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01:板橋




(写真は、縁切り榎)

板橋宿は、日本橋から僅かに9キロと江戸に近かったため、素通りする旅人が多く、品川宿と同様に、泊り客が少なく経営が苦しかった
そうです。

そこで、幕府は、飯盛り女や宿場女郎の存在を認めざるを得なくなり、板橋宿は、中山道の宿場町としてではなく、江戸の歓楽街として賑わう様になったそうです。

板橋宿は、三つの宿場町で構成されていました。

板橋宿の最初の平尾宿であった商店街を抜けると、国道17号を斜めに横切り、写真の右手に入る細い道が旧中山道・板橋宿の仲宿です。





(室町時代の創建の観明寺)



(本陣跡の碑)



(板橋宿の通り)



(商店街の中に残る古い家)

・板橋



 写真は、石神井川に架かる、地名の名前の由来となった板橋ですが、現在は、板の橋ではなくコンクリート橋です。

 源平盛衰記に、源頼朝や源義経が板橋に陣をとったとあることから、800年前には板橋の地名があったそうです。



板橋を渡ると、板橋宿の最後の上宿になります。

・縁切り榎


 写真は、板橋宿のはずれの縁切り榎です。

 現在の榎は三代目だそうです。
 
 仲の良い夫婦や新婚の花嫁花婿は、この下を通るだけで不縁になると嫌われ、恐れられたそうです。

 逆に、お参りすれば、離婚が出来ると、江戸時代には、離婚したい人には大人気だったそうです。

 離婚したいと思っている人は、どうぞお参りを?

 徳川第14代将軍・家茂に降嫁するために京都を発った皇女和宮の行列は、縁起が悪いと、榎に菰(こも)を被せて通過したそうです。

 江戸に入る皇女和宮の行列は、2万人を超えたそうです!


・南蔵院



 板橋区の品のよい職員のおばさまが、南蔵院の境内にテントを張って、板橋区の文化財マップや史跡の絵葉書を配ったり、供養塔の説明をしたりしていました。

 質問している人もいなかったので、下の写真の出羽三山供養塔について色々と質問をして教えてもらいました。



 その説明によると、江戸時代に、この板橋地区の70名が、26日もかけて、山形県の出羽三山(月山、羽黒山、湯殿山)へ参拝に出掛けた時の記念の供養塔だそうです。



 供養塔の後ろに、その70名の名前が、名主などの身分と共に彫ってあります。

・志村の一里塚



 2基が1対で残っている一里塚は、非常に珍しいのですが、ここは中山道の両側に見事な一里塚が残っています。



 説明によると、明治以降は、多くの一里塚が消滅したのですが、ここは、中山道(国道17号)の道幅拡張工事の際も、その位置は動かさないで、周囲に石積みをして保全した、とあります。

・薬師の泉



 ここには、もとは薬師院大善寺という曹洞宗の寺院で、江戸名所図会にも出てきます。

 8代将軍・吉宗が、鷹狩りの際に、境内の崖から湧き出る清水を賞して、清水薬師と名付けたそうです。

・大山道道標・庚申塔、清水坂



 志村坂上駅の交差点から、国道17号から分かれて、旧中山道の清水坂に入ると、写真左の大山道道標と写真右の庚申塔がありました。

 その先から、清水坂の急な下り坂が始まります。

 ここは、江戸時代には、富士山が右手に見える 「右富士」として有名だったそうです。

 清水坂の坂の途中に、清水坂の碑がありました。





(荒川を渡ります)

・戸田の渡し場跡



 荒川を渡ると、渡し場跡の碑があり、また、近くに、水神の碑もありました。


(渡し場跡の碑)



(水神の碑)
水神の碑には、「水神宮・船玉大明神」と彫られています。

 なぜ、荒川を渡るだけなのに、水神様が必要?

 それは、江戸時代の人々は、今の様にプールも無かったので、ほとんど泳げなかったそうです。

 な~るほど!

 だから、江戸時代の人は、大した川幅でなくても、渡し船が怖かったんだ!



(近くの戸田競艇場の広告看板)

板橋宿から蕨宿まで、9キロです。

00:日本橋へ

02:蕨へ

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