1.ボランティアって何? |
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千差万別で、『ボランティアとは』と定義付けされたものはありません。まとめれば『主体的な行動を伴った人間』となり、つまり、自分の意志で何かを行う“ひと”を指します。
何か『ボランティア』という特殊な生き物が存在するように錯覚されている節も見受けられますが、ただの普通の人々です。
「わたしがやります」と積極的に手を挙げさえすれば、あなたも『ボランティア』なのです。
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M.N. |
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2.ボランティア活動とは? |
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ボランティアという特殊なものが存在しないように、“ボランティア活動”という特別なものも存在しません。
そんなバカな、と思われるかもしれませんが、日常、地域や社会で目にする人々の行動がそのすべてです。大仰に言えば、人類の営みすべてが、ボランティア活動としての対象になります。
一般的に“福祉関連であって職業ではない活動”をボランティア活動と称する傾向にあり、そちらの方だけに目が向きがちですが、福祉関連から遠く離れた“活動”も、数多く存在します。
例えば、
@中世のヨーロッパで、布教のために参戦した兵士たち(十字軍)はボランティアの語源と言われていますが、彼らの殺戮行為は“ボランティア活動”そのものなのです。
Aベトナム戦争での志願兵も、しかりです。
B世界中の地雷原で、命と引き替えの地雷除去をしている人たち。
C砂漠化を防ぐための植林をしている人たち。
D文盲を無くそうと、途上国で学校を建てている人。
E砂漠に井戸を掘っている人。
F希少動物の保護に飛び回っている人。
等々、いずれも志願した人たちです。
さらには、ない知恵を絞って文章を作っているわたしの行動も、ボランティア活動のひとつとなります。
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M.N. |
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3.困っている人を助けるのがボランティア? |
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警察でも消防でもどこでも困っている人を助けますから、ボランティアだけが人助けをしているわけではありません。
それに、 テレビなどで、エレベーターのボタンを押すのもボランティア、などと称していますので誤解を生んでいますが、ちょっと困っている人を助ける行為は“親切”であって、だれもが行う行為なのです。
だれひとり困っていなくともボランティア活動を行うことはありますし、逆に、大勢の人が困っていてもボランティアが手出しできない状況もあり得ます。
また、“ボランティア活動とは?”で述べた例のように、直接人助けとは関係ない分野で活動しているボランティアの方が、実は遙かに多いのです。
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M.N. |
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4.ボランティアって無償? |
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ボランティアは無償、有償は仕事、という解釈がいつのまにかどこかでなされたようですが、とてもとても迷惑です。
仕事と称しながらもサービス残業や休日出勤をする方たちが多くいるのが現代です。仕事とボランティア活動との区別は、実際は明確に分けられないほど曖昧なのです。
もともとが、有償か無償かの論議とボランティア活動とにはなんの関連もなく、無償の活動もあれば、当然有償もあり得ます。つまり、仕事と同義なのです。
例として、何ヶ月もの長期に渡り、しかも拘束される国外や遠方での活動となれば、資金・資材・食糧等はどうしても必要となります。
すべてタダ、自前でやれでは、活動は成立しません。
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M.N. |
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5.Volunteer Spilit(ボランティア精神)とは? |
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残念ながらありません。
もちろん、“善意の行動”とか、“世のため人のためになると思われる行為”だとか、それが活動であり『volunteer spilit』だ、と捉え訴えている方たちは確かにいます。
ですが、それはボランティア参加を促すためのアピールとしては最適ですが、まったく現実的ではありません。
Volunteer Spilitは、個々のボランティアの胸にある、とでもしたほうが、ずっと素敵です。
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M.N. |
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6.活動での責任はだれが取るの? |
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ボランティア本人です。
他人任せのボランティア活動などは存在しません。自分の人生は自分で責任を背負うのと同様、志願して行う“活動”の責任者はボランティア本人以外ありません。
ちょっときつい言い方になりますが、事実なのです。
もちろん、現実にはひとりで放り出すわけではありませんが、心構えとしてはその通りなのです。
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M.N. |
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7.活動でのトラブル処理は? |
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ボランティア活動は、人の成長過程と重なりますので、大なり小なりのトラブルには、必ず出合います。また出合わないような感受性では困るのです。
通常は、コーディネーターが調整したり、先輩たちからのアドバイスがあったりで本人自身が成長してうまく切り抜けますが、ひとりでの活動となるとなかなかこの苦境から抜け出せないことがあります。
それだけではなく、いつまでもトラブルを抱え、行く先々で問題を起こすトラブル・メーカーとしてのボランティアも存在します。本人が全く気づこうともしませんから、多分、そのような方は永久に自己変革は無理でしょう。
人それぞれなのです。
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M.N. |
