本文へジャンプ
日光街道を歩く 17:宇都宮


2

(写真は、将軍家光の暗殺計画の舞台となった「宇都宮城」)


宇都宮城見学の前の予備知識として、有名な
「宇都宮城”釣天井”(つり
てんじょう)事件」
について、説明しておきます。

三代将軍・徳川家光が日光東照宮を参詣した帰り道、宇都宮城に1泊すること
が決まりました。

これを知った宇都宮城主・
本多正純(まさずみ)は、釣天井(吊り天井)を
落として、家光を押し潰して暗殺しようと企てます。

その工事のために集められた大工の中に与五郎という若者がいました。

釣天井が出来上がると、秘密が漏れることを防ぐため、大工達は全員
殺されました。

すると、与五郎の恋人・お稲の枕元に、与五郎の亡霊があらわれ、殺された
いきさつを告げました。

お稲は、悲しみのあまり、与五郎から告げられた内容を手紙に残し身投げ自殺
をします。

この手紙を、父の籐右衛門が発見し、宇都宮城へ向かう将軍家光の行列に
直訴します。

そのため、家光は、急遽、宇都宮城に泊まらずに、強行軍で江戸に帰り、
命拾いしました。

暗殺計画は失敗に終わり、正純は自害して果てました。

  



(宇都宮城ものしり館の絵物語)

これが、講談や歌舞伎でお馴染みの「宇都宮城”釣天井”事件」のストーリー
ですが、これは後に作られた創作です。

しかし、これが荒唐無稽な創作だと笑えない様な、以下の歴史上の”事件”が
実際に起きています。


1622年、二代将軍・徳川秀忠が日光社参のために江戸を出発しました。

(創作では三代将軍家光に変えてあります。)

秀忠は、往復共に宇都宮城に宿泊する予定でしたが、帰り道、急に予定変更
して夜通しの強行軍で江戸に帰ってしまいます。

一方、本多正純は、山形藩改易の城受取りのために、幕府の命により山形に
出向いていました。

そして、何と!この正純の留守中に、突然、正純は宇都宮城を取り上げられて
しまいます!

このこと自体は、秀忠による家康死後の旧勢力の追い落とし策の一環だと
思われます。

(本多正純は家康の側近として仕えていました。)

このとき幕府は、宇都宮15万石から出羽由利郡5万石に正純を減俸しよう
としますが、正純がこれを固辞したため、幕府の怒りを買い、正純は横手に
生涯幽閉されてしまします。

この秀忠の突然の宿泊予定変更と、正純の幽閉の二つの不可解な事件が
重なったため、後に、有名な「宇都宮城釣天井事件」の創作を生むことに
なりました。

さて、話しを日光街道歩きに戻します。

日光線の小さなガードをくぐって宇都宮宿にはいります。



直ぐ右手に、
「蒲生君平(がもうくんぺい)勅旌(ちょくせい)碑」が建っています。

この碑は、蒲生君平が明治維新に大きな功績があったので、明治天皇の
勅命で建てたそうです。

尊王論のさきがけだった蒲生君平は、宇都宮生まれの学者で、荒廃した
歴代天皇陵を調査、前方後円墳の名付け親でもあるそうです。




蒲生君平勅旌碑の少し先の西原三丁目バス停を右折して、旧日光街道から
外れ、住宅街の中を、東の方向へ向かいます。



歩くこと約10分で、
宇都宮城に着きました。

















城内に「宇都宮城ものしり館」があり、宇都宮城の模型などが展示されています。



(宇都宮城ものしり館)



(宇都宮城の模型)

説明のボランティアのおじさんに、早速、
「宇都宮城”釣天井”事件」について
質問します。

”釣天井の部屋は、この模型の中のどの建物だったのですか?”

”ご覧の様に、宇都宮城は全て平屋なので釣天井はありませんでした。”

”えぇ〜、釣天井が見たくて来たのに、もともと無かったんですか?”

