山本七平語録
(山本七平の独創的見解の紹介とコメント。逐次追加します)
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語録一覧
| 研究主題 | 論題 | 説明 |
|---|---|---|
| 日本思想 | 『現人神の創作者たち』序言 | 一体何で今ごろ尊皇思想の発端から成立、さらにその系譜などが問題になるのかと。そんなものはすでに過ぎ去った悪夢ではないか,と。問題はそこにあるであろう。 |
| 『現人神の創作者たち』あとがき | 戦前の天皇制とは一体何であったか。これは25歳までを戦前で送り、その下で戦場に行った私にとっては、生涯をかけても解きたい謎であった。 | |
| 日本人と慕夏思想 | 日本においてはどういうふうにして理想主義が出て来たかと申しますと、必ずしも中国や西欧と同じタイプではありません。神代の理想化が皆無ではありませんが、むしろ中国を理想化するという形があったと思います。こういう中国文化を慕う思想を「慕夏思想」と申します。 | |
| 正統論と理想主義 | 山崎闇斎です。彼は羅山その他を俗儒と言って退け、朱子の正統論に適合するものが正統であって、その正統の下に秩序をつくるのが理想であると言います。つまり、正統論と理想主義が一体化している | |
| 「逆臣」の位置づけ | 正統に服するのが理想である、という一つの理想主義が現われてまいります。そして、それがあらゆる面で問題になってきます。なかでも否応なしに問題とせざるをえなかったのが、水戸の彰考館の『大日本史』の編纂です。 | |
| 王政復古と天下の公論 | 一つの正統論が確立し、その正統論に基づく理想的な(と彼らが信じた)社会をつくろうとしますと、当然、その前に、中国朱子学と国学とが習合をいたします。この習合というのは山鹿素行の中朝論ですでに起っているのですが、国学が盛んになると、これと朱子学とがくっつくという形になります。 | |
| 朱子学的理想主義の敗退 | 面白いのは西郷隆盛で、ある程度それを実行しようとします。彼は、明治維新後に東京にいた期間は非常に短く、すぐ故郷に帰ってしまいます。最初が明治二年二月で、彼は薩摩の参政となって改革を行います。 | |
| 神道はどのように儒教や仏教と三教合一したか | 唐を絶対的な権威と考えた日本人が受け入れた仏教とは、三教合一論的な仏教と見なければならない。いわば「仏教」の名のもとに輸入された宗教的思想の中には、道教も儒教も含まれていたということである。 | |
| 仏教は日本人の思想形成にどのような影響を及ぼしたか | 仏教の受容とは、実は中国の宗教文化(儒教や道教を含む=筆者)のすべての導入であった。 | |
| 神道はどのように自らの思想形成をしたか | 「神道」――この言葉ぐらい定義しにくい言葉はなく、その内容ぐらい模糊として捉えがたいものはなく、時代によりまた人によりその定義・内容は常に一定しない | |
| 日本の固有法である貞永式目を作った北条泰時の思想はどのようなものだったか | その基本的素材は中国の思想に求められた。だが、中国思想に求めたのはあくまでも素材である点が、律令とは決定的に違う。同時に、それが本質であって素材でない中国とも違っでくる。 | |
| 言葉なき思想の自己増殖 | 伝統的規範は、日本人がこの島で生きて行くための「知恵の集積」であり、その思考の体系は、一種、生物の生態系のようになっている。 | |
| 日本軍隊論 | 統帥権の逆用 | 「軍は天皇の直轄とし、天皇と軍は政争に局外中立たるべし」という発想、だがそこには恐るべき逆用の道が開けていた。 |
| 帝国陸軍は日本一般人国を占領した | 満州事変から太平洋戦争に進む道程を仔細に調べていくと、帝国陸軍が必死になって占領しようとしている国は実は日本国であったことに気づく。 | |
