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12:倉賀野



(写真は、浅田次郎著「一路」)

浅田次郎の新刊書「一路」が出版されたので、早速買いました。



主人公の小野寺一路(19歳)は、父の不慮の死を受け、家伝の「行軍録」の書面だけを頼りに、幕末の江戸への参勤交代の行列を指図して、中山道69次を進みます。

そうか〜!

「行軍録」ということは、当時の大名行列は、武士にとっては旅行ではなくて、軍事訓練の一つの行軍訓練だったんだ!

私が「東海道五十三次を歩く」のホームページの中で、何度か取り上げた「本陣差し合い」の話しが、この小説の中でも出て来ます。

(⇒ http://www.minedayo.com/ )

大名行列が、1日遅れて宿場町に到着した場合などに、大名同士が、1つしかない本陣で、鉢合わせになってしまうことがあります。



この様な場合には、格上の行列が本陣に入り、格下は脇本陣に下がる決まりなのですが、事はそう簡単ではありません。

この小説では、主人公の主君が、7千5百石の旗本であるのに対し、相手は1万5千石の大名です。

一見、1万5千石の方が格上に思われますが、忠臣蔵で有名な高家(こうけ)筆頭の旗本・吉良上野介を例にとると、上野介は禄高の低い旗本ですが、中小の大名よりは格上です。

初めて参勤交代を指図する主人公は、必死でアンチョコの大名一覧表「武鑑」で、どとらが格上か調べますが、一覧表だけでは、どちらが格上か、よく分かりません。

双方とも本陣を譲らず、あやうく斬り合い寸前の状況になってしまいます。


一路(上)
浅田 次郎
中央公論新社



さて、私の中山道・一人旅の方は、「青春18きっぷ」を利用して倉賀野へ向かいます。
(5枚で11,500円、有効期間:3/10〜4/10)



横浜から、乗り換え無しのJR湘南新宿ラインに乗って、前回最後だった高崎駅のひとつ手前の倉賀野駅で降ります。


当時の倉賀野は、利根川、江戸川、烏川を利用する舟の最上流にあたり、米を初めとした上州・信州・越後の特産品を集積して、江戸まで運んでいました。

このため、.倉賀野宿には、米蔵の土蔵が建ち並び、大繁盛していました。

でも、明治の鉄道開通により、衰退してしまったそうです。



上の英泉の浮世絵は、烏川の岸辺の倉賀野宿の茶屋です。

茶屋の女房が、釜を洗っており、川のなかでは、裸の子供達が、網で魚を捕ったりしています。

茶屋では、旅の女が、その光景を眺めています。

中央の細長い烏川には、荷物を積んだ舟が描かれています。

倉賀野宿から江戸までは約200キロあり、当時の舟による輸送は、下りに3日、上りに17日を要したそうです。


・追分常夜灯と道標





 下の写真の様に、常夜灯には、
「右 中山道、左 日光道」と刻まれています。



 
倉賀野は、宿場町としてだけではなく、「日光例幣使(れいへいし)街道」との追分としても栄えました。

 「日光例幣使」とは、徳川家康の命日に、日光東照宮へお参りする使いのことで、江戸から中山道をここまで来て、ここで中山道から日光街道へ分岐していました。

 当時の日光例幣使は、徳川家康の威光をかさに、振る舞いが悪く、大きな出費を強いられるため、街道の宿場町では非常に嫌われていたそうです。



 常夜灯には、寄進者の名前がびっしりと刻まれています。



 写真の様に、寄進者の中には、
伝説の相撲取り「雷電 為衛門」の名前も見えます。



 更に、常夜灯と道標の後ろには、写真の閻魔堂(えんまどう)が建っています。



・本陣跡



 スーパーの駐車場に、さりげなく写真の小さな本陣跡の石碑がありました。

 腰の高さくらいの余りにも背が低くて小さな跡碑だったので、見過ごして、いったん通り過ぎてしまいました。





(高札場跡)


・倉賀野神社



 倉賀野宿の鎮守です。




・安楽寺





 安楽寺の門を入ると、すぐ左手に、写真の室町時代の板碑があります。



 これは、死者を供養する卒塔婆みたいなものだそうですが、板碑という形態は非常に珍しいそうです。


中山道沿いの宿場町には、写真の様に、江戸時代の面影を残す民家が点在します。




















(松並木)



街道沿いに、上の写真のダルマ弁当の工場がありました。ダルマ弁当は、次の高崎宿の名物なので、高崎宿で買ってお昼に食べようと思います。

宿場町を抜けると、写真の様な殺風景で、退屈な道路が高崎宿まで延々と続きます。







やがて、バイパスの下をくぐり、新幹線の高架をくぐり、上信電鉄の踏切を渡ると、もうすぐ高崎宿です。








倉賀野宿から高崎宿までは、約6キロです。


11:新町へ

13:高崎へ

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