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日光街道を歩く 04:粕壁 


 

(写真は、春日部宿の名物和菓子「あんびん」)

「春日部(かすかべ)」宿は、江戸時代には「粕壁(かすかべ)」宿と書きました。

今でも、地名や小学校名には「粕壁」が残っています。



春日部宿は、江戸時代には、古利根川で江戸とを結ぶ船の交易路として賑わい、米麦の集散地として栄えました。




本日は、前回のゴールだった東武伊勢崎線・春日部駅からスタートします。



駅前の広い道路の右角にある観光案内所
「ぷらっと かすかべ」に入って、
おじさんに春日部宿の見どころを聞きます。



春日部宿の街歩きのパンフレットをもらい、このパンフレットに従って、昨日
歩いた春日部宿の入口の変形十字路まで引き返します。



変形十字路の向こう側に、松尾芭蕉が最初に宿泊したと言われる
「東陽寺」
屋根が見えます。





信号を渡って、東陽寺の境内に入ると、本堂の階段横に下の写真の石碑が
ありました。



「廿七日の夜、カスカベニ泊マル。江戸ヨリ九里余」
の文字と、 左下に芭蕉と弟子の河合曾良の旅姿が彫られています。

上の文章は、芭蕉に同行した曾良の旅日記の一部だそうです。

東陽寺を出て、パンフレットに従って、粕壁小学校の隣りの下の写真の
「春日部市郷土資料館」(無料:月曜休館)に向かいます。



資料館には、春日部宿の縮小模型や高札、石柱などが展示されています。





資料館を出て、歩道幅の広い旧日光街道に戻って歩いて行くと、江戸時代からの製法を引き継ぐという和菓子の「江戸助」がありました。





昔から変わらぬ名物だという下の写真の
「甘あんびん」餅(160円)を買います。



この「あんびん餅」は、埼玉県で古くから食べられている和菓子だそうで、
餅が粒々で柔らかいけど、しっかりした歯応えです。



お洒落な旧日光街道の右手には、今、親子で骨肉の争いを演じている
「大塚家具」の大きなビルがありました。



更に進むと、上の写真の老舗
「田村屋」の前に、下の写真の石の道標
ありました。



道標の4面には、「北 日光」、「東 江戸」、「西南 いはつき(岩槻)」、
「天保五年(1834年)」と刻まれています。



この田村屋の前で写真を撮っていると、春日部市の建物保存会の役員だという
オジサンから声を掛けられました。

そして、話しが弾んで、このオジサンに、現在修復している江戸時代の蔵の現場を案内して頂けることになりました。



蔵の持ち主の了解を得て、敷地内に入り、東北大地震で痛んだという修復中の
江戸時代の蔵の説明を受けます。



現在、お城の復元・修理を専門にしている大工さんを呼んで修復工事をしている
そうです。





上の写真の白い装飾の窓枠は、冠木門(かぶきもん)の形をしているので「冠木」と呼ぶそうです。

そして、窓枠の両脇を覆う2つの黒い四角の箱は、直接吹き付ける雨水から、
冠木の漆喰(しっくい)を守るためのものだそうです。



上の写真の黒い木は、江戸時代の雨樋を留めるためのものだそうです。

修復中の蔵の現場を出て、パンフレットに従って、お洒落な旧日光街道の
歩道沿いの遺構跡を見ながら進みます。



(本陣跡)



(脇本陣跡)



(問屋場跡)

街道の右手には、宿場町を思わせる土蔵や旧家が点在します。







上の写真は、江戸初期から米屋をやっているという「永嶋商店」です。



上の写真の様に、街道歩きの人の為のトイレもお洒落です。



(古利根川に架かる”光と風をテーマにした橋上公園”)

更に進むと、正面に、徳川家光の遺骨を一時安置していたという「最勝院」が
見えます。



最勝院の前の旧日光街道を少し戻ると、古利根川に架かる「新町橋」があります。





「新町橋」の付近の古利根川が合流するこの辺りには、江戸時代には、船荷の
積み下ろしのための「上喜蔵(かみきぞう)河岸」があり、川に面した側には
蔵が立ち並んでいたそうです。



