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42-1:妻籠



(提灯を下げて夜の妻籠宿へ)

中山道の険しい山の合間に、江戸時代のまま時が止まったかの様な宿場町が現れます。

妻籠宿です!

妻籠宿は、日本で初めて「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された場所です。

これまで大きな災害や火災が無かったので、江戸時代のままの枡形の街道や旅籠が残っているのだそうです。



また、木曽路の中では妻籠宿だけが、鉄道路線から外れているために、時代から取り残され、昭和初期には過疎で廃村の危機にありました。



この様な厳しい状況下にもかかわらず、「売らない。貸さない。壊さない」の住民憲章を住民の皆さんがしっかりと守り、街並みの保存に努めてきたそうです。



当然、妻籠でのコンビニ、スーパー、レストラン等の出店は禁止されています。

また、飲食店のメニューも、江戸時代に食されたものが基本だそうです。

ここまでの徹底は、出来そうでなかなか出来ないですよね。

江戸時代そのままの建物に、人々が実際に暮らしていて、江戸時代の風情にどっぷりと浸れます!



妻籠宿の始まりは、左手に見える宿の名所「
鯉岩」です。





案内板によると、鯉の形をしていた岩が、昔、大地震で崩れ鯉の頭の部分が落ちてしまったので、現在は鯉に見えない、とのことでした。



宿場の出入り口、最初に目に入るのは
高札場です。



石畳の道に、水車の音が響きます。





夕暮れ時で、日帰りの日本人観光客は少なくなり、泊り客の半数は外人みたいです。



日没が近くなったので、本日は予約した宿
「松代屋」に入ります。







一路(下)
浅田 次郎
中央公論新社
浅田次郎の小説『一路』では、一路一行が無事に妻籠の宿場町に着くと、一路は大好物の「鯉の煮つけ」を食べに「松代屋」に行きます。

事前の下調べのために、妻籠の観光案内地図を見ていたら「松代屋」がありました!

小説の「松代屋」は実在していたんだ

早速、松代屋に電話して宿泊の申込みをします。

(1泊2食付:10,800円)

一路も食べた「鯉の煮つけ」が楽しみです!


そう言えば、BS「浅田次郎と眞野あずさが巡る中山道の旅」でも、眞野あずさが「松代屋」の「鯉の煮つけ」を食べていました。







松代屋は、1,804年創業の歴史を誇る老舗の旅籠で、今も7部屋で宿泊営業しています。



旅籠の生簀には、丸々と育った鯉が泳いでいますが、山深い土地にあって鯉は貴重なタンパク源だったそうです。



浅田次郎も宿泊したそうです。



江戸時代の旅籠なので、部屋を仕切るのは襖1枚だけです。

襖1枚隔てた隣の部屋の話し声で、「一路」は父親の死の秘密を聞いてしまいます・・・




松代屋の予約の部屋に案内された私は、取り敢えず、冷え切った身体を温めまるために風呂場へ向かいます。





素敵な檜風呂です。

後から入って来た外人のおじさんが慌てて出ようとしたので、急いで呼び止めます。

一緒に風呂に入る習慣がないのでしょうか。

外人のおじさんは、檜風呂の入り方のルールが分からないみたいで、英文の入浴の注意書きを一生懸命読んでいます。

風呂からあがり、楽しみにしていた夕食の「
鯉の煮つけ」を頂きます。


美味い!








食後に夜の妻籠宿の散策に出かけようとすると、今時珍しい写真の「
提灯」を貸してくれました。 

提灯を下げて、夜の町へ散歩に出ます。



妻籠宿には街灯がありません。

闇を照らすのは、
行灯(あんどん)のほのかな光だけです。

 

妻籠宿の夜に聞こえてくるのは、
水路のせせらぎの音だけです。



夜空の星々が手に取る様に近くて、頭から振ってきそうな錯覚に襲われます。



広重の浮世絵は、三留野(みどの)から妻籠へ向かう途中の小さな峠です。



向こう側の三留野へ向かうのは、ゴザと風呂敷包みを背負った腰の曲がった老人と、赤い色の両掛け荷物を担ぐ人足です。

こちら側の妻籠へ向かっている男は、白装束に仏像を入れた厨子(ずし)を背負っています。

右上の山道では、農夫が刈り取った柴を天秤の両端に掛けて家へ帰るところが小さく描かれています。

昨日は、夕方に妻籠に着いて、直ぐに、松代屋に宿泊したので、
今朝は、早朝に、松代屋を出て、妻籠の宿場町を見物します。

中山道の険しい山の合間に、江戸時代のままに時が止まったかの様な
宿場町が妻籠宿です。



妻籠宿は、日本で初めて「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された場所です。


これまでに、大きな災害や火災が無かったので、江戸時代のままの旅籠や
店が残っています。


しかし、明治に入り、妻籠宿が鉄道路線から外れてしまったために、時代
から取り残され、昭和初期には、過疎で廃村の危機にありました。

そこで、高度経済成長時代に、寂れる一方だった昔ながらの町並みを
”逆手にとって”、日本で最初の保存工事を開始しました。

そして、この様な厳しい状況下での保存工事の出費にも耐え、将来を
見据えて、しっかりと街並みの保存に努めてきたそうです。

う~ん、妻籠の人達は偉い!


