五十湖が、1723年の暴風雨で決壊して、鬼怒川沿岸に甚大な被害を
もたらし、死者・千数百人が出たそうです。

これは、五十里洪水と呼ばれ、この村上家の門の張り紙は、そのときの水位痕を今に伝えるものでした。



(赤丸印が「水位痕」の張り紙の位置で、この高さまで洪水が襲ったことを示しています。




その「村上家」の隣にあり、下の写真の様な立派な長屋門を構えるのは、
明治25年建築の
「瀧澤家住宅」です。



「瀧澤家」は、明治時代に紡績業を営んで豪商となった家柄で、第四十一銀行の設立、那須野が原の開拓などに尽力したそうです。

広大な敷地を囲む白壁の塀に沿って歩いてみると、下の写真の様に、土蔵の
屋根の上に、珍しい形をした洋風の望楼がありました。





失礼して、門から少し中を覗かせてもらうと、広々とした敷地の中に、
県重要文化財だという蔵座敷などの建物が見えました。



瀧澤家住宅の少し先には、鎮守の八幡神社があります。



そして、奥州街道沿いには、十九夜塔、二十三夜塔(注)、野仏像などが点在し、街道の名残を感じさせます。

(注)十九夜塔、二十三夜塔
日本の民間信仰の一つで、十九夜、二十三夜などの特定の月齢の夜に
「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、
悪霊を追い払うという宗教行事(月待ちの行事)。

その月待ちの行事の供養の記念として造立したのが十九夜塔、二十三夜塔などです。




暫く歩いて行くと、街道沿いの立派なお宅の門の脇に、上の写真の「一里塚」の矢印がありました。

矢印に従って、このお宅の広い庭の中へ入って行くと、いきなり犬に激しく
吠えられ、立往生してしまいました!

すると、家の中から上品なオバサマが、慌てて出ていらっしゃいました。

「何か御用でしょうか?」

道路の一里塚の矢印に従って門から入ったところ、お宅の庭の奥まで入り込んでしまった、旨を説明しました。

すると、上品なオバサマは、「せっかく来られたのですから、塀の内側から、
一里塚跡の写真を撮っていって下さい。」と、親切に、門の脇の庭の中にある
「一里塚跡」へ案内して下さいました。



そこには、「一里塚」が残っており、塚の上に小さな祠がありました。



そそっかしい私のせいで、すっかりお手数をかけてしまい大恐縮です。



お礼を言って外へ出ると、オバサマの仰る通り、確かに、道路沿いに一里塚跡の標識と説明板があり、お宅の庭に入らなくても、外から、道路沿いに写真が
撮れる様にしてありました。



その説明板によると、奥州街道で現存する一里塚は、ほとんど無いらしいです。

そそっかしい性格のお陰で、貴重な遺構を、真近かで拝見させて頂いたことに
なります。


親切なオバサマの案内で、お宅の庭先の「一里塚跡」を見学させて頂いた後、
引き続き旧奥州街道を歩いて行きます。




この辺りからは、ほぼ住宅が途切れて、街道の両側は、長閑な田園風景が広がっています。





旧奥州街道が右に大きくカーブする地点には、「右折が喜連川」の交通標識が
現われます。



この大きなカーブの右手前の自動車修理工場の前に、写真の新旧2つの
「大黒天」があり、その土台には、明治時代の水準点記号が刻まれて
います?



説明版によると、明治時代に入って、国が奥州街道を測量した際に、この辺
一帯は水田地帯で、周囲に基準とすべき目安がありませんでした。

そこで、昔からある古い方の大黒天の台座に水準点記号を刻み込んで、
水準点として使用したそうです。
なるほど!



かなり見辛いですが、上の写真の赤丸印の部分に、漢字の「不」(「不朽物」
:恒久的に残るであろうもの)を彫って水準点としています。

大黒天の水準点のところを右に大きくカーブして、国道293号を進んで行きます。

やがて、江戸を発ってから、最初の本格的な坂だったという「弥五郎坂」に
差し掛かります。





弥五郎坂の一帯は、南の宇都宮氏と、北の喜連川城主・塩谷氏との合戦場
となり、喜連川軍の弥五郎が、ここ弥五郎坂で敵将を弓で討ち取りました。

(ちなみに、ここ栃木県塩谷郡の地名は、この喜連川城主・塩谷氏に由来します。

その後、弥五郎は敵将を供養する五輪塔をここ弥五郎坂に建立しました。

まもなく、この旧奥州街道沿いに、その弥五郎が建立した五輪塔が見える
ハズなのですが・・・



暫く坂を上ると、左手に、写真のニッカウヰスキーの円形看板が見えました。



え〜っ?、左手?

しまった!、左手という事は、どこかで旧奥州街道への分岐点を見落として
しまったんだ!

というのは、氏家駅前で見た案内地図では、旧奥州街道は、ニッカウヰスキー
の工場を右手に見ながら進む様に書かれていました。

右手ではなく、左手に工場の看板があるということは・・・

左に入る旧奥州街道への分岐点を見落としてしまったんだ!

でも、街道沿いの左側に、分岐点の表示がないか、十分に注意して歩いて
来たけどな〜?

唯一思い当たるのは、先程の大黒天の水準点のところに、直進する狭い道が
あったのですが、ゴルフ場のセブンハンドレッドの看板だけしかなかったので、
ゴルフ場の専用道で行き止まりだと思い込んでしまいました。

更に、大黒天の水準点のところには、「右折が喜連川」の交通標識があり、
喜連川宿へ向かう私は、この交通標識に引きずられて、右に大きくカーブする
国道293号を進んでしまいました。



(赤色線が正しい旧奥州街道、青色線が「右折が喜連川」の交通標識に
つられて間違えて行ってしまった国道293号、黄色丸印がゴルフ場の看板。)

これまでの私だったら、直ぐに、通り過ぎた大黒天の水準点のところの分岐点
まで引き返すのですが、足の痛みを抱え、1日5キロ制限の今回は、諦めて、
このまま、道幅の広い国道を進みます・・・



(従って、見学予定だった弥五郎坂の五輪塔はパスします・・・

結局、歩いているこの坂は「弥五郎坂」ではなくて、「新弥五郎坂」ということに
なります。

江戸を発ってから最初の本格的な坂だったという弥五郎坂は、思っていた
ほどの坂ではありません。



これは、坂の両脇を見ると、かなり深く開削されている感じなので、きっと
「新弥五郎坂」を造る際の工事で、坂を極力平坦にするために、路面を
下げたのでしょう。



国道は、緩やかな上り坂となり、道路脇には、木陰でちょっと見辛いですが、
上の写真の仲むつましく寄り添うようなかたちの道祖神が建っています。



間もなく、この辺りが峠の頂上なのでしょう、先が下り坂になっています。



下り坂を暫く歩いて行くと、Y字型の分岐点があり、ここで国道293号から
分かれて、左手の県道114号に入ると、直ぐに、「歓迎 喜連川温泉」の
大きなアーチが現わました。






「早乙女の桜並木」の看板があり、ずっと桜並木が続きますので、桜満開の時期は見事なのでしょう。






桜並木道が終わると、その先は荒川に架かる「連城橋」で、橋の右側に歩道橋
が併設されています。


その歩道橋の右手前の角に、読み辛いですが、
「右江戸道 左下妻道」
刻まれた写真の道標が建っています。





橋を渡ると、喜連川の宿場町に入ります。


氏家宿から喜連川宿までは、約8キロです。

(1日5キロ制限を3キロ超えてしまいましたが、足の痛みもないし、
まあいいか。



18:白沢へ

20:喜連川へ


        
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