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奥州街道を歩く 18:白沢




(写真は、街道の両側の用水で回る水車)


白沢宿は、徳川家康が、上杉攻めで鬼怒川を渡るときに案内役を務めた
白沢村の庄屋の宇加地家と福田家が、その功績が認められ、両家共同で
白沢宿を構成することが許されたのが始まりだそうです。

明治18年に、奥州街道が現在の国道4号線に移ったため、現在は、静かで
真っ直ぐな町並みのまま、往時の宿場の雰囲気を残しています。




稚児坂で亡くなった稚児を供養する白沢地蔵尊の前のやげん坂(下の写真の)
を、足の付け根に違和感を感じながら下って行きます。



信号のある丁字路になり、ここを左折すると、下の写真の白沢宿が始まります。



白沢宿は、現在では、往時の面影を残す建物はほとんどありませんが、
すっきりとした町並みで、車も少なく、のどかな風景です。



宿場町の中心の道の両側には、綺麗な用水が流れ、用水にはガードレールも
なく、水車が回り、鯉が泳いでいました。







各家には、宿場であった頃の屋号が表示されていて、奥州街道をテーマにした
町興しが進んでいるみたいです。





宿場通りの中ほどの左には、上の写真の
「宇加地家 本陣」の表示のある
立派な建物があります。



前述の様に、宇加地家は、白沢宿の成立に関わる古い家柄で、幕末まで
本陣を勤めました。



宇加地家の直ぐ左手には、白沢宿の村社である
「白髭神社」への参道が
あります。



足の痛みで、びっこを引きながら白髭神社の急な石段を上り切ると、眼下に
白沢宿の町並みが見えます。





この神社の境内で、白沢宿の町並みを見下ろしながら、一休みして、足の痛み
が治まるのを待ちます。










白髭神社の石段を下りて、再び白沢宿を歩き始めますが、宿場通りは意外と
短く、直ぐに宿の終りの「鍵の手」に突き当たり、右折します。




突き当たりは、井上清吉商店(上の写真の左側の家)で、「澤姫」という地酒を
造っているみたいです。

鍵の手を進むと、 下の写真の小さな九郷半橋があり、渡った橋の袂に、
白沢宿の看板が立っていたので、多分、ここが宿場町の外れなのでしょう。





白沢宿の看板の横に、上の写真のお洒落な郵便局の建物があり、その先の
左手に、下の写真の「白澤の一里塚」碑とバス停が見えました。





案内板によると、この一里塚は、白沢宿の会が建てたもので、元々の一里塚は
鬼怒川の河原にあった、ということみたいです。

私の計画では、今日は、ここから更に、次の氏家宿まで歩き、JR氏家駅から
宇都宮駅へ戻り、駅前のビジネスホテルに泊まる予定でした。

そして、明朝、JR宇都宮駅から氏家駅へ向かい、再びJR氏家駅から街道歩き
を再スタートする予定でしたが・・・

しかし、足の付け根が痛くて、とても次の氏家宿まで歩けそうにありません。

奥州街道踏破のスタート早々ですが、ここで、ついに無念のリタイアです!

この一里塚の前にある白沢河原バス停が、JR宇都宮駅からの路線バスの終点
らしいので、取り敢えず、ここから路線バスに乗って、終点のJR宇都宮駅に
向かいます。

そして、宇都宮のビジネスホテルにチェックインして、バスタブで足を温め、
明日からの奥州街道歩きを続けるか否か、判断しようと思います。



足が温まったところで、ビジネスホテルを出て、JR宇都宮駅前から、白沢河原
行きの路線バスに乗り、終点を目指します。

通勤時間帯の路線バスは、通勤客の流れとは逆方向ということもあり、白沢に
近づくと、乗客は私一人になりました。

終点の白沢河原バス停で降りようとすると、私を見たバスの運転手さんが、
幽霊でも見たかの様に、”あっ!”と驚きの声を上げました??

逆に、私の方も、俺、そんなに変な恰好してたっけ?、と、状況が掴めず、
思わず自らの身なりを見直してしまいました・・・?