| 臨時費(=戦費) | 国民が軍を支配するか軍が国民を支配するかは、「戦費の支配権」をどちらが握るかにあった。軍がこれを握れば、国民は文字通り、一方的収奪をうける被占領状態になる。 | |
| 2.26事件の心理的背景 | 「あれじゃーね。二・二六が起るのはあたりまえだよ。二十越えたばかりの若僧があんな扱いをうければ、狂ってしまわない方がおかしいよ」 | |
| 大に事える主義 | 事大主義=大に仕える主義とは、時の勝者に事えることを正義とする主義のことではないのか。 | |
| 星の数よりメンコの数 | 帝国陸軍の「兵隊社会」は、絶対に階級秩序でなく、年次秩序であり、これは「星の数よりメッコ(食器)の数」と言われ、それを維持しているのは、最終的には人脈的結合と暴力であった。 | |
| 私的制裁 | そのとき、通常、二年生の先任上等兵によって、その日の「総括」がはじまるわけであった。まさに「総括」であった。 | |
| 「とっつき」と「いろけ」の世界 | 行く道ですべての人がまるで挨拶のように口を揃えて言った言葉は「ドロガメにトッツカレンようにな」であり、帰る道で言った言葉は「大丈夫だったか、ドロガメにトッツカレンかったか」であった。 | |
| 空閑大佐の自決事件 | 一体全体「捕虜になったら自殺せねばならぬ」という「規定」はだれが制定したのかという問題である。陸軍刑法にはそんな規定はない。・・・部隊長の意見では、そうではなくて、実は日本の新聞がきめた「規定」だ・・・。 | |
| 日本軍の捕虜 | 「絶対に日本に帰さないでくれ、帰さないでくれれば、何でも言います」これが日本軍の捕虜のお定まりの台詞であることは前に記した。 | |
| 日本軍の行軍 | バターンにおける米比軍の降伏部隊の炎天下の強行軍が残虐行為なら日本軍の行軍は何と表現すればいいか。 | |
| バターン死の行進 | 「バターン死の行進」の最大の原因は、二万五千と推定していた捕虜が七万五千おり、これがどうにもできなかったということが主因で、これも「捕虜だから」特にどうこうしたとはいえない。 | |
| 日本軍の敗因は飯盒炊さん | 「日本軍敗北の原因は飯盒炊さんにあった」と言った人があるが、私も、少なくとも大きな原因の一つだったと思う。 | |
| 宿営地での「黄害」と害虫天国 | 日本軍はハエの大軍に包まれて移動していたと言っても過言ではない。普通のハエ、大きな銀バエ、アブ。さらに入浴も洗濯もできない状態から当然発生するシラミ、ノミ。それに南京虫、ダニ等々々。 | |
| 日本はアメリカと戦うつもりはなかった | それまで何となく感じていた疑惑が、私の中で、しだいに、一つの確信へと固まっていった。「日本の陸軍にはアメリカと戦うつもりが全くなかった」 | |
| 軍の学歴主義 | 学生をあれほど信用しなかった軍が、実は学歴偏重主義で、幹部候補生の選抜基準は一に学歴なのである。 | |
| 「気魄」というなの演技 | 演技力の基礎となっているものを探せば、それは”気魄”という奇妙な言葉である。この言葉は今では完全に忘れられているが、かつての陸軍の中では、その人を評価する最も大きな基準であった。 | |
| 「仲間」ぼめ | 陸軍ぐらい、徹底した「仲間ぼめ」の世界はなかった。内部では派閥闘争、集団間のいがみあい、集団内の学歴差別と、あらゆる足のひっぱり合いをしていても、ひとたび対「外部」となれば、徹底した「仲間ぼめ」である。 | |
| 組織の名誉と信義 | 名誉は組織のものか個人のものか、かっての帝国陸軍にはそういう問題意識すらなく「組織の名誉」以外に名誉はなかった。 | |
| 補給について | ニューギニアやフィリピンの戦死者を克明に調べてみればよい。「戦死」とされているが実は「餓死」なのである。 | |
