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日光街道を歩く 16:雀宮




(写真は、「雀宮」の地名の由来となった「雀宮神社」)


「雀宮(すずめのみや)宿」とは!、”舌切り雀”のお宿をイメージしてしまう様な
ファンタスティックな宿場名です!

本陣1、脇本陣1、旅籠38の「雀宮宿」は、日光街道が開かれたときに
新しく作られた宿場です。

そして「本陣職」を務めていた「小倉家」は、もとは宇都宮氏の家臣で
2万石を領していた名門の旧家でした。

雀宮宿に入ると、左手のコンビニの駐車場の脇に
「雀宮本陣跡」(小倉家)
の碑がありました。



本陣跡の石碑の写真を撮っていると、高齢の上品な2人の女性の方が、
私に話しかけてこられました。

「ここの本陣の小倉家は、このコンビニなどのこの辺りの土地の所有者で、
土地を業者に貸していらっしゃるんですよ。」

「でも、小倉家を守ってきた子孫の跡取りの方が、46才の若さで、最近
亡くなられたんですよ。」

「小倉家が絶えてしまって・・・」

多分、ご親戚の方か、ご近所の方なのでしょう、悲痛な表情で、上記の様な
説明をして下さいました。


「雀宮本陣跡」は、JR雀宮駅入口の交差点の左手前にありますが、
交差点の右手前は下の写真の「雀宮脇本陣跡」です。



「本陣跡」は石碑のみしか残っていませんが、
「芦谷家脇本陣跡」は、
上の写真の様に、立派な建物を残しています。

「芦谷脇本陣跡」は、写真の様に、現在、改修工事中でした。



脇本陣の先の右手に、「雀宮宿」の地名の由来となった
「雀宮(すずめのみや)
神社」
がありました。



日光参社の際、将軍はここ雀宮神社に参詣するのが慣例でした。



「雀宮」の地名の由来については、以下の様な伝説があります。

平安時代の歌人として知られた藤原実方(さねかた)は、宮中で、藤原行成
(ゆきなり)と言い争いをした際に、カッとなって行成の冠を投げ捨てて
しまいました。

これに怒った一条天皇は、実方を陸奥守(むつのかみ)に左遷してしまいます。

実方の妻の綾女は、後を追って、夫の実方が赴任した陸奥へ向かう途中、
この地に来たところで病死してしまいます。

これを憐れんだ村人は、綾女が持っていた宝珠をこの地に埋めて祀りました。

ところが、その後、夫の実方も、任地した陸奥で亡くなってしまいます。

すると、何と夫の実方の霊魂が雀になってこの地に飛来しました!

そこで村人は、綾女と実方の2人を合祀して「雀宮神社」と称したそうです。

(「雀宮神社」の由来は諸説あります。


雀宮神社を出ると、この先は余り見るべきものも無く、単調な旧日光街道
(国道4号)を、延々と歩いて行きます。







やがて、「寿鶴(すず)薬師堂」のバス停が見え、バス停の右手の奥に、
紫色の「寿鶴薬師堂」がありました。



寿鶴薬師堂の先には、江戸時代には「江曽島(えそしま)の一里塚」が
あったらしいのですが、現在は、その痕跡すらありません。



しかし、その場所の信号名とバス停には、「一里」の地名が残っていました!







真っ直ぐな国道4号をひたすらに歩いて行きますが、この辺りは、各社の
自動車販売店が続きます。









やがて、「不動前」の信号で、旧日光街道は、国道4号から分かれて、
左へ入って行きます。



「不動前」信号の分岐の点の角には、写真の
「不動堂」がありました。





お堂の中を覗くと写真の不動明王の石像が収められていました。







旧日光街道を少し進むと、前方に東武線のガードが見えて来ました。

この東武線のガードの辺りは、もう「宇都宮宿」だったみたいです。


雀宮宿から宇都宮宿までは、約8キロです。


15:石橋へ

17:宇都宮へ


        
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