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17-2:碓氷峠



(写真は、「熊出没注意」の看板)

いよいよ、中山道の中で、
和田峠と並んで最大の難所「碓氷峠越え」を目指します!



坂本宿を抜けて、国道を少し歩くと、写真の林道始点の標識があり、旧中山道はここから山道に入ります。











やがて、階段状の道を上ると、直ぐに、先ほど別れた国道を横切ります。



そして、その国道の脇に、大きな
「中山道入口」の看板があり、その横にバス停風の休憩所もあります。

碓氷峠の頂上の熊の神社まで、8キロ余りです。

いよいよ
峠越えのスタートです!!



坂本宿の峠の湯で、露天風呂に入り、ソフトクリームを食べたりして、随分と寄り道をしてしまったので、スタート時刻がお昼になってしまいました・・・



あまりノンビリしてると、道に迷った場合、山道で日没です・・・



歩きだすと、いきなり
、”熊出没注意”の標識が!!



しまった!

熊避けの鈴をリュックに入れるのを忘れた!



仕方ない・・・、

ラジオを鳴らしながら歩こう・・・。

しまった!!

ラジオもリュックに入れるのを忘れた!



痴ほう症の始まりか・・・

仕方なく、枯れ枝を拾って、石を叩いて音を立て、下手な歌を歌いながら進みます・・・


トホホ、情けない・・・!





中山道の入口から、いきなり急な登り坂が始まりました!





それでも、しばらくすると、いったん緩やかな道になりました。





横川関所の出先の番所で、ここで関所破りを見張っていたという
「常峰番所跡」の説明板がありました。






常峰番所跡を過ぎると、道は、石がゴロゴロしている崖状の急な登り坂が、延々と続きます。



激しい汗が吹き出し、だんだんと息が切れて苦しくなってきました!



スタート早々、早くもへばってきました・・・





この急な上り坂には、
「刎(はね)石坂」の名前が付いているみたいです。

しかも、狭くて険しい山道の横は、急斜面で、断崖絶壁です・・・・





当初碓氷峠越え予定だった先週の土曜日は、雨だったので峠越えを中止しましたが、止めて正解です・・・



雨の日だったら、ぬかるんで足を滑らせ、転落死かも・・・



でも、こんな登り坂が、あと7キロも続くなら、晴天でもギブアップです・・・・



その急な坂の途中に、写真の
「柱状節理」という噴火で形成された壁がありました。





これは、山の斜面が削り取られて、柱状の岩盤が露出したのだそうです。



柱状節理から先も難所だからでしょうか、石仏群が続きます。







刎石坂の急な登り坂が続き、更に息が苦しいなってきたときに、
「覗き」の看板があり、一休みします。



木々の合間から下を覗いてみると、案内板の通り、
坂本宿の家並が眼下に見えます!



小林一茶が、
”坂本や 袂の下の 夕ひばり”
と詠んだ場所です。





覗きから少し歩くと、溶岩の裂け目から水蒸気が噴き出すという
「風穴」がありました。



湿った空気が穴から噴き出すためでしょうか、岩の周りは苔がむしています。



風穴を過ぎると、道は、両側が土手状で、中央がえぐれた
安全で緩やかな坂になりました。



ホッ・・・

木の根っこを跨ぎながら歩いてゆくと、弘法大師が掘り当てたという
「弘法の井戸」がありました。



長い柄杓が置いてありますが、飲めそうな感じではありません。

そして、ここにも
「熊出没注意」の看板が!





熊が井戸の水を飲みに来るのでしょうか・・・





弘法の井戸を過ぎて、狭くて急な上り坂を登ると、写真の
「四軒茶屋跡」がありました。



急坂が一段落するここに、4軒の茶屋があったそうです。



今は、茶屋の建物はありませんが、写真の茶屋の石垣が残っています。

そして、このすぐ近くに、平成9年に作られたという写真の真新しい休憩所がありました。



ここで、水分を補給して一休みし、備え付けのノートに名前を記帳します。



休憩所の辺りから、尾根伝いの平坦な道になり、暫く歩くと、やがて下り坂になりました。



その下り坂を歩いてゆくと、写真の様に、道の両側が掘り切られた狭い道になりました。





ここが
「掘り切り」で、1590年の豊臣秀吉の小田原攻めの際に、北陸・信州軍を松井田城主・大導寺が、道の両側を掘り切って狭い道にして防戦しようとした場所だそうです。







掘り切りを更に進むと、南向き馬頭観音、そして北向き馬頭観音がありました。







馬頭観音を過ぎると、再び、急な上り坂になり、そこが座頭泣かせの難所と言われた
「座頭ころがし坂」でした。







ここは、道が赤土で湿っていて、目の見えない座頭の人達が、滑りやすかったのだそうです。



更に暫く歩くと、やや広い道になり、
「山中茶屋跡」がありました。



ここに13軒の茶屋が並んでいたそうです。

こんな山奥に13軒も!