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8.トラブルの主原因は? |
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“善意”です。
多分、えっ、と思われた方が多いでしょうが、善意からの小さな親切が、大きな大きなお節介を生むのです。
良かれと思ってしたことが、相手に大変な迷惑を強いる。しかも、善意と思う行動をしているボランティア本人には、容易にその原因が分からないという強烈な悪循環です。
ボランティア活動に参加すれば、大抵の方が味わうことです。
“善意”の生み出す結果を予測することは、ボランティアの最大の努めですが、初期はさておき、何年経験しようがそれに気づかないボランティアも、また悲しいことに多いのです。
取り立てて目立つことをしようなどとは考えず、また大きなお世話をせず、ただ淡々と自分の出来ることをやる。そこに至って初めて真性ボランティアの仲間入りとなりますが、年月が必要です。
ボランティアの奥はとてつもなく深いのです。
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M.N. |
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9.ボランティアであるための条件は? |
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まず、他人を“批判”しないこと。
実際に異なるケースでの活動批判などは、同じボランティアであっても出来るものではありません。当事者しか分かり得ないことが多々あるからです。
ですから、批判したくなっても口を開かない、それはボランティアに限らず人としての重要な資質ですが、ことさらボランティアにはそれが要求されます。
常に“自己改革”に努めること。
世の中は流動しています。ボランティアだけが変わらなくていいはずがありません。世の中の動きを眺め、自分のいる位置を確認し、さらに知識・技術を身につけ、自己研鑽に励みます。これとても人であれば当たり前のことなのです。
自らを律すること。
自分の行動が最良だとは決して思わず、常に他の方法を模索し、自己を戒めることが大切です。
なにより、ボランティア活動は技術の習得とは異なり、他人のものを盗めません。自分で造り生み出すしかないのですが、それだけに慢心しない心構えがなによりも必要となります。
知り得た事柄をむやみに口外しないこと。
必要でない限りは、ボランティアの胸深くに納めます。
最後に、5年10年の長期に渡る“持続する情熱”です。
これこそが、ボランティアにとって、なによりもなによりも大切なものなのです。 |
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M.N. |
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10.ボランティアが関わるような事柄は、本来は行政の仕事じゃないの? |
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このように言われる方は大勢いますが、それは間違いだとはっきりと申し上げておきます。
行政が担当しているのは、生活面での『社会保障』です。衣食住に関わる最低限の補償なのです。
他方、『地域社会福祉』とは、最低限の生活が保障された上での、より良い地域社会のあり方です。
悩みや苦痛は他人には分からないように、地域のことは地域住民にしか分からないのですから、他人任せの『社会福祉』というものはありません。
自分の事は自分でやる、それが“より良い社会”を築くための“地域福祉の原点”です。
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M.N. |
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11.ボランティアって、偽善みたいなんだけど? |
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もしも、そのように思えるボランティアがいたならば、それはそのボランティアの持つ資質の故です。大きく思い違いをした行動をとっているのです。
ただ、単にあなたがそのように思っているのなら、それはあなたの思いこみであり、一部の視点からの判断でしかありません。
物事は常に相対的なのです。
例えば、銃の引き金にいま指をかけている兵士にすれば、相手を倒すことが“善”であり“正義”です。しかし、狙われている相手にそれが通用するわけではありません。相手の側からすれば、それらの意味合いはすべて逆になります。
ボランティアは、ひとつの生き方です。
家族のためにと銃を持つボランティアもいれば、対峙する相手もまた同様のボランティアだという場合もあるでしょう。そこには、絶対的な“善”も“偽善”も“正義”も成り立ちません。
ボランティア活動とは、このようにすべてを超越したところに存在します。
善・不善・偽善等の諸々を超えたところで自分の位置を把握出来るか否かが、ボランティアのボランティアたる所以なのですが、なかなどうして容易ではないのです。
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M.N. |
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12.ボランティア・サービスと仕事との違いは? |
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ボランティア・サービスとは、ボランティアが提供する種々の活動のことです。
これは仕事、これはボランティア活動との明確な区分は厳密にはありません。またそのように区分けされるものでもありません。
現存する『仕事』の多くのものは、世の中に出現した当初は、すべからく『ボランティア活動』でした。それこそ、誰かの笑顔が見たいから、というのが端緒だったのかもしれません。
やがて、需要と供給のバランスが取れ、多くの人々の生活に必需的なものとなり、またそのサービスの提供者もそれだけで暮らせるようになると、『仕事』『職業』として定着していきました。
現在のボランティア活動もまったく同じなのです。
ある人々には必要だが、まだまだ『仕事』としては未成熟、という分類の種々のサービスを、損得勘定抜きで提供しているのがボランティアなのです。 |
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M.N. |
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13.どうして、ボランティアをやりたいと思うの? |
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難しい質問です。
人の心は推し量れません。『なぜ、あなたはあの人を好きになったの?』に明確に答えられないように、ボランティアを志す真意は、恐らくボランティア自身にも分からないでしょう。
なぜボランティアが生まれるのか?
