(写真は「並木ホテル」?!)
杉並木寄進碑を左手に見ながら杉並木を暫く歩くと、次の大沢宿に入ります。
大沢宿は、度重なる大火のため、現在は宿場町の面影は全くありません・・・
大沢の地は、源頼朝が狩りに訪れた際に、広大な荒地だったのを見て、4人の家来に
開拓・居住させたのが始まりだそうです。
大沢の町並みに入って少し進むと、直ぐ右手に、源頼朝を祀った上の写真の「王子神社」が
あり、その境内の大銀杏は樹齢200年だそうです。
王子神社から暫く歩いて行くと、写真の「水無(みずなし)の一里塚」(別名・大沢の一里塚)が
ありました。
一里塚の少し先で、杉並木が途切れますが、ここから先が「水無」の集落です。
ここの名主の清兵衛の庭に生っていた梨の実の水気が多かった事から、村人が「水梨」と
呼んでいたのが「水無」の地名の由来だそうです。
水無の集落に入ると、街道の左手に地蔵堂があり、その横に、数体の供養石が並んで
いました。
水無の集落を過ぎると、通行量の多い車道は杉並木の左側に外れるために、街道は、
車のほとんど通らない静かで鬱蒼とした杉並木になります。
行けども行けども杉並木で、心が弾みます!
そして、通行量の多い車道の更に左側には、写真の日光名物・甚五郎煎餅の工場などが
点在しています。
この快適な杉並木道を暫く歩いて行きますが、やがて街道は国道と合流し、杉並木は
途切れて森友の集落に入り、下森友のバス停があります。
そして、下森友バス停の先の右手には上の写真の「来迎寺」がありました。
来迎寺の先からは、再び、快適な長〜い杉並木道に入ります!
杉並木の整然とした美しさと、江戸時代からの長い時間の重みに圧倒されます!
その長くて鬱蒼とした杉並木をどんどん歩いて行くと、写真の「並木ホテル(七本桜の一里塚)」がありました。
右手の「七本桜の一里塚」の塚の上には、大杉が生えており、その根元が腐って大きな
空洞になっています。
この空洞部分は、高さと幅が2メートルくらいあり、大人が4人くらいは入れそうなことから
「並木ホテル」と呼ばれているそうです!
ええっ!、”ホテル”というのは、この空洞のことなの?
私は、「日光街道には有名な並木ホテルがある」と聞いていたので、この大杉が目印の
「並木ホテル」という名前のホテルが実在するのだとばかり思い込んでいました。
とんだ早とちりでした・・・
並木ホテルの内側が黒く炭化しているのは、昔、村の若い衆が雨宿りしたときに、焚火を
したためだそうです。
その並木ホテルを過ぎると、大きな道路と交差し、更にその先で、東武日光線のガードを
くぐって歩き続けます。
やがて、上の写真の「追分地蔵」のお堂が見えて来ました。
この辺りから、もう次の「今市(いまいち)宿」です。
大沢宿から今市宿までは、約8キロです。
夕方になったので、ここ追分地蔵の近くの下今市のバス停から、路線バスでJR宇都宮駅へ
向かいます。
JR宇都宮駅に着くと、勿論、今回も、帰りの電車の乗換えの待ち時間を利用して、駅構内の
餃子屋に入ります。
やはり、本場の餃子は、大きくて、香りも良くて、ジューシーで美味しい!
写真の餃子(290円)を満喫出来て大満足でした。
ps.
ここで、今回の「日光街道歩き」の交通機関についてまとめて説明しておきます。
東京都内から宇都宮宿までは、常に、東武かJRが、本数も多く、ずっと平行して走って
いたので、中山道に比べると各段に楽勝でした。
しかし、宇都宮宿から日光の手前の今市宿までの間は、並走する鉄道がないので、今回唯一、踏破計画が必要な区間でした。
しかし、バス路線図を調べてみると、それは杞憂であることが分かりました。
これから、日光街道を踏破予定の皆さま、ご安心下さい!
何と!、宇都宮宿から日光までの間、バス路線は、ほぼ1時間毎に、ピッタリと旧日光街道
沿いに走っているのです!
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