| バシー海峡の悲劇 | 一体、何が故に、制海権のない海に、兵員を満載したボロ船が進んでいくのか。・・・だが、この断末魔の大本営が、無我夢中で投げつけているものは、ものでなく人間であった。 | |
| 末期米 | 不思議なことに―否、少しも不思議ではないのだが―ほんの一握りの米を「お守り」のように雑嚢に入れたまま餓死している者は、少しも珍しくなかったのである。 | |
| 回虫 | 「が島は餓島」にはじまる日本軍の飢えとの戦いは、一面、回虫との戦いであり、それはいわば「黄害」との戦いでもあったわけである。 | |
| 平和ならしめる者 | 「私は軍医だ」と彼は自己紹介し、いきなり「歩けない病人と負傷者は何名いるか」と言った。一切の緊張感が一気に去って、全身の力が抜けていくような気がした。 | |
| 武装解除の恐怖 | あの自動小銃を奪って船を乗っ取ってやろうというわけでもない。だだ自動小銃が頭から離れないのである。 | |
| 出家遁世した閣下たち | 閣下たちが、無口だったということではない。否むしろ饒舌であり、奇妙に和気藹々としていた。 | |
| A級戦犯 | 「あいつらはみんな気違いだ」捕虜収容所の兵士たちの言葉の背後には補給なしで放り出されて餓死した何十万という人間がいた。 | |
| 参謀支配 | 帝国陸軍とは「下剋上の世界」だったとよく言われるが、われわれ内部のものが見ていると、「下が上を剋する」というより「上が下に依存」する世界、すなわち「上依存下」の世界があったとしか思えない。 | |
| 私物命令 | 大本営参謀の肩書を持つ、マレーに戦った作戦参謀辻政信中佐は、シンガポールから東京に赴任の途中、ここに現われて、戦線視察のたびに、兵団長以下の各級指揮官に。捕虜を殺せ”と督励して歩いた。 | |
| 収容所の暴力団支配 | 各幕舎には一人位ずつ暴力団の関係者がいるのでうっかりした事はしゃべれず、全くの暗黒暴力政治時代を現出した。 | |
| 「可能か・不可能か」の探究と「是か・非か」の議論 | 人間の能力を極限まで使いつくすような死闘をして、そして「無条件降伏」という判決を得た現実、しかもあまりに惨憺たる現実を否応なしに見せつけられた者には、二つの感慨があった。 | |
| はじめに言葉なし | 日本軍は、言葉を奪った。日本軍が同胞におかした罪悪のうちの最も大きなものはこれであり、これがあらゆる諸悪の根元であったと私は思う。 | |
| 生者を支配する「死の哲学」 | 軍部ファシズムの四本柱「統帥権・臨軍費・実力者・組織の名誉」の底にあったものは何か。それは「死の哲学」であり、帝国陸軍とは、生きながら「みづくかばね、くさむすかばね」となって生者を支配する世界であった。 | |
| 復員船のリンチ | 彼は得々として、復員船の中でやった将官や下士官へのリンチの話をした。その話は、昔の内務班の、加害者・被害者の位置が逆転しているだけで、内容は全く同じであった。 | |
| 地獄を見たもの | 『なかったな。何もなかった・・・。この人たちはみな地獄を見たのだ。本当に地獄を見たものは、そういうことはしないものだ。』 | |
| 日本人論 | 日本人は、安全と水はタダと思いこんでいる | 駐日イスラエル大使館がまだ公使館であったころ、日本人に親しまれたある書記官がつくづくと言った。「日本人は、安全と水は無料で手に入ると思いこんでいる」と。 |
| 日本人は秘密を守れない | 確かに日本人には「秘密=罪悪」といった意識があり、すべて「腹蔵なく」話さねば気が休まらない。と同時に、秘密を守るということがどういうことか知らない。 | |
| 日本には独裁者は必要ない | 日本人は全員一致して同一行動がとれるように、千数百年にわたって訓練されている。従って、独裁者は必要でない。よく言われることだが、明治というあの大変革・大躍進の時代にも、ひとりのナポレオンもレーニンも毛沢東も必要でなかった。 | |
