(写真は、「鉢石宿」の地名の由来となった「鉢石」)
昨晩宿泊したJR日光駅前の「日光ステーションホテルクラシック 」で
朝食をとり、ホテルの直ぐ近くの「鉢石(はついし)宿」に向かいます。
日光街道には、21の宿場が設けられ、「鉢石(はついし)宿」は、
最後の21番目の宿場でした。
鉢石宿も、日光街道の”地名ルール”の通りに、日光に近い方から順に、上鉢石、中鉢石、下鉢石の順に並んでいました。
鉢石宿は、本陣2軒、旅籠19軒で、人馬継立問屋は中鉢石宿に
1か所ありました。
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英国の旅行家であるイザベラ・バードは、「日本奥地紀行1」の中で、
明治11年の鉢石宿について、以下の様に書いています。
「勾配のきつい屋根と深い庇(ひさし)を持つ家々が続き、色合いが
暖かく、所々に段差のある急勾配の道をなす「鉢石」の長い表通りには
スイス的な美しさがある。
この町の通りは息が詰まるほどに清潔だ。」
鉢石宿の中を通る街道は、日光山に向けて、少しずつ上っています。
街道沿いには、両側に土産物屋が並びます。
街道を暫く歩いてから、右手に入って行くと、写真の「竜蔵寺」が
あります。
境内には、上の写真の「畠山重慶の墓碑」があります。
1213年、日光山・座主の弁覚は、重慶が謀反を企てていると鎌倉幕府に訴え出ます。
将軍実朝は、重慶のこれまでの功績を勘案、事実をよく調査するつもり
でしたが、先走った下野国の長沼五郎が、重慶の首を切って鎌倉に
届けてしまいます。
怒った実朝は、弁覚らを責めて再調査をさせ、その結果、謀反が誤解
であったことが判明します。
弁覚は、自分の誤解から起きたこの事件を悔い、この「竜蔵寺」を
建てて、重慶を供養したそうです。
竜蔵寺の奥の稲荷神社に、写真の「西行戻し石」があります。
籠を背負い鎌を持ってこの石の上にいた子供に、西行が「小僧どこへ
行く?」と聞くと、子供は「冬萌(ほ)きて 夏枯れ草を刈りにゆく」と
答えました。
(麦は、冬には青々としていて、夏に収穫の時期を迎えるので、麦の
ことを「冬萌きて夏枯れ草」と言うそうです。)
西行はその意味が分からず「それは何だ?」と聞くと、「世にあまねく
知れる麦という草を知りたまわずや?」と笑われてしまいます。
西行は「手強い相手だ。歌比べでは勝てそうにない。」と、名もない子
との問答に負けた自分が恥ずかしくなって、この場で黒髪山を拝して、
日光を見ずに引き返したそうです。
「西行戻し石」の隣りに、上の写真の「西行法師歌碑」がありました。
”ながむながむ 散りなむことを きみも思え くろ髪山に 花さきにけり”
(じっとよく見て、桜が散ってしまうのを感じなさい。くろ髪山(日光山)に
桜の花が咲きましたよ。)
日光街道に戻って少し歩くと、写真の「そば処 魚要」がありますが、
ここが「入江本陣」の跡地だそうです。
日光名物といえば、「ゆば」と「羊羹」と「日光彫り」ですが、上の写真の
「綿半」は、1787年創業の羊羹屋だそうです。
そして、その先の街道沿いの青空駐車場の裏の方に、本陣だった
「高野家」の庭の芭蕉句碑が少しだけ垣間見えました。
更に、街道の右手の脇の坂を少し下ったところに、写真の「鉢石」が
ありました。
「鉢石」は、鉢を伏せた様な形状の直系2メートルの石で、「鉢石
(はついし)宿」の名前もここから来ています。
日光山の開山の祖である「勝道上人」が、この石に托鉢の鉢を置いて
一休みしたのが、この「鉢石」の由来だそうです。
「はちいし」ではなくて、「はついし」と読みます。
日光街道に戻ると、左手に上の写真の日光市役所があり、その先に
「鉢石山 観音寺」の案内板があったので、急な石段を上って行きます。
この観音寺は、弘法大使の開基と伝えられ、石段を上り詰めた
山門からは、日光街道の鉢石宿が一望出来ます。
日光街道に戻ると、上の写真の”日光の美味しい水”「磐裂霊水」
(いわさくれいすい)がありますが、この辺りまでが鉢石宿でした。
日光街道(日光道中)のゴールです
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