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奥州街道を歩く  17-2:宇都宮





(写真は、宇都宮城主・本多正純に処刑された根来百人衆の亡霊を供養
するための「首切り地蔵」)  


 ⇒ 

猛暑、長雨、台風とずっと異常気象が続いていましたが、ようやく穏やかな
秋晴れになったので、東海道、中山道、日光街道の踏破に続き、奥州街道の
踏破を目指します。

早朝に、JR横浜駅から、上野東京ラインで、乗り換えなしでJR宇都宮駅へ
向かいます。

JR宇都宮駅から、路線バスに乗り、地方裁判所前で下りて、少し戻り、
日光街道と奥州街道との追分から、奥州街道踏破をスタートします。


日本橋から、日光街道とずっと重なってきた奥州街道は、ここ宇都宮の
伝馬町の交差点で、日光街道と分かれます。



上の写真の脇道へ
左折する赤矢印が「日光街道」で、大通りを直進する
赤矢印が「奥州街道」
です。

(日光街道と奥州街道の追分までの宇都宮宿の様子については、
「日光街道を歩く:17宇都宮」を見てね。)


宇都宮宿は、日光街道・奥州街道で最大の宿場で、二荒山神社の門前町
として発展してきました。

幕府は、日光東照宮の入口として、また、奥州地方に対する北方への守りの
拠点として宇都宮を重視していました。

しかし、宇都宮が戊辰戦争の戦場となった結果、宿場町はほとんど焼失して
しまい、当時の面影はほとんど残っていません。



日光街道と奥州街道との追分の道路向かいに本陣がありましたが、現在は、
上の写真の様に、大銀杏がそびえています。



大通りの奥州街道を進んで行きます。





間もなく、左手に上の写真の「丸治ホテル」があります。



丸治ホテルは、創業300年で、江戸時代からこの場所で旅籠を営んできました。

「丸治」の名前の由来は、創業者・丸谷治左衛門に由来するそうで、丸治ホテル
の幅が狭く奥行きが長い敷地が江戸時代の「短冊割り」の町割りの名残りです。



更に、大通りの奥州街道を進んでいくと、左側の石段を上り切ったところに
「二荒山神社」があります。













二荒山神社の石段を下りて、更に歩き、田川にかかる宮の橋を渡ると、
下の写真の正面の突き当たりには、JR宇都宮駅が見えます。



JR宇都宮駅周辺には、餃子店が軒を連ねます。

日光街道踏破の際に、すっかり宇都宮餃子にハマってしまったので、
素通りする訳にはいきません・・・

取り敢えず、宇都宮駅前の餃子屋で腹ごしらえをしてから、奥州街道歩きを
続けます。



(ネギ味噌焼き餃子と生ビールのセット:880円)

 ( ↑ 最初に撮り忘れたので、食べかけの写真ですが・・・

満腹になったので、宮の橋まで戻り、田川に沿って進みます。

暫く歩くと、明治28年に建てられた
「旧篠原家住宅」(重要文化財)があります。



篠原家は、江戸時代の豪商で、江戸時代から第二次世界大戦まで、醤油の
醸造と肥料商を営んでいたそうです。

(篠原家の内部見学については2013/1の「JR烏山線の沿線散策」を見てね。)



旧篠原家の辺りが宇都宮宿の外れで、ここから奥州街道の次の宿場町の
白沢宿を目指して歩いて行きます。

やがて東北新幹線のガードをくぐり県道125号(宇都宮ー氏家線)に合流します。







上の写真は、街道沿いにある岩淵家の立派な長屋門です。



暫く歩くと、竹林町の信号の先の右奥の住宅街の中に、上の写真の小さな
「白山神社」があります。





何の変哲もない小さな神社ですが、実は、有名な
「宇都宮城”釣天井”
(つりてんじょう)事件」
の導火線となった舞台が、何と!、
この神社にありました!

(「釣天井事件」の詳細については、「日光街道を歩く:17宇都宮」を見てね。)

1621年、宇都宮城の改築に際し、2代将軍・徳川秀忠は、根来組同心百人衆
を、改築工事の監視のために送り込みます。

これに対し、宇都宮城主の本多正純は、何と!、幕府から差し向けられた
この百人衆の全員を捕らえ、一日のうちに処刑してしまいました!

そして、首と胴体を別々に埋めましたが、そのうちの胴体を埋めた
「根来塚」
呼ばれる胴塚が、ここ「白山神社」の裏側にあったそうです。

怖っ〜・・・

それにしても、本多正純と秀忠の確執は、想像以上のものがあったんですねえ〜。

将軍が差し向けた根来衆を、宇都宮城主が捕らえて斬首するとは!

世間で”釣天井事件”がもっともらしく噂されたのも頷けます。



という訳で「白山神社」の裏手を一生懸命に探しましたが、それらしき場所には、
新築の民家も建っており、よく分かりませんでした・・・








根来塚を出て少し歩くと、上の写真の栃木銀行北支店の横手に、下の写真の
「首切り地蔵」がありました。





ここが、処刑された根来組同心百人衆の首を埋めた「首塚」があった場所
だそうです。

ここには、処刑された百人衆が亡霊となって現れるので、僧侶が、この
「首切り地蔵」を建てて、この亡霊達を供養したそうです。

「首切り地蔵」の横には、下の写真の「土堂原地蔵尊」の標柱と石仏が並んで
いました。

そして、この辺りは、また、宇都宮藩の処刑場でもあったそうです。

怖っ〜・・・










首切り地蔵を出て、松や杉などの旧街道の名残りを僅かに残す直線の
旧奥州街道を進みます。





街道の両側には、大谷石作りの塀や倉のある立派な家が点在します。



暫く歩いていると、突然、右足の付け根に痛みが走りました!

奥州街道のスタート早々に、アクシデント発生です・・・

びっこをひきながら、ゆっくりゆっくりと歩きます。

しかし、歩く毎に、右足の付け根に軽い痛みが走ります。
半年ぶりの街道歩きで、ウォーミングアップ不足か?



びっこをひきながら、かなりの距離を歩いたところで、旧奥州街道は、
上の写真の「稚児坂」にさしかかります。

1196年、鎌倉幕府から奥州総奉行の任命を受けた伊沢家景が、任地に
向かう途中、この坂にさしかかったところで、同行していた乳幼児の
我が子を亡くしました。

それ以来、この坂は「稚児坂」と呼ばれる様になりました。




稚児坂を上り切ると、左手に広大な王子製紙の再生紙工場がありました。



その先に白沢工業団地の看板があったので、既に白沢町に入ったみたいです。



更に進んで行くと、Y字の分岐ありますが、奥州街道は直進して、横断歩道橋
のある方の道に向かいます。

やがて道は、右にカーブする坂道となり、その坂道を下り始めると、右手に、
前述の稚児坂で亡くなった稚児を供養する下の写真の
「白沢地蔵尊」
ありました。













案内板によると、奥州総奉行・伊沢家景は、ここに我が子を葬り、地蔵堂と
石塔を建てた、とあります。



白沢地蔵尊で水分を補給して、一休みして、足の痛みが治まったところで、
白沢地蔵尊の前の坂を、ゆっくりと下って行きます。





この坂は、案内板によると、漢方の薬種を砕く舟形の器具(薬研:やげん)に
坂の形が似ているとことから、「やげん坂」と呼ばれているそうです。

やげん坂を下り切った突き当りの交差点が白沢宿の入口です。


宇都宮宿から白沢宿までは、約11キロです。




16:雀宮へ

18:白沢へ


        
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