M.N.
1948年、静岡県三島市、農家の馬小屋にて産声。
3歳にて隣の沼津市に転居。富士山の懐に抱かれ、駿河湾の砂浜や、漁港を遊び場として育つ。
6歳のころ、潜水艦に興味を持ち、模型を手作りする。浮き上がるように幾度もバランス調整をしたはずの艦だが、いまだに港の海底にある。
7歳のころ、ライト兄弟の複葉機に興味を持ち、自分の背丈以上のものを割り箸と障子紙で手作りする。この機体は実に良く飛翔した。
8歳のころ、石器に興味を持ち、石に穴を穿つ。夏休みをまるまる使い、ノミとハンマーだけで直径8o奥行き4pの穴を貫通させ、夏休みの工作として出品。
幼少時よりのラジオ少年。ゲルマニウム・ラジオからアマチュア無線へと進み、中学時代に、高さ20b弱、自重100s近い手作りの巨大アンテナの設置に、近在の漁師十数人を動員する。この漁師たちは船出前、必ず気象情報を聞きにきた。漁船搭載のメーカー品よりはるかに受信感度の優れた受信機を中学生が作成所持し、しかも最高のチューニングを施していた。
当時、オーディオにも興味を持ち、アンプを自作し、常に最大出力でスピーカーを鳴らした。騒音は周囲200bほどに響き渡る。
電気工学、電子工学を学び、家業の建築土木の溶接屋としてスタートする。
1974年、東京より現住所に転居。
同年、青年海外協力隊隊員としてマレーシアに溶接の技術指導に赴く。
帰国後、検査用電子機器の設計製作、精神病院にて精神科看護、極低温発生器や精密機器の保守操作、電気工事屋、物書き、病院経営アドバイザー、等の様々に異なるジャンルにあえて挑戦。が、単に移り気だ、とのウワサもある。時に二つ、時に三つほどを掛け持ちした。
現職は“不動産賃貸業”。つまるところ“大家”。
地域では、消防団員(5年)・民生児童委員(8年)・小中PTA会長(3年)・保護司(〜現在)等を歴任。
地区社協には創立時より関わり、ボランティアチーム創設、すすき野サービスステーション立ち上げ等のボランティア関連を主に担当。
ボランティア歴、通算25年。
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