妻籠の町並みを散策します。

未だ観光バスが到着する前の時間帯なので、町並みに人影は無く静かです。







妻籠宿を少し歩くと、右手に写真の「
脇本陣奥谷(おくや)」(国重要文化財)があります。



(入場料は、脇本陣・歴史資料館・本陣の3館共通券で700円)

ここのガイドのお姉さんの説明が情熱的で素晴らしく、質問にも懇切
丁寧に分かり易く説明してくれるので、感激です!

一路(上) (中公文庫)
浅田 次郎
中央公論新社

BS「浅田次郎と眞野あずさが巡る中山道の旅」で、二人が小説「一路」
について対談した囲炉裏と同じ囲炉裏傍で、実際に火を焚きながら、この
ガイドのお姉さんの説明を受けます。







そのガイドのお姉さんの説明によると、ここは
島崎藤村の初恋の相手”ゆふ”
の嫁ぎ先の林家
だそうです。

林家は、脇本陣と造り酒屋を兼ねており、造り酒屋の屋号が奥谷だったので、
「脇本陣奥谷」と呼んでいるのだそうです。

”ゆふ”は、馬籠宿の島崎藤村の実家の隣の「大黒屋」の娘だったそうです。

脇本陣奥谷は、幕府が崩壊し、明治10年に桧造りが解禁された際に、今しか
ないと考えた林家が、考え得る限りの贅沢な総桧造りで再建したのだそうです。

それは、江戸時代は、脇本陣といえども、幕府に気兼ねして、我家を桧造りに
することは出来なかったからだそうです。

なるほどねえ!

その後、明治天皇の小休所に決まった際に、風呂、テーブル、お手洗い等を
急遽造り、一層豪華に改築しました。

しかし、明治天皇は僅かに30分の休憩だったために、トイレは使用されず、
豪華な”
使わずの雪隠”として今日に至るそうです・・・



また、当時、木曽では、未だテーブルが無かったため、下の写真の様に、
台を造ってその上に板を載せ、テーブルにしたのだそうです。



その時の経緯が、テーブル板の裏側に書き留めてありました。

それによると、明治天皇が怪我をされるといけないので、テーブルは、
釘を1本も使っていないそうです。

下の写真は、頭上に水滴が落ちてこないよう工夫された風呂の天井です。





上の写真の張り巡らされた幟(のぼり)は、島崎藤村の初恋の相手”ゆふ”
の長男の初節句に、実家の馬籠の大黒屋から贈られた物だそうです。

下の写真は、伊勢神宮を祀った部屋です。



大きい!

でも、脇本陣の部屋の中に、何故こんなに大きな伊勢神宮を祀ってあるの?

それは、当時、伊勢神宮の建物のための檜を妻籠から運んでいたからだそうです。

なるほど!


(瓦の鯱鉾)






脇本陣の続きの敷地にある歴史資料館を見てから表に出ます。


脇本陣の斜め前に、代々庄屋を兼ねていたという、写真の
島崎本陣跡があります。



この本陣は、
島崎藤村の母の生家で島崎藤村の実兄の広助が養子に入った家です。



明治になり、広助が東京へ出てから建物は取り壊されましたが、平成7年に、
江戸時代の間取図をもとに忠実に復元されました。





下の写真は、広大な本陣の中にある主人の部屋ですが、非常に質素な部屋なのに
驚きます。



本陣の大部分の部屋は、大名の為の部屋で、庄屋といえども、自分達が自由に使える
部屋は少なかったのです・・・

例えば、下の写真の部屋は、
お殿様の着替えや料理道具等の荷物を置くための専用の
部屋
で、それ以外には使えなかったそうです・・・



下の写真は、お殿様用の「
上段の間」ですが、床下からの槍が通らない様に、
この下は鉄板だそうです。





本陣を出て、妻籠の町並みの散策を続けます。

妻籠宿の宿場町を歩き始めて驚くのは、欧米人の観光客の多さです!

予備知識を持っている感じで、物静かに町並みを見物して回る彼らは、
この妻籠宿の情報を何処で仕入れて来るのでしょうかねえ?


下の写真は「
下嵯峨屋」で、当時の妻籠の典型的な民家である片土間並列二部屋
を復元したものです。





下の写真は「
上嵯峨屋」で、板葺き石置き屋根の木賃宿を復元したもので、
中央に土間、両側に部屋が並び、当時の庶民の旅籠の雰囲気が伝わってきます。





下の写真は「光徳寺」で、本堂は、脇本陣林家が建立したそうです。




(観光案内所)


(延命地蔵堂)


(郵便局の中)

41:三留野

42-2:馬籠峠へ

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