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日光街道を歩く  05:杉戸




(写真は、杉戸宿の「時代行列」で、「日光例幣使」役の「虻川美穂子」)

旧日光街道は、単調な直線の国道4号を延々と歩いたのちに、国道4号から
左へ分かれて杉戸宿へ入って行きます。





すぐ右手に小さな公園があり、杉戸宿の案内板がありました。





杉戸宿の町中を歩いて行きますが、宿場町の痕跡らしきものが何も
ありません・・・





やがて右手に、杉戸町役場があり、「日光街道 杉戸宿開設400年」の横断幕
が下がっていました。





町役場の先の信号を超えると、文政5年(1822年)創業の上の写真の
「関口酒造」の建物があり、「杉戸宿」という銘柄の酒を売っていました。





関口酒造の先の右手に、杉戸町の鎮守・「近津神社」がありました。



更に進むと、「本陣跡地前」の信号があり、左折すると「東武動物公園駅」です。



帰りは東武動物公園駅から、中央林間行きの急行で、横浜まで乗り換えなしで
帰ります。

電車に乗る前に、駅前で遅いお昼を食べようとお店を探しますが・・・

東武動物公園駅は、日光線と伊勢崎線の重要な分岐駅にも拘わらず、
駅前には、ドトールコーヒーと改装中の魚民の2軒しかありません。

しまった!、街道沿いの美味そうなうどん屋の「ふるさと」で食べておけば
よかった!

今月の30日(日)に、「杉戸宿400年」の祭りがある様なので、祭りの時間帯は
街道歩きを中断して、電車で東武動物公園駅まで引き返し、祭りを見物する
つもりです。



翌日、早朝に新横浜を出て、東急・あざみ野駅から乗り換えなしの急行に乗り、
前日のゴールの「東武動物公園駅」で下車します。



「杉戸」が駅名ではなくて、「東武動物公園」が駅名になっているので、
街道歩きでは戸惑います。

歴史ある「杉戸」を駅名にして欲しいです。

東武動物公園駅の前の道を進むと、本陣跡地前の信号があります。





その信号の角に上の写真の「明治天皇御小休所跡」の碑があり、その横の
下の写真の
「とらや薬局」は、江戸時代から「五疳之薬」(ごかんのくすり)を
売っていたそうです。



屋号「虎屋」の虎屋善蔵(内山周文)は、江戸時代の杉戸宿の漢方医で、
小児の疳(かん)を治す名医だったそうです。

現在の「とらや薬局」の店主は15代目です。



「とらや薬局」の道路向いに、上の写真の大きな松の木がある敷地があります
が、案内板によると、江戸時代には、この敷地に店舗があり、ここで「五疳之薬」を
売っていたそうです。



