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28−2:和田峠



(写真は、中山道の和田峠。左は絶壁!

 かなり深い谷で、足元は遥か下に急流で危険!

 道幅は狭く、足元はやっと足がつける感じで石がゴロゴロ。)


山道が険しい和田峠は中山道最大の難所でした。

このため、冬期の和田峠越えは、降雪で想像を絶する厳しさでした。





また、峠を挟んで、東の和田宿と西の下諏訪宿の距離は22キロと長く、1日で歩くには厳しい行程でした。


浅田次郎著「一路」では、大名行列の命がけの雪中・和田峠越えが描かれています。

次の下諏訪までの1日22キロの厳しい山道の行程は、私の足では絶対に無理ですし、険しい峠道は迷う恐れもあるため、この行程だけ、旅行社主催のウォーキングに参加します。

このために、前回は、今回参加する「和田峠越え歩きコース※」
の出発点である「和田峠入口」までを歩いておきました。
(詳細は「24:八幡」をご覧ください。)

※「クラブツーリズム社・中山道を歩くNO19.」
  (1泊2日で34,000円)
   ・本日:歩行12キロ=和田峠入口〜浪人塚
   ・明日:歩行 8キロ=浪人塚〜下諏訪宿
       (計20キロ⇒残り2キロは前回歩き終えてます。)

上記の様に、この旅行社は、和田峠越えを2日に分けて歩きます。

本日の夕方には、峠越えの途中の浪人塚までバスが迎えに来て、本日宿泊する下諏訪温泉のホテルまで運んでくれます。

そして、明日の朝、下諏訪温泉のホテルから、浪人塚までバスが送ってくれます。

従って、今回は、私はツアーの案内者に付いて歩いて行くだけなので、道に迷う心配もありません。



今回のツアーの参加者は30名くらいで、皆さん、日本橋から和田宿まで、ずっと一緒に歩いてきたお仲間みたいです。

ツァーは、7:30にバスで新宿を出発し、和田宿で昼食を取った後、写真の「和田峠登り口」で、我々を降ろし、いよいよ和田峠歩きが始まります。



「和田峠登り口」には、写真の様に、中山道の標柱が立っています。



狭くて急な山道を上り始めますが、想像していたよりも歩き易い
山道です。


その山道を少し歩くと、峠を往来する人馬の無事を祈ったという、下の写真の「三十三体観音」が見えてきました。





三十三体観音を過ぎると、道幅の比較的に広い、緩やかな上り坂の山道になり、下の写真の様な快適なハイキングコースです!





暫く歩き、一度国道に出ると、国道の向かいに、写真の「接待茶屋」(永代人馬施行所)がありました。



接待茶屋とは、中山道の旅人に無料で人に粥を提供し、また、馬には煮麦を施した所だそうです。

建物内には、煮炊きに使用していたかまど等が残っています。



また、接待茶屋の脇には、湧き水が汲める場所があり、車で来た人がポリタンクに水を汲んでいました。

接待茶屋を出てたら直ぐに国道から分かれて、左手の山道に入ります。

草の生えた柔らかくて歩き易い山道を歩いてゆくと、写真の 「近藤谷一郎巡査殉職」の供養碑がありました。



明治時代に、巡査が、護送中に逃走した犯人を捕まえようとしてこの付近で格闘となり、刺され殉職した時のものだそうです。

更に、山道を歩いてゆくと、苔むして滑りやすい、大きい石がごろごろしている歩きにくい急な上り坂に変わってきます。




















その苔むした山道が途切れ、しばらくすると「広原の一里塚跡」です。





江戸時代、降雪期に、この辺りが一面雪の原となり道が埋もれたとき、9m四方のこの塚が旅人の道標となったそうです。



山道は、やがて国道と合流し、間もなく左側にドライブイン「東餅屋」が見えてきました。



江戸時代には、この辺りには、5軒の茶屋があって名物の力餅で繁盛していたそうですが、交通機関の発達で歩く人がほとんどいなくなり、現在は、このドライブインだけになってしまったそうです。

名物の力餅(野沢菜付き350円)を食べ、体力を回復します。



さっぱりとした甘さで美味しかったので、土産用の力餅も買います。



峠の頂上まで、あと1.5キロです。



国道を横断して、林の中の山道を進み、下の写真のトンネルをくぐります。



更に進むとビーナスラインに出ますが、旧中山道は、ここからビーナスラインを3度横切ります。







左手にスキー場を見ながら、急な坂道を登り切ると、間もなく、和田峠頂上に着きました!!