どうも、私が座っていた最後部の端の座席が、運転手席からは死角になって
いたらしく、もう乗客は乗っていない、と思い込んでいたみたいです。

「失礼しました!」とバツの悪そうな顔をした運転手さんは、私に丁寧に
詫びると、氏家へ歩くルートについて親切に教えてくれました。



昨日、無念のリタイアをした「白澤の一里塚」碑をスタートします。









快晴の秋空のもと、気持ちの良い田んぼの中の一本道を歩いて行きます。





一時的でしょうが、フェイタスZのお陰で、足の痛みが消えています。



暫く歩くと、上の写真の西鬼怒川橋がありました。



その橋の袂に「鬼怒川の渡し」の矢印があったので、矢印に従って、土手沿いに
少し歩いてみましたが、下の写真の様な川の中を向いた矢印があるだけで、
「鬼怒川の渡し」の痕跡らしきものは見当たりませんでした。





西鬼怒川橋を渡り、田んぼの中の道を歩いて行くと、やがて、鬼怒川の堤防に
突き当たるので、ここからは、下の写真の鬼怒川の土手の上を歩いて行きます。



鬼怒川の土手を歩き始めると、フェイタスZの効果が薄れてきたのか、足の
痛みが再発しました・・・

この土手を河原の方へ下りて行くと、「鬼怒川渡し場跡」があるらしいのですが、
足を引きずって歩いている様な状態なので、河原の「渡し場跡」探しはパス
します。



やがて、前方に、鬼怒川に架かる「阿久津大橋」が見えて来ました。



江戸時代には、先ほどパスした「鬼怒川渡し場跡」から、対岸へ舟で渡って
いた訳ですが、現代では、その渡し場より少し上流に架かるこの「阿久津大橋」
を歩いて渡ります。



この橋は、歩道がなく、車の通行量も多いので、足を引きずりながら、小走りで、
必死で渡り切ります。





鬼怒川を渡ると、「さくら市」に入ります。



さくら市側の鬼怒川の護岸には、昔、「阿久津河岸」があり、奥州各地からの米を
江戸へ運ぶ基地として、江戸時代から明治中期まで賑わいが続いたそうです。

阿久津大橋を渡った直ぐ左手の土手を下りた近くに、船の御霊を祀った極彩色の
「船玉神社」があるみたいですが、足が痛んで、土手を下りて行く気がしない
のでパスします・・・



少し歩くと、「浮島地蔵尊」の矢印があったので、それに従って行ってみると、
下の写真の「浮島地蔵尊」のお堂がありました。





鬼怒川は、名前の通り大洪水が多かったのですが、このため、水害除けの
水神や地蔵の信仰が多く生まれました。



その中で、度重なる水害にも拘わらず、ここの地蔵尊は、流されずに浮いいて、
この地に留まったそうです。






浮島地蔵尊から旧奥州街道に戻り、更に進んでいくと、右手に「将軍地蔵」の
矢印があり、その直ぐ奥に、下の写真の地蔵堂が見えました。







案内板によると、この「将軍地蔵」は
「そうめん地蔵」とも呼ばれているそうです。







これは、室町時代、この地から日光山に修行に行った坊さんが、意地悪な
山伏に素麺を無理やり食べさせられて気絶しました。


その後、別の坊さんが来て、日光中の素麺を食べつくしたので、その山伏は
降参しました。

すると、勝った坊さんは、「将軍地蔵」の姿となり、無理やり食べさせられて
気絶した坊さんをここに連れて帰りました。

これが、現在行われている日光の「強飯式」の由来だそうです。

そうめん地蔵の境内には、下の写真の閻魔堂もありました。





そうめん地蔵を出ると、少し先の左側に、
「勝山城址」の案内板があったので、
案内板を左折して城址公園に立ち寄ります。



勝山城は、鬼怒川の左岸の段丘の最北端に位置する、南北420メートル
・東西370メートルの中世の平山城です。

鎌倉時代末期に、氏家氏により築城され(別名:氏家城)、その後、宇都宮氏の
一族の芳賀氏によって強固な城構えが完成しました。

宇都宮氏一族の北方防衛の拠点の位置づけの城でしたが、その後、1597年、
宇都宮氏が秀吉により改易され、廃城となりました。

現在は、「勝山城跡公園」として整備されています。







入口の案内板に従い、進んで行くと、上の写真の宝篋印塔がありました。

入口の先には、大手口(東側の入口)の木橋が見えます。









上の写真は、大手口の木橋の上から見た櫓台(やぐらだい:写真の正面)跡と
空堀です。



空堀に架かる大手口の木橋を渡って進むと「本丸」跡がありました。



高い土塁と空堀が巡らされた「本丸」は、東西80メートル、南北70メートルの
方形で、土塁の堀底からの高さは7〜8メートルもあります。





本丸の南西側には、上の写真の「搦手(からめて)の虎口」跡があり、かっては
土橋が架かっていました。

勝山城は、本丸の東に「二の丸」、南に「三の丸」があり、二の丸と三の丸が、
本丸をL字型に囲んでいます。





(二の丸跡)



(本丸北の空堀)





