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日光街道を歩く  03:越谷




(写真は「塗師屋」)

越谷宿は、明治の大火で町のほとんどを焼失してしまったため、残念ながら、
昔の面影は全く残っていません。

しかし、越谷宿の端の元荒川の辺りには、蔵が家の横にある立派なうだつの
付いた下の写真の
「塗師屋」(ぬしや)の建物が残っています。



「塗師屋」(小泉右衛門宅)は、江戸時代の”太物屋”(ふとものや:綿織物や
麻織物を扱う呉服屋)で、先祖は漆(うるし)も扱っていたそうです。
現在の当主も、江戸時代と同じ名前の小泉右衛門さんだそうです。

また、塗師屋の隣の同じ様な造りの
「鍛冶忠」(現在は会田荒物店)も残って
おり、この辺りだけが越谷宿の雰囲気を残しています。



この先の元荒川の先に架かる大橋で、あっけなく越谷宿は終わりです・・・



旧日光街道から少し外れて、この元荒川橋の手前の細い道を、元荒川沿いに
歩いて行きます。

その何もなさそうな小道の右手に、写真の
「越ケ谷御殿跡」の碑がありました。



ここは、徳川家康が、越ヶ谷宿に御茶屋御殿を造り、 鷹狩の拠点としていた所だそうです。



明暦の大火(1657年)で江戸城が被災した際に、ここにあった屋敷を江戸に
運んで、江戸城の再建のために使用されそうです。
えぇっ〜、ここから江戸まで屋敷を運んだの?、驚き!

その後、家康と秀忠が別荘を建てて「御殿」としたそうです。



この御殿跡先に、上の写真の
「建長元年の板碑」(板石の塔婆)がありました。

この板碑の先を更に進んで小さな橋を渡ると、
「久伊豆(ひさいず)神社」
長〜い参道がありました。





















久伊豆神社は平安末期の創建で、室町時代(1467年)に、宇佐見氏がこの地を領したときに社殿を再建しました。



江戸時代には、代々の徳川将軍家の保護が厚かったそうです。

また、「足止め」といって、狛犬の足に縄を巻き付けて、願掛けすると、家出を
した家族の者が必ず帰ってくるそうです。

最近では、「久伊豆」が「くいず」と読めることから、クイズ番組に出場する人が
参拝するようになったそうです・・・



久伊豆神社の隣りには、
「天嶽寺(てんがくじ)」がありました。





家康・秀忠・家光も狩猟のたびに訪れていたそうです。







天嶽寺を出て、元の道に戻り、元荒川に架かる大沢橋を渡り、旧日光街道を進みます。



やがて、東武線の高架をくぐって左折すると、左手が桜堤という名の元荒川の
土手です。





ここから国道4号と合流するまでの約3キロの間、歩道の無い非常に
歩きづらい道が延々と続きます。



東武線の踏切を渡って、東武線「大袋駅」を左手に見ながら、歩道の無い道を
トボトボと歩いて行きます・・・













ようやく国道4号と合流すると、今度は、歩道はあるものの何も無い単調な直線の道です。





東武線「せんげん台駅」を左手に見ながら更に進みます。



上の写真の「歓喜天(かんきてん)」を左手に見て、新方川に架かる戸井橋を
渡ると、ここから春日部市です。

















更に、単調な国道4号を延々と歩いて行くと、備後北の信号の脇に、下の写真の「備後の一里塚」碑がありあました。











左手に「一ノ割駅」の看板を見て、更に、単調な国道4号の直線の道を延々と
歩いて行き、東武野田線のガードをくぐります。





その先の先の変形十字路は、直進は四号線、左折すると旧日光街道で、もう
粕壁(春日部)宿です。



本日は、取り敢えず、東武伊勢崎線の春日部駅から横浜へ帰ります。

東武伊勢崎線は、地下鉄半蔵門線を経由して、横浜の中央林間まで、相互乗り入れ・直通運転しているので、横浜まで乗り換えなしで帰れます!
しかも、この直通運転は、何と!10分毎に急行があります!

東武伊勢崎線は、ずっと日光街道と並行して走っているので、横浜発で
日光街道を歩くのは超便利なのです!


越谷宿から粕壁宿までは、約11キロです。


02:草加へ

04:粕壁へ


        
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