| 「朝廷・幕府併存」の政治体制 | 私の目から見れば、日本人のみが行いえた政治上の一大発明については、だれも黙して語らないし、だれも一顧だに与えていないのである。私か言うのは「朝廷・幕府併存」という不思議な政治体制である。 | |
| 全員一致の議決は無効 | 日本では、「全員一致、一人の反対者もない」ということが、当然のこととして決議の正当性を保証するものとされている。時には、多少の異議があっても、「全員一致」の形を無理にもとる。 | |
| 世界で最も強固な宗教=日本教 | 日本人とは日本教徒なのである。ユダヤ教が存在するごとく、日本教という宗教も厳として存在しているのである。くどいようだが、これはイスラム教やユダヤ教を宗教と考えれば、の話である。 | |
| ユダヤ・キリスト教と日本教の神観念の違い | 有名なモーセの十誠の第一誠には何と書かれているか、「汝、われのほか、何ものをも神とすべからず」と。この言葉は何を意味するのか。これは養子縁組の根本条件である。 | |
| 処女降誕なき民 | ユダヤ人すなわちユダヤ教徒が、キリスト教徒に対して徹底的に反発したことの一つは、彼(イエス・キリスト)の偉大性は、その出生が常人と違う点にあるというキリスト教徒の主張である。 | |
| 忍び寄る日本人への迫害 | 「朝鮮戦争は、日米の資本家が(もうけるため)たくらんだものである」と平気でいう進歩的文化人がいる。ああ何と無神経な人よ。そして世間知らずのお坊っちゃんよ。「日本人自身もそれを認めている」となったら一体どうなるのだ。 | |
| そろばんの民と数式の民 | ラテン語を学んでいたあるお嬢さんが、「ラテン語ってまるで数式のような言葉ですね」と私に言ったことがある。ヨーロッパ人にとって、言葉とは本来そういったものである。一方、日本語は実に完璧なので、数式的・意識的訓練もうけずに、別の訓練で自由自在に駆使できる。 | |
| 日本教は「天秤の論理」の世界 | 日本という世界は、一種の天秤の世界(もしくは竿秤の世界)である。そしてその支点となっているのが「人間」という概念で、天秤(もしくは竿秤)の皿の方にあるのが「実体語で組み立てられた世界」で、分銅になっている方が「空体語で組み立てられた」もう一つの世界である。 | |
| 日本教の世界とはどのような世界か | 日本教の教義:第一条 人間は「天秤の論理」の支点であって、言葉で規定できるものではなく、その働きは「実体語」と「空体語」の「言葉の天秤」のバランスをとり、現実問題をいかに犠牲少なく処理するかにある。 | |
| 広津氏の「日本人の証言の信憑性」を見抜く四原則 | 広津氏には明確な(「日本語は写生の言葉」という特長を生かした)「診断基準」すなわち選別の基準がありました。その第一条は、情景の描写または記述が明確に脳裏に再現できること。再現できないものは、供述している人の脳裏にもその情景がない証拠である。 | |
| 「語られた事実」と「雲の下論」 | これは「雲表上に現れた峰にすぎないものの信憑性が「かりに」「自白の任意性または信憑性の欠如から否定されても」「雲の下が立証されている限り・・・立証方法として十分である」という考え方である。 | |
| ハビヤンの生涯とその時代 | ハビヤンは、仏教・キリスト教・儒教から絶えず影響をうけながらも、キリシタンへの入信を契機に『妙貞問答』(1605年)を書いて仏教と神道を否定した。その後、キリシタンの「殉教」や「告解」に疑問を持つようになり、1620年『破堤宇子』を書いてキリシタンを棄教した。 | |
