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18:軽井沢




(写真は、軽井沢の別荘地帯を抜ける中山道)

前日は、道に迷うこともなく、最初の難関・碓氷峠越えを、無事に踏破出来ました。

これも、全て「誰でも歩ける 中山道六十九次」のお陰です!
誰でも歩ける中山道六十九次 (上巻)
日殿言成
文芸社

昨年の「東海道・一人旅」と比べて、今年の「中山道・一人旅」の一番大きな違いは、ほとんど”道に迷うことが無い”という事です。

(東海道のときの様に、中山道は、道に迷ったエピソードが全く無く、読者の皆さんの期待を裏切っていますが・・・)

中山道沿いの目印となる道標、遺跡、建物、道の形状、上り坂・下り坂、遠くの眺め等々、懇切丁寧、至れり尽くせりで、道を間違いようがありません。



また、碓氷峠越えでも、上の写真の様に、詳細な地図のおかげで、道に迷う不安もありませんでした。

ここまで道に迷わずに、無事に来れたも、著者の日殿言成さん(故人)の、このガイドブックに対する思い入れ、執念のお陰です。

日殿言成さんに感謝!!


さて、話しは中山道に戻ります。

軽井沢宿の北のはずれ、飯盛り女と一夜を共にした旅人が、ここで、二手(ふたて)に別れたという「二手橋」からスタートします。



二手橋の先の教会に、この避暑地・軽井沢の開拓者・ショーの銅像が建っています。


そして、この教会の前に、芭蕉の句碑が立っています。



”馬をさへ ながむる雪の 朝かな”



軽井沢宿は、信濃の国(長野県)に入ってから最初の宿場でしたが、1783年の浅間山大噴火で、壊滅的な被害を受けたそうです。

明治維新を迎え、寂れてしまった軽井沢宿は、明治19年に、英国人宣教師・ショーによって別荘地として紹介され、
軽井沢は、別荘地として復活しました。

しかし、この
別荘地開発が進む中で、江戸時代の建物は、全て失われてしまったそうです。





写真は、軽井沢で
唯一、宿場町の名残りを残すといわれる「つるや」旅館です。



旧軽井沢銀座商店街のメインストリートを、ブラブラと進みます。

未だ、夏のシーズンではありませんが、それでも、オシャレな商店街は、韓国、台湾辺りでしょうか、大勢の観光客で賑わっています。



旧軽銀座には、夏のシーズンに、何度も遊びに来ていますが、ここが中山道だった、というのは、今回の中山道歩きまで全く知りませんでした。

(同様に、おばあちゃんの原宿”巣鴨商店街”が中山道だった、というのも今回の中山道歩きまで、全く知りませんでしたが・・・)



(脇本陣跡の吊看板)



脇本陣跡のお店の前に貼ってあった上記の信濃毎日新聞によると、軽井沢の脇本陣だった「江戸屋」跡で、江戸屋の子孫の佐藤さん夫婦が、カフェを開いていて、手作りの旧軽井沢の観光スポット地図を配布している、とあります。

旧軽井沢銀座商店街の端まで来ました。道は三差路になっています。



写真の左手の大きな道は、JR軽井沢駅へ向かう道、そして右手のひっそりとした道が、旧中山道です。

宿場だった旧軽銀座を抜けると、中山道の両側は、木立に囲まれた素敵な別荘地の道路に変わります。







から松や赤松の素敵な松並木が延々と続きます。

心地よい
別荘地帯のウォーキングです!

精進場川にかかる野沢橋を渡ります。









(ホテル・ロンギンハウス)

広重の浮世絵は、この辺りから描いたものらしいです。



背景に、軽井沢宿の家々が見えます。

茶色のタバコ入れを腰に差した旅人が、焚き火の中へ、キセルを突っ込んで、タバコに火を付けようとしています。

その横の馬は、荷物を両方の背中に振り分け、上に旅人を乗せています。

馬の脇腹には、この浮世絵の版元である「いせ利」と書かれた小田原提灯がぶら下がっています。

そして、ちょっと見ずらいですが、馬上の旅人が、馬子のキセルから火を貰おうとしています。

中山道は、やがて、長野新幹線・しなの鉄道に当ります。



臼井小学校の前の踏切で、線路を渡って、暫く、住宅みたいな別荘地みたいなところを歩いてゆきます。



軽井沢宿から沓掛宿までは、約4キロです。


17-2:碓氷峠へ

19:沓掛へ

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