凄い!



その横に「山中学校跡」の説明板があり、それによると、明治の頃には、この小学校に、25人の生徒が通学していた、とあります。



ひ〜ぇっ!

こんな険しい山の中に小学校があったの!!

驚き!

茶屋の家族とか、この辺に住んでいたのかな・・・

暫く歩くと、道の右手に子持山の説明板があり、そこが道の分岐点になっています。



写真の左の細い道が、和宮降嫁前の中山道、右が和宮降嫁後の中山道である「皇女和宮道」です。



つまり、和宮降嫁の碓氷峠通過のために、わざわざ新たな道が開拓されたわけです!

和宮が中山道を通るというだけで、こんなに立派なルートが造られたなんて!

公武合体にかける幕府の熱い想いが伝わってきます。

私は、広くて気持ちの良い「皇女和宮道」の方の道を歩くことにします。



五月晴れのもと、そよ風にふかれながら、森林浴の和宮道ウオーキングです!



気持ち良い!


「安政遠足(とおあし)」と書かれた立て札が点在しており、心強いです。



安政遠足は、安中藩主が、藩士の心身鍛錬を目的に、安中宿から碓氷峠の熊野神社までの約28キロの中山道を走らせたのが始まりで、現在も復活して、今年は先週の日曜日(5/12)に行われました。

やがて、和宮道をかなり進むと、「仁王門跡」と「思婦石(おもふいし)」の説明板がありました。





思婦石の説明板には、群馬の国学者・関橋守の作で、

「ありし代に かえりみしてふ 碓氷山 今も恋しき 吾妻路のそら」

とあります。

(日本武尊が、妻を恋い偲んだ歌らしいです。)

「思婦石」の横には、また「野生動物<クマ>生息地域」の看板が!



暫く歩くと、碓氷峠の頂上に到着です!!







ついに、
安政遠足マラソンのゴールである熊野神社(碓氷峠の頂上)に着きました。





坂本宿から、熊野神社までの碓氷峠越えでは、2人のおじさん、それに老若男女の外人グループ6人と、途中ですれ違いました。

気候が良かったせいでしょうか、皆さん、楽しそうに歩いていました。

熊野神社の真ん中が、写真の様に、長野県と群馬県の県境になっています。





賽銭箱も、県境を挟んで二つ並んでいるのには、驚きです。

熊野神社の前には、
名物「力餅」を売る茶店が並んでいます。

力餅屋も、写真の様に、
店の真ん中が、長野県と群馬県の県境になっています。





一口サイズの力餅は、赤福に似た味です。



茶屋からの群馬側の絶景を眺めながら、力餅と、本日2個目のソフトクリームを食べて一服します。

しかし、そんなにゆっくりと休んではいられません。


と言うのは、安政遠足マラソンのゴール・熊野神社が、私のゴールではありません!



軽井沢宿まで、まだ碓氷峠の下り坂が、あと4キロも残っています。


碓氷峠の見晴台へ向う道の途中から、旧軽井沢へのハイキングコースを下りてゆきます。



上の写真の左が見晴台へ向かう道、右が軽井沢へ下りるハイキング道です。

楽なハイキングコースかと思ったら、意外と狭くて急斜面の道も所々にあります。




まあ、碓氷峠の登りに比べると、たいしたことはありませんが・・・







車道の上の橋を渡り、渓谷に沿って、下り坂を延々と歩きます。





途中で、写真の様な、腐って穴のあいた板の橋をいくつか渡ります。







40分位歩いたところで、写真の吊橋を渡ると、道は広くなり、別荘地帯に入りました。



また、熊注意の看板が!







別荘地帯を暫く歩くと、ようやく、軽井沢宿のはずれの「二手橋」に着きました。





軽井沢宿で飯盛り女と一夜を共にした旅人が、この橋で二手(ふたて)に別れたことから「二手橋」と呼ばれる様になったそうです。

今晩は、軽井沢のビジネスホテルに泊まり、明日の朝、軽井沢宿のこの二手橋から、再びスタートします。

坂本宿から軽井沢宿までは、約15キロの峠越えです。


17-1:坂本へ

18:軽井沢へ

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