街道を少し進むと、右手の空き地の奥に、古い門構えと松の木のある上の
写真の家がありますが、ここが「本陣」であった長瀬家です。




本陣跡の先の
「枡形」の道の角に、母屋と蔵が並ぶ写真の「小島定右衛門邸跡」がありました。



小島定右衛門邸は、米穀問屋で、枡形の道の角にあったので、屋号が
「角穀(かどこく)」だったそうです。

杉戸宿には、上記の様な江戸時代の建物が数軒点在している以外には、宿場町の遺構は何も残っていません。



少し歩くと、街道の左手に
「宝性院」の看板が見えたので入ってみます。



立派な山門の前には、写真の大小3本の石碑がありました。





左の小さな石碑には「庚申塔」の文字が、中央と右の石碑には「青面金剛」と
金剛に踏みつけられる「邪鬼」が彫られています。







境内の説明板によると、江戸時代には、「宝性院」には、杉戸の寺子屋が
設けられていましたが、明治5年に学制が布かれ、そのまま小学校に
なったそうです。





境内には、
日光街道で一番大きいという写真の「馬頭観音」(1810年)が
あります。





宝性院を出て、旧日光街道を歩いて行くと、右手に雰囲気のある上の写真の
「渡辺勘左衛門邸」があり、直ぐに国道4号に合流します。





国道4号を暫く歩くと、右手に、綺麗に整備された「心学の道」があったので、
少し歩いてみると、稲荷神社の横に写真の「恭検舎」(きょうけんしゃ)が
ありました。





説明板によると、ここ「恭検舎」は、江戸時代の心学者の大島有隣(うりん)が、
村民に心学を教えるために、1785年に建設したそうです。

心学の道から単調な直線の国道4号に戻ります。





国道4号の両側は、外食産業のチェーン店、パチンコ店、自動車販売店などが
並びます。



国道4号を更に歩くと、やがて幸手市に入り、その先の左手に東武線
「杉戸高野台駅」の標識があります。







旧日光街道は、その先のホンダ幸手店から、国道4号から分かれて左に入って
行きます。







やがて、東武日光線の踏み切りを渡り、公民館を右手に見て、高速道路をくぐって進むと、T字路にぶつかります。



左手から来て、このT字路にぶつかる道が「日光御成り道」です。



「日光御成り道」は、江戸城をスタートして、このT字路で、旧日光街道に合流し、あとはゴールの日光東照宮まで同じ道です。



「日光御成り道」は、将軍が日光東照宮へ参拝するための、江戸城から杉戸宿
までの脇街道で、もともとあった鎌倉街道を整備した道です。

この御成り道が合流するT字路の追分を右折すると、左手に下の写真の

「神宮寺」
がありました。



説明板によると、神宮寺は、源頼朝が奥州征伐の折際に、この地で鷹狩をし、
戦勝を祈って開基した寺だそうです。
中世の頃は、ここ神宮寺村の全体が神宮寺の寺領だったそうです。

上の写真は、神宮寺の前の六地蔵尊です。



神宮寺から少し進むと、東武線の踏切を越えて、まもなく、倉松川に架かる志手橋を渡ります。



志手橋を渡ったところから幸手宿です。





10/30(日)は、
「杉戸宿400年・宿場まつり」でした。

私は、幸手宿での日光街道歩きを一旦中断して、2:20からの「時代行列」に
間に合う様に、幸手駅から東武動物公園駅に引き返しました。

東武動物公園駅で降りて、祭りのメインステージへ向かう途中に、下の写真の
「杉戸宿400年・宿場まつり」の臨時案内所が設けられていました。



臨時案内所の中には、杉戸宿の模型が作られていて、ボランティアのおじさんが、宿場町の説明をしていました。



そのボランティアのおじさんの話だと、江戸時代には、旧日光街道は、杉戸宿の外れの宝性院から先は、古利根川に沿った道だったそうです。



時代行列まで、未だ時間があったので、そのボランティアのおじさんに聞いた
古利根川沿いの旧日光街道を歩いてみます。



川沿いの旧日光街道の脇に、写真の富士塚があり、その岩山の一角の自然石
に、
芭蕉の句が刻まれていました。(写真の赤丸印)





”八九間(はちくけん) 空で雨ふる 柳哉(かな)” はせ越(芭蕉)

(柳の大木の下の8〜9間は、雨上がりの後も、空から雨が降るかの様に、
 しずくが垂れている。)

川沿いの旧日光街道から、宿場まつりのメインストリートに行きます。



ステージが設けられ、地元グルメ等を販売する出店も並んでいて、地元の人達を中心にした見物客で賑わっています。









「旧渡辺金物店」
では、本日限りの古民家特別公開が行われていたの入って
みました。



2:20の時代行列開始時間になったので、スタート地点の宝性院へ向かいます。

町民400人が参加する「時代行列」は、日光東照宮への勅使「日光例幣使」や
武者行列、武士、町人などが杉戸宿の1キロを練り歩きます。











「日光例幣使」役は、お笑いタレントで杉戸町宣伝大使の「虻川(あぶかわ)
美穂子」でした。



う〜ん、日光例幣使とはちょっとイメージが違うけどなぁ〜・・・



でも、周りの見物客からは、”あら、虻ちゃん、意外と美人なのね。”といった
囁きが聞こえ、どよめきが起きます。

しかし、時代行列は意外と短く、私が期待した程の規模ではありませんでした。

時代行列のあとには、神輿や山車が続きます。








私は、時代行列だけをざっと見終えて、東武動物公園駅から幸手駅まで戻り、
日光街道の続きの幸手宿を歩きます。


杉戸宿から幸手宿までは、約7キロです。


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06:幸手へ


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