峠の広場には、写真の御嶽山権現碑が建っています。







この付近は、冬になると積雪が3メートル近くになり、道がどこだかわからず、歩くのが困難だったそうです。



晴れていれば、ここから、諏訪湖と下諏訪の街が見えるそうですが・・・



今日は、霧雨のため、写真の様に、頂上からの景色は何も見えません・・・

残念!

下の写真は、中山道のテレビ番組で、池上季実子と浅田次郎が、和田峠の頂上を目指す場面です。









上の写真は、池上季実子と浅田次郎が、和田峠の頂上に来たときに見えた下諏訪の街です。

そうか〜!

頂上からこの様に下諏訪の街が眺められたハズだったんだ・・・

残念!!

これから先は、「下諏訪」に向かって下るだけですが、インストラクターの話だと、和田峠のホントの難所は、この先の下り坂だそうです・・・









下り始めると、確かに、道は段差のある急傾斜の坂になり、道幅が非常に狭く、足場が不安定です。




転げ落ちそうです・・・


峠頂上まではハイキング気分だったのですが、下りは、ツアー参加者にも緊張感が走ります・・・



更に下ると、周辺は笹が非常に多くなり、草むらを掻き分けながら歩きます。





旅行社のパンフレットの必携品に「軍手」とあった意味が分かりました!!

軍手が無いと、笹を掻き分けるときに手が切れてしまいます・・・



私は隊列に付いて行くだけなので、気楽なのですが、笹を掻き分けながら、道無き道の先頭を進むインストラクターは大変でしょうね。

やはり、一人旅で無くて良かった・・・



更に、暗くて細い山道が続きます。







急な坂道を40分くらい下り続けると、ようやく前方が開け、草むらに、写真の「西餅屋跡碑」がありました。





この辺りには、茶屋本陣など4軒の茶屋があったそうで、東餅屋と同様に繁盛していたそうです。

西餅屋跡碑から、更に下り始めると、すぐに写真の「西餅屋の
一里塚」がありました。



一里塚跡碑を過ぎると、山道は極端な悪路と化し、身の危険を感じる様になります・・・













林の中の道の痕跡らしきところを歩いてゆきます・・・

この辺りの山道は、地震や雨の影響でしょうか、山道が崩れてしまった所もあります・・・





山道の左側は、何と!、
断崖絶壁の崖です!!





足場が急傾斜の崩れた岩道で、足をつくのがやっとの10センチくらいの非常に狭い道幅で、足元は石がゴロゴロしていて非常に危険です!!


崖下はかなり深く、足元の遥か下には急流が・・・



その崩れた石ころだらけの道をゆっくりと進みます・・・

怖いよ〜!!


ps.帰宅してから「誰でも歩ける中山道五十九次」を読んだら、上記の崖沿いの道について、”このルートは、崖崩れで崩壊しており、通行不能。筆者もトライしてみたが、残っている旧道部分は僅か10センチほどで、崖下はかなり深く危険なので、途中で引き返した。”と記載されていました。
やっぱりね。一人旅だったら遭難してたかも・・・




誰でも歩ける中山道六十九次 (上巻)
日殿言成
文芸社






張りつめた気持ちで、急傾斜の崩れた危険な岩道を歩き終わると、倒木で遮断された山道が続き、そこを抜けると、そのまま国道へ出ました。

国道の下り坂を延々と歩いてゆきます。



国道から、左側に分かれる細い道に入り、更に下りると「浪人塚」の公園があり、ここにバスが迎えに来てくれていました。

迎えのバスで、下諏訪温泉の豪華な「RAIKO華乃井ホテル」へ行き、美味しい夕食を食べ、温泉に入って、一日の疲れを癒しました。








(写真は、国家「君が代」の歌詞にある「さざれ石」)

今日は、旅行社のバスで、昨日のウォーキングの最終地点「浪人塚」まで送ってもらい、浪人塚から下諏訪宿の「諏訪大社・秋宮」までを半日かけて歩き、その秋宮から新宿まで旅行社のバスで帰ります。

本日のスタート地点の「浪人塚」には、写真の 「浪人塚碑」と「水戸浪人墓」が並んでいました。







1864年、天狗党と呼ばれてた尊王攘夷派の水戸浪士・千余人と、幕府側の松本・諏訪(高島藩)連合軍・千余人との間で激戦が繰り広げられた跡で、ここで討ち死にした天狗党の浪士を葬った塚だそうです。