勝山城は、鬼怒川に面した段丘の西端に築かれているので、眼下には
鬼怒川の清流が望め、遠くには日光連山などを一望することが出来ます。



秋晴れの下、素晴らしい景色に足の痛みも忘れます。




その鬼怒川の清流を望む場所に、下の写真の「釜ヶ淵 雪姫・紅葉姫の伝説」
の説明の石碑がありました。





石碑によると、その伝説は以下の通りです。

 ずっと昔、勝山城には、「紅葉姫と雪姫」という美しい姉妹の姫が居ました。

 当時、勝山城を巡る戦いがあり、この戦いで両親を殺された「紅葉姫と雪姫」
は、敵に追い詰められ、勝山城の切り立った崖の下にある「釜ヶ淵」
(かまがふち)に身を投げました。



 (紅葉姫と雪姫:インターネットの無料アップロード写真から)

 時は経ち江戸時代、勝山城跡の近くに住む「源じい」という百姓は、網打ちが
好きで、よく川に行っては、一日中網打ちをしておりました。



 ある夏の夕暮れ、源じいが、勝山城跡の切り立った崖の下にある「釜ヶ淵」
(上の写真の池の辺り)で、網打ちをしていると、 舟の周りに、美しく鮮やかな
緋鯉と雪のように真っ白な鯉が現れました。

 真っ白な鯉は、源じいが投げた網にかかると、淵の底に引きずり込む様な
凄い勢いで網を引っ張りました。

 源じいは、やっとの思いで、真っ白な鯉を船に引き上げ、家路につこうと舟を
漕ぎ始めました。

 すると、どこからともなく「雪姫、雪姫」と呼ぶ若い女の声が聞こえ、源じいの
舟は、あっというまに転覆してしまいました。



 (紅葉姫と雪姫:インターネットの無料アップロード写真から)

 船から逃げ出した真っ白な鯉は、鮮やかな緋鯉と寄り添うように「釜ヶ淵」の
奥へと姿を消して行きました。

 翌朝、源じいが気が付くと、淵よりずっと下流の岸辺に投げ出されていました。

 源じいは夢でも見たのだろうと思いましたが、それっきり大好きだった網打ちを一切やめてしまいました。

 今でも、「釜ヶ淵」では、美しく鮮やかな緋鯉と雪のように真っ白な鯉が、淵の
深くに潜んでいて、時々寄り添って水面まで上がってきて、仲良く泳ぐそうです。



 (紅葉姫と雪姫:インターネットの無料アップロード写真から)





勝山城の土塁の外側を一周して、上の写真の「北限土塁跡」を過ぎると、
下の写真の「民家広場」に出ました。





上の写真は、喜連川宿から移築されたという「旧森家長屋門」です。

民家広場から、元のの奥州街道に戻りました。





城址公園の見学を終えて、旧奥州街道に戻り、少し歩くと、国道4号にぶつかり
ました。

旧奥州街道と思しき?狭い道は、国道4号を横切って、反対側に真っ直ぐに
伸びています?



(赤色線が旧奥州街道と思しき道、黄色線が国道4号)

ここの交差点は、横断歩道も信号もなく、ダンプが猛スピードで走っているので、
横断するのは恐ろしい感じです。

でも、信号のある横断歩道まで迂回するには、かなりの距離がありそうなので、
左右の車が切れたのを十分に確認してから、足を引きずりながら走って
渡りました。

やれやれ、ホッ・・・。

しかし、こんな信号も横断歩道もない様な田んぼ道のあぜ道が、ホントに
旧奥州街道なのでしょうか?



不安になってくると同時に、多分、何処かで道を間違えたのだろうな〜、という
気がしてきました。

城址公園まで引き返して、分岐点を確認しようか否か、と迷いながら、とても
旧奥州街道とは思えない田んぼ道を、トボトボと歩いていると、道の脇に、
下の写真の
「お伊勢の森」の矢印がありました。

ホッ、間違えていなかったんだ!









「お伊勢の森」は、かっては広大な森だったらしいのですが、現在は民家の脇に、
写真のこんもりとした木立があるだけで、「天照皇大神宮」の大きな石碑が
建っています。



案内板によると、伊勢神宮をここに勧請した小さな神社が、ここ旧奥州街道の
脇にあったとのことです。  





更に進むと、JRの「旧奥州街道踏切り」があり、その先で、T字路に付きあたり
ますが、この右角に写真の
「奥州街道道標」と「馬頭観世音像」が建っています。







道標は、ほとんど読めませんが、「右 江戸海道」、「左 水戸・かさま・下だて・
下づま」と彫られています。

この道標を左折すると、もう次の氏家宿です。

氏家宿に入りましたが、足の痛みが酷くなったので、宿場町の見学はしないで
JR氏家駅に直行します。

JR氏家駅から東北本線に乗り、宇都宮で上野東京ラインに乗り換え、横浜に
帰りました。


白沢宿から氏家宿までは、約7キロです。



17:宇都宮へ

19:氏家へ


        
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