”宇都宮市が、地域興しのために復元した釣天井が繁華街に飾られていた
のですが、反応がいまいちだったので、現在は、市の北部にある動物園の中に
展示しています。”

”えぇ〜?、釣天井が動物園の中に!?”

また、戊辰戦争の際の宇都宮の様子についても質問してみます。

”戊辰戦争で、新政府軍の宇都宮城は何故落城したのですか?”

”宇都宮城をめぐる激戦では、旧幕府軍の
新選組・土方歳三が、宇都宮城の
弱点である南東方面から猛攻撃をしたために、お城は落城し、城下町は
焼け野が原になってしまいました。”



(旧幕府軍の攻撃と城下町の焼失状況:宇都宮城のパンフレットから)


宇都宮城の前のバス停から、バスでJR宇都宮駅へ向い、JR宇都宮駅から、
上野東京ラインで、乗換えなしで横浜へ帰りました。


しかし、宇都宮と言えば、やはり
”宇都宮餃子”!!



帰りの電車の待ち時間を利用して、JR宇都宮駅前の餃子屋に入ります。

やはり、宇都宮まで来て餃子を食べずに帰る訳にはいきません。

う〜ん!、本場の餃子は、大きくて、香りも良くて、ジューシーで美味しい!

下の写真は「12種食べ比べセット」(1,200円)で、チーズ、ニラ、エビ、椎茸、
舞茸、肉など12種類の餃子を、1皿で満喫出来て、大満足です。


前回は、釣り天井事件の宇都宮城、日光街道と奥州街道との分岐点となる
追分を経て、宇都宮宿の外れまで来ました。

旧日光街道は、宇都宮宿を抜けると、直ぐに大きく左折して、下戸祭(しも
とまつり)に入ります。



暫く歩くと、Y字型の分岐点があり、旧日光街道は右手へ進みますが、
この分岐点に写真の
「勝善神(そうぜんしん)の碑」があります。



「馬頭観音」が馬の健康や死んだ馬の冥福を祈るものに対して、「勝善神」は
名馬の誕生を祈願するもので、「蒼善神」とも書くそうです。





左手に茨城県体育館を見ながら更に歩いて行くと、左に曲がる細い路地があり、その奥に写真の「高尾神社」がありました。







高尾神社の敷地内には、上の写真の「妙吉塚」が造られています。



この円墳状の塚の上には、1387年に建てられた供養塔「宝篋印塔」
(ほうきょういんとう)があります。



この「妙吉塚」は、南北朝時代の僧・妙吉の墓だそうです。



また、高尾神社の敷地内には、写真の「安産子育 地蔵尊」もあります。



昔、ここ戸祭(とまつり)村に、「新田の四郎」と呼ばれる大男が住んでいました。

四郎は、自分の背丈を後世に残そうと、上の写真の自分の高さと同じ1丈の
高さの石柱を建てたそうです。

高尾神社を出て、大きな交差点を過ぎると、上戸祭に入り、桜並木が
始まります。





旧日光街道は、中央に車道があり、両脇に桜と杉の並木、そして、更に
その外側の両方に車道よりも一段と高い歩道があります。



暫くの間、桜や杉の大木の並木が続きます。

単調な宇都宮市の郊外の住宅地から、江戸時代の旧日光街道の雰囲気を
残す緑に包また情緒ある道に一変しました!






その桜と杉の並木を暫らく歩いて行くと、左手に上の写真の
「上戸祭の一里塚」のヒノキがあり、右手には下の写真の様に塚だけが残っています。





左手に写真の宇都宮文政短大を見ながら、更に並木道を歩いて行くと、
その並木が途切れた左手に写真の「光明寺」がありました。





ここ光明寺は、将軍の日光社参の際の休息所になっていましたが、
寺の前には、立場(たてば)があったそうです。



東北自動車道の高架をくぐると、もう次の「徳次郎(とくじら)宿」に入り、
「下徳次郎」のバス停があります。




宇都宮宿から徳次郎宿までは、約9キロです。

16:雀宮へ

18:徳次郎へ


        
00:目次へ戻る