春日部宿の外れのこの「新町橋」を渡ります。



英国の旅行家であるイザベラ・バードは、「日本奥地紀行1」の中で、「粕壁宿」について、以下の様に書いています。

 どこまでも水田が続く中を抜ける人通りの多い街道をそのまま走り続けた私達の人力車は、夕方、粕壁に着いた。

 かなり大きな町ではあるが、みすぼらしい感じのする町だった。

 私達は、ここの大きな宿屋で一夜を過ごした。

 私達が入って行くと、宿の主人が両手をつき、額が床につかんばかりのお辞儀  を3度もして挨拶した。

 大きな開けっ放しの炊事場では、30人以上の女中が忙しく立ち働いていた。
 私の部屋は2階の通りに面した細長い大部屋だったが、部屋の中の敷居の
 襖(ふすま)が引かれ、その大部屋はたちまち4つの小部屋に分かれた。

 その小部屋は、畳が敷いてあるだけで、物を置く棚などは何も無かった。

 部屋の外側には、同じ様な多くの部屋とつながる開けっ放しの縁側があり、どの 部屋にも人が入っていた。

 目の粗い緑の麻布で出来た蚊帳はかび臭く、蚤と蚊に悩まされた。

 その上、襖がしょっちゅう音も無く開けられ、その度に、数人が僅かな隙間から、 細長い黒い目で私をしげしげと見つめた。

 表の道には、大声が溢れ、盲人のあんまが笛を吹く音や、家事の警戒のための 夜回りの拍子木の音が鳴り響いていた。

 その後、日本全国を旅したのちに、世界中で日本ほど女性が安全に旅の
 出来る国は無いと確信した。

 

春日部宿の外れの「新町橋」を渡って、直ぐにY字路を左折します。









少し進むと、右手に「小渕の一里塚」跡の石碑と、庚申塔(1832年)が
並んで建っていました。



更に進むと、道はY字路になっており、右手は白壁の塀で、中央の分岐点
には、大小2本の石碑が建っています。





この石碑が、
「日光街道」と「関宿(せきやど)往還道」との追分です。

関宿往還道とは、千葉県野田市の城下町・関宿へ向かう脇街道です。

大きい方の石碑には、宝暦4年(1754年)「左 日光道」「青面金剛」と
彫られています。

小さい方の石碑には、宝永6年(1709年)「右方 せきやど(関宿)道  
左方 あふしふ(奥州)道」と彫られています。



旧日光街道は、この追分の石碑の先で国道4号に合流し、国道16号を
横断します。






国道4号を暫く進むと、左手にかなり古い感じの仁王門がある
「小渕観音院」
がありました。



近づいてみると、仁王門は元禄年間(1688〜1704年)の創建で、今にも
崩れそうなくらいに痛んでいます。

  

仁王門の左右には、写真の様に、迫力のある木造の仁王像が建っていました。

説明板によると、昔、洪水があり、ここの本尊である正観音像がこの地に
流れ着いたので、村人は、この正観音像を元の寺に返しました。

ところが、その後、再び洪水があり、何と!、この正観音像が、再度この地に
漂着しました!



そこで、村人は、ここにお堂を建てて、この正観音像を安置したそうです。

この「小渕観音院」は、別名「こぶとり観音」とも呼ばれ、イボ、コブ、アザの
取り除きにご利益があるそうです。

小渕観音院を出て、左手に東武線「北春日部駅」の標識を見ながら、何も無い
単調な直線の国道4号を延々と歩いて行きます・・・







国道4号を更に進むと、大きな杉戸町の看板があり、その先の歩道には、
「すきすき すぎーと36」の表示があり、歩道幅が少し広くなりました。



 

その「すきすき すぎーと36」を歩いて行くと、歩道上に、写真の球形の
モニュメントが置いてあります?



その説明版によると、 球形のモニュメントは地球儀であり、その地球儀の
北緯36度線上に杉戸町が記されています。



どうも北緯36度線上に杉戸町がある、という意味のモニュメントらしいです。





更に、国道4号を進むと、左へ国道4号から分かれる道があり、これが
旧日光街道です。



左手に、上の写真の九品寺(くほんじ)を見ながら、旧日光街道を暫く進むと、
再び国道4号に合流しました。





国道4号を少し歩くと、またまた、旧日光街道は、堤根の信号から左へ分かれ、
杉戸宿の中心部へ入って行きます。




春日部宿(粕壁宿)から杉戸宿までは、約6キロです。


03:越谷へ

05:杉戸へ


        
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