浪人塚の横のパーライト工業の裏の道を歩いて行くと、やがて国道と合流します。



国道を更に歩くと、皇女和宮も御小休みした「樋橋(とよはし)茶屋本陣跡」の石碑が建っていました。







ここからは、上の写真の「樋橋の一里塚」を右手に見て、下諏訪宿に向かって、ひたすら国道142号を下って行きます。



延々と国道を歩き、町屋敷集落を過ぎると、テレビニュースでお馴染みの「木落とし坂」がありました。





ここは7年に一度、傾斜度45度の急坂から、巨大な御柱を滑り落とす勇壮な「諏訪大社の御柱祭り」で知られ、けが人が続出するそうです。





坂の上から下の国道を見てみると、木落し坂は、テレビ画面から想像していたのと違い、まさに絶壁という感じです!!

足元の国道上の車が豆粒の様に見え、目も眩む高さです!



木落しから下りてゆくと、国道沿いにに「芭蕉句碑」がありました。



”ゆき散るや 穂屋のすすきの 刈残し”

(刈り残しのススキの穂に雪がちらついていてとても趣がある、という意味。

”穂屋”は、信州諏訪大明神の祭りで使われるススキの穂。)
   
国道に出てしばらく歩いてゆくと、やがて、国道と別れ右に下っていく旧道入口があり、この旧道を進むと、やがて眼下に下諏訪の街が見え始め、そして「諏訪大社下社春宮」に着きます。






    ?
一路(上)
浅田 次郎
中央公論新社

この「春宮」は、「下社」とも呼ばれ、写真の巨大な注連(しめ)縄が見事です。








春宮の境内から左手奥に入り、赤い橋を渡った奥に、下の写真の「万治の石仏」がありました。



ここの石仏は普通の石仏と違い、大きな自然石の上に首がちょこんとのっていて、ユニークな石仏として人気があるそうです。




上の写真は、中山道のテレビ番組で、この万治の石仏の由来を、池上季実子に説明する浅田次郎です。

その説明によると、万治3年(1660年)に彫られた石仏ですが、もともとは春宮の大鳥居を造ろうとノミを入れたところ、切り口から血が流れ出てきたため、恐れた石工が阿弥陀如来を彫り祭ったのだそうです。

諏訪大社・春宮を出て、中山道へ戻り、少し歩くと、街道の右手に、武田信玄由来の慈雲寺があります。



お寺の階段の途中に、矢を避ける霊力があるという下の写真の「矢除石」がありました。



慈雲寺の和尚が、この石の上に乗り、武田信玄に「私を矢で射てみよ」と言うので、信玄が矢を射ると、矢はすべてこの石に跳ね返されてしまった、とのこと。




武田信玄は、この矢を除ける念力がこもった「矢除石」の「矢除札」を受けてから戦場に向ったそうです。

慈雲寺を出て、街道に戻り、民家の壁際にある「下諏訪の一里塚跡碑」を見ながら歩いてゆくと、下諏訪の宿場町に入ります。



そして、宿場町の坂を上り切って、甲州街道との分岐点を通り過ぎると、このツァーの本日のゴールの「下社秋宮」です。











秋宮の「幣拝殿」の両横に、「一の御柱」と「二の御柱」が立てられており、「三の御柱」と「四の御柱」は幣拝殿の後ろに立てられていました。





ツアーコンダクターの説明によると、通の人が「御柱」を見るポイントは、丸かった柱が「木落し坂」で擦り減って、平らになった部分を探すことだそうです。

ふ〜ん・・・

境内には、国家「君が代」の歌詞にある写真の「さざれ石」がありました。





君が代は 千代に八千代に さざれ石の


巌(いわお)となりて 苔のむすまで



(「小さな石が寄り集まって、大きな岩となり、更に、その上に、

美しい苔が一面に生えるまで、いつまでも栄えますように)

子供の頃には、”小さな石が集まって大きな岩となる”なんて非科学的だな〜、と思っていましたが、地質学的には正しかったんですね!         

初めて、本物のさざれ石を見て、長年の疑問が解決し、感激です!!

秋宮の見物を終わったところで、迎えに来ていたツァーのバスに乗り込み、新宿へ向かって帰途につきます。

和田宿から下諏訪宿までは、約22キロです。


28-1 :和田

29-1:下諏訪

            
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