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29-2:塩尻峠




(写真は、塩尻峠からの諏訪湖の眺め。)

下諏訪の宿場町を抜けて、 難所・塩尻峠へ向います。



左手に、今朝下車したJR下諏訪駅を見ながら進むと、街道は国道から分かれて左手に入ってゆきます。

街道に入ると、直ぐに左手の広場に
「魁(さきがけ)塚」があります。



案内板によると、1868年、
江戸城総攻撃の先鋒として出発した「赤報隊(せきほうたい)」は、「租税半減」を布告して、農民の支持を得ながら進軍しますが、後に「租税半減政策を撤回」した新政府から疎んじられ、「偽の官軍」の汚名を着せられ、ここで斬首されました。



可哀相〜・・・

後に、同志によってが築かれたのがこの魁塚だそうです。




魁塚を出て、”中山道”の矢印に従って、暫く住宅街の中を歩いてゆくと、下の写真の「いなみち道標」(岡谷道追分)がありました。



写真の様に、「右 中山道 左 いなみち」とあり、左折すると伊奈街道です。

いなみち道標の先は、写真の様に、街道の両側に生垣が続く高級住宅街です。



街道が、国道20号を横切ると、やがて右手に、日本橋から56番目(約224キロ)の「東堀の一里塚」がありました。



一里塚を過ぎると、街道は緩やかな上り坂となり、道祖神や古い蔵が目立つ様になります。







スタートの「魁塚」から歩くこと約1時間、大きな御屋敷の
「今井家茶屋本陣」が見えて来ました。 



ここは、難所・塩尻峠を控え、「今井立場」として賑わったそうです。

(立場とは、峠のような難所を控えた所に設けられた茶屋や売店などの休憩施設です。)

茶屋本陣から中を覗いてみると、多分、現在も今井家の子孫の方がお住まいなのでしょう、写真の様な立派な御屋敷がありました!





塩尻峠を越えてきた皇女和宮や明治天皇もここで休息したそうです。

茶屋本陣の前には、高島藩(諏訪藩)が設けた「今井番所」跡の石碑があり、ここを通過するには高島藩が発行する通行手形が必要だったそうです。



本陣の先から、急な上り坂になり、左手下に岡谷インターチェンジを望む様になると、更にかなり急な上り坂になります。







その道幅の広い急坂を上っていくと、右手に急階段が見え、その上の方に
「石舟(いしふね)馬頭観音」がありました。



急な石段を延々と上りますが、垂直に近いくらい急で、足元をみると高所恐怖症に・・・





怖いよ〜!





階段を下りて、元の道に戻ると、街道は、石舟馬頭観音を右手に入ってゆきますが、直ぐに、写真の「金明水」があり、これは、明治天皇も飲まれた名水なのだそうです。



岩船観音の先から塩尻峠の本格的な登りが始まりました。

更に上ると左手に大岩が現れます。



いよいよ、塩尻峠を目指して、急な坂を上ってゆきます。





写真の様に、舗装されているので、歩きづらいことは無いし、道に迷う心配もありませんが、延々と上り坂が続くので、気合いを入れて歩いてゆきます。



「今井家茶屋本陣」から山道を歩くこと約1時間、曲がりくねった坂道を上り切ると、塩尻峠の頂上に着きました!



和田峠や碓氷峠に比べると楽勝でした!

途中、誰とも会わなかったので寂しかったですが、舗装された道路で、道に迷う心配も無く、難所のイメージは全くありませんでいた。



峠の奥の展望台に上り、
塩尻峠からの眺望を楽しみます!



手前の岡谷市の市街地の先に諏訪湖が開ける絶景です!

絶景かな!絶景かな!



空気が澄んでいればその先に富士山も望めるそうです。


英泉が描く浮世絵「諏訪ノ湖水眺望」は、ここからの冬景色です。



中央に富士山、左手は八ヶ岳で、正面の湖畔の城は高島城です。

眼下の家々は岡谷村で、右手前の塩尻峠へ向かう坂道では、馬に乗った旅人と馬子が景色に見とれています。

中央の凍結した諏訪湖に見える氷の盛り上がった亀裂は、上諏訪の男神が、下諏訪の女神もとに通うにための「御神渡(おみわたり)」と呼ばれるで道です。

「御神渡」のあった後の氷上は安全ということで、旅人達が、その氷の亀裂に沿って歩いています。


塩尻峠からの下りは、最初は急ですが、先へ進むと緩やかな下りになります。




突然、「熊出没注意」の看板。



おっとーっ、危ない危ない。

でも、大丈夫!今回は、碓氷峠の失敗に懲りて、ちゃんと
熊除けの鈴とラジオを持って来ました!



ラジオを大音量にして、鈴を鳴らしながら歩きま〜す。






 

まもなく写真の「明治天皇塩尻嶺御膳水」と刻まれた石碑があり、その後ろにそれらしき井戸があります。



石碑の向かい側は
上条家「茶屋本陣跡」(非公開)で、現在も子孫の方が住まわれているみたいです。





本陣跡から少し歩くと、さらに数分歩くと、下の写真の
「夜通道(よとうみち)地蔵」がありました。



案内板によると、「ある美しい娘が岡谷の男と親しくなり、毎夜この道を通った」のでこの名前がついたのだそうです。

しかし、夜中に、娘が一人で、こんな真っ暗で長〜い夜道を、毎晩歩いていたなんて・・・
恋心は恐ろしい・・・

地蔵からしばらく歩くと、写真の「東山一里塚」がありました。







また延々と山道を歩いたあと、左折して、国道20号に合流し、国道を延々と歩いてゆきます。



そろそろ、中山道の国道からの分岐点があるハズ、なのですが見当たりません・・・

注意して少し引き返して見ると、下の写真の様に消えかかった文字の”中山道”の矢印板が・・・



危ない!危ない!


完全に通り過ぎるところでした!

旧道に入り、緩やかな坂を下ってゆくと、旧道は、地下道で、大きな道路を横切り、陸橋で中央高速道路を越えます。





高速を越えると、江戸時代に立場というとして賑わった
「柿沢集落」へ入ります。





柿沢集落は、皆、驚くほど豊かで金持ちの集落みたいな感じです!

何故なのだろう?









どの家も、写真の様に構えが古風で、門や庭の造りも風格があります。





柿沢集落の中心を抜けると、右手に「永福寺」が見えて来ます。




木曽義仲の子孫が、1707年に、馬頭観音を本尊として再興した寺だそうです。



永福寺の少し先に「塩尻宿」の石碑が建っており、もうここから塩尻宿です。

下諏訪宿から塩尻宿までは約11キロです。