ひとつには、社会が成熟していないから、不備を補うために生まれてくる、とも言えます。完璧な社会などあり得ませんから、当然です。
あるいは、社会がそれなりに成熟したので、他の事柄に心を配るゆとりが出来たから、とも言えるでしょう。ただ『生きる』だけではなく、なにかのプラスアルファを求め始めた、ということなのです。
それらの相乗効果がボランティアを造りだしている、と考えるのが一番自然のようです。
なにより、ボランティア自身、『なぜに、わたしはボランティアなんだろう?』と日々考えながら活動しています。
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M.N. |
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14.ボランティアって意地悪なんですか?介護施設のボランティアですが、だれも教えてくれないんです。 |
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職員なら、即戦力となる必要がありますから、手取り足取り促成栽培で鍛え上げます。
あなたは、ボランティアも同じようにしてもらえると考えているのですね。
Volunteer は Frontier spilit(開拓者精神)を持つ、ともいわれますがその理由はこういうことです。
既存のものには飽きたらず、未知の事柄へチャレンジします。だれひとり踏み込んだことのない領域では、手を引く者もおらず、当然道標すらありません。
手探りで一歩一歩進みます。
従って、『だれも何も教えない』のではなく『教えられない』のです。
もしも、施設で職員同様のルーチンワークを行っているのなら、施設職員があまり手を出さない領域(レクリェーション等)に活動領域を広げられたらよろしいでしょう。 |
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M.N. |
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15.施設のボランティアって、無給の職員と同じなの? |
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そういうところもあります。そうではなくボランティアの自主性に任せているところもあります。
あくまでも施設側のボランティアの認識度合いに拠ります。
施設が手薄なため、その穴埋めとしてのボランティア、という安易な発想は好ましくはないのですが、施設には施設側の事情があります。
無給のお手伝い(ヘルパー)でもよし、とするか、いやさらに他の何かを模索する、かは当のボランティア次第です。
またこのような疑問は、ボランティア意識としては当然に生じてくることです。
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M.N. |
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16.中学生でも出来るボランティアってありますか?
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公園のゴミ掃除とか、老人ホームへの慰問とか、もちろん中学生でも出来ることは色々とありそれに参加することは可能ですが、それらのすべてがボランティア活動というわけではありません。
何をしたいのか、何に対して疑問を感じているのか、自身が参加あるいは動くことで、何がどのように変わっていくと予測できるのか、まずは自分自身で考えることです。
このような活動は、主体的な自発活動が伴わないと時にはただの暇つぶしともなります。むしろ、他に求めるのではなく、中学生にしかできない何かを自分たちで模索する努力こそが、ボランティア活動でもあるのです。 |
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M.N. |
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17.ボランティアは、純粋に人の役に立ちたい、その気持ちだけでいいんですよね? |
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残念ながら、ボランティアはあなたの思うほどピュアではありません。また強制されてやるものではもちろんありませんが、周囲の状況や育てられてきた境遇がそのように強いることもあり得ます。
例えば、【自爆テロ】と呼ばれ自らの命を絶つ行為。
何かが“彼”または“彼女”たちを突き動かす、もしくは絶望のどん底に落とし込んでいる結果ですが、この何かが自分で自分の行動を強いているとも考えられます。
もしもそれが、【人の役に立ちたい】という気持ちの発現だとしたらどうでしょうか。
“善意”がトラブルの種になる、とは以前書きましたが、【人の役に立ちたい】という純粋な気持ちは、このように常に“危険”を内在させています。
『誰かの役には立たないかも知れない、だれかの多少の迷惑になるかも知れない、それでも自分が生きている証としてやりたい』と、心の震えを訴えたボランティアがいます。
『オレが親になったとき、お父さんはこんなことをやってきた、と子供に伝えたいのだ』と述べたボランティアもいます。
ボランティアを動かす意識は、決して一つではないのです。
また、一つであってはならないと考えます。 |
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M.N. |
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