(写真は、だるま弁当)
高崎宿は、本陣・脇本陣が共に無く、旅籠も僅かに15件と、宿場の機能としては貧弱でした。
これは、松平8万2千石の城下町だったため、参勤交代の大名らは、遠慮して泊まらなかったからだそうです。
なるほど!そういう事か〜。
そして一般の旅人も、城下町の宿場町は、堅苦しくて、羽目をはずして遊べないので、宿泊を避けたらしいですよ。
ただ、高崎宿は、商業都市として、非常に賑わっていたということです。
・高崎市役所の展望台
展望台からは、高崎の市街地、遠くの山並みが、写真の様に一望出来ます。烏川、碓氷川も見えます。
「09:深谷宿」から、富士山みたいに見えた山は、どうやら浅間山の様です。
下から見たら、富士山そっくりに見えたんですけどね・・・
歩いてきた旧中山道も見えます。
写真に、旧中山道を赤線のマーカーで印を付けてみました。
・高崎城址公園
高崎市役所の前が、高崎城址公園です。
・だるま弁当
お昼は、写真のだるま弁当を買って、城址公園で食べます。
しっかりした味付けで、キノコの炊き込みご飯の上に、山菜がたっぷり乗っています。
具は、この山菜の他に、、焼き豚、しいたけ、おたふく豆、クンニャクがあり、おふくろの懐かしい味です。
・諏訪神社
高崎城址公園から旧中山道へ戻るその角に、なまこ壁の土蔵造りの諏訪神社があります。
・大信寺
この寺の境内には、三代将軍・家光の弟の忠長が眠っています。
忠長は、二代将軍・秀忠に可愛がられ、三代将軍にほぼ内定していました。
しかし、時の権力者・春日の局(家光の乳母)の策略により、家光に将軍の予定の座を奪われてしまいます。
それでも、いったんは、駿府城55万石を与えられますが、その後に、春日の局に追い打ちをかけられます。
謀反の疑いで、ここ高崎藩にお預けとなったうえに、28歳のときに、自害に追い込まれます。
兄弟のどちらが世継になるかという話しに過ぎなかったのに、女の権力争いに巻き込まれてしまったんですね。
かわいそう〜!
高崎市街地は、ビジネス街で、当時の宿場町の面影を残す建物はほとんど残っておらず、旧中山道の表示もありません。
市街地を抜けるのは、表示も無く、ガイドブック無しでは、旧中山道の道筋をたどることは出来ません。
市街地の本町1丁目の交差点を渡ると、緩やかな下り坂となり、繁華街を抜けた、旧中山道らしい道路のカーブが続きます。
・君が代橋
明治天皇がご巡幸の際に「君が代橋」と名付けられたそうで、その頃の親柱が、現在の君が代橋の近くに、写真の様に保存されています。
・烏川
烏川が蛇行しているからでしょうか、旧中山道は、烏川を何度か渡ります。
烏川を渡り、最初の信号を国道から外れて右の旧中山道へ入ります。
上の広重の浮世絵の遠景は榛名山、正面の川は烏川です。
烏川に張り出した藁ぶき屋根の茶屋があり、街道を裕福な女の旅人とそのお供の男が歩いています。
この二人に、ゴザを背中に背負った貧しい男が施しを受けようとしています。
施しが貰えそうなのを知った左の人足が、扇子を手に、自分も貰おうと、慌てて走り出しています。
・草津温泉道標
草津温泉道標を目印に、二つ目のY字の分岐を左側の道に入ります。
写真の「草津温泉道標」には、「左 中山道」、右「榛名山 草津温泉」と彫られています。
弥次さん喜多さんも、ここから草津温泉へ行き、長逗留したあとで、草津からここへ戻って来ました。
・茶屋本陣・飯野家
茶屋本陣とは、大名の宿泊用の本陣とは異なり、立場(たてば)に置かれていた大名の休息所のことです。
立場とは、次の宿場町が遠い場合に、その途中に、休憩施設として設けられました。
休息所とはいえ、茶屋本陣には、宿場本陣に劣らない豪華な家もあったそうです。
・少林寺 達磨寺
旧中山道はやがて、広い国道18号に合流します。
殺風景な国道18号を歩いてゆくと、左手に烏川が並行して流れています。
その烏川の対岸に、高崎名物のダルマで有名な少林寺達磨寺があります。
高崎市の西の小高い丘陵の斜面に位置し、自然に囲まれて、とても落ちついた感じの黄檗宗のお寺です。
「縁起だるまの少林山」とあるように、福だるま発祥のお寺です。
JR高崎駅からバスも出ています。
本殿は、写真の200余段の石段を登ったところにあります。
・八幡宮
高崎の少林寺達磨寺の長い階段を下りて、碓氷川を渡り、元の国道に戻り、しばらく歩くと、右手に巨大な赤い鳥居が見えてきました。
でかい〜!
この鳥居を右折すると、八幡太郎義家ゆかりの写真の「上野国一社 八幡宮」への、長〜い参道です。
この八幡宮には、源義家の甲冑(かっちゅう)が奉納されているそうです。
参道の途中には、写真の様な野菜の無人販売が・・・
高崎宿から板鼻宿(群馬県安中市)までは、約8キロです。
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