| ハビヤンがキリシタンに求めたもの | ハビヤンはキリシタン神父(パードレ)のために日本紹介の書『ハビヤン版平家物語』を書いた。ここに彼が描いたのは、恩を基準とした一つの合理的な貸借関係の世界である。そして彼がキリシタンに求めたもの、そしてキリシタンにあると信じていたものは、この合理性であった。 | ハビヤン版『平家物語』における恩の思想 | 人は「恩をうけた」という債務を感じなければならないが、「恩を施した」と権利を主張することは許されない。人は天地に恩を感じねばならない、しかし天地は人間に対して「恩を施した」と権利を主張しているわけではない、人はこれと同じように行動すべきである、というもの。 |
| ハビヤンを棄教させた「殉教」と「告解」 | 「初条(第一戒)ニでうすノ内証ニ背ク事ナラバ、君父ノ命ニモ随ハザレ、身命ヲモ軽ッゼヨトノ一条ハ、国家ヲ傾ケ奪ヒ仏法王法ヲ泯絶(絶滅)セントノ心、茲ニ籠レル者也。何ゾ早此徒ニ柄械(手かせ・足かせ)ヲ加ヘザラン。 | 日本教的自然法 | 何かの対象を絶対化し、同時にそれに基づく個人的規範を絶対化しながら、この両端の関係は常に一方的な思い入れであっても組織的発想でつなごうとせず、逆にそれを「不純」として嫌悪する傾向、これは常に日本人にあると言ってよい。 |
| 日本教の聖書「大和俗訓」 | 脱宗教化”を行なった場合、人は、一種の「自然哲学」を作り、その体系で、自然(宇宙)と自己との関係、および人と人との関係を律し、各自がそれを自己規定としない限り、社会の統合は不可能になるはずである。そしてその役目を果したのが貝原益軒の『大和俗訓』である。 | |
| 日本史 | 英語はうまいが日本のことは知らない日本人 | 「このごろは本当に英語がうまい日本人が増えましたね。しかしそういう日本人に日本について質問すると何も知らず、何も答えられないのに驚きます。 |
| 日本歴史の「弁証法的発展」を捉えた伊達千広の歴史区分 | 伊達千広(一八〇二-一八七七年)は紀州藩士、有名な陸奥宗光の父である。彼はあるがままに日本の歴史を見、徳川時代に至るまでを「骨(かばね)の代」「職の代」「名(みょう)の代」と三つに区分した。今の言葉になおせば「氏族制の時代」「律令制の時代」「幕府制の時代」ということになろう。 | |
| 日本と中国そして韓国の文化的関係 | 当時の中国と日本とを比較した人がいたとしたら、その文化格差は、まさに絶望的懸隔と見えたでしょう。常にそう見られて不思議でない民族なんです。それが何かの刺戟で恐ろしいばかりの速度で駆け出すというだけです。 | |
| いつ頃日本人は発生したか | 一万年ほど前、すなわち新石器時代に入るころ、日本はアジア大陸から切り離され、ここに住む人びとは、大陸と共通性があるとはいえ、独自の文化を形成しはじめた。 | |
| 日本語はどのようにしてできたか | では縄文人はどのような言葉を話していたのであろうか。これが日本語の基本になり、従って日本語は少なくとも一万年の歴史があるわけだが | |
| 縄文文化から弥生文化への発展は日本に何をもたらしたか | 結局、水田と言うものは、急に一人が思い付いて鍬や鋤一本でできるものではなく、大勢の共同労働と、その共通技術と、統一組織の中ではじめて成功するもので、日本が早く水稲栽培で国家成立に成功したのは、これが出来得たためだと強調したいのである。 | |
| 日本の国作りはどのように進められたか | 日本の古代史を論じる際最も困惑することは、左記のような中国の史書や考古学的な研究によって確定された史実と、古事記や日本書紀によって語られた建国物語を比定することが極めて困難だという事です。 | |
| 日本文化の源―かながなければ日本はなかった | 「平安前期までの日本は、ほとんど中国文化のとり入れに明け暮れた。その中で本当に創造的な仕事といえるのは、仮名の発明ぐらいである」 | |
| 律令制はなぜ崩壊したか、また、律令制は崩壊しながらなぜ天皇制は存続したか | まるで西欧の教権と帝権の分離のように、天皇の役割と武家の役割(が分かれたのである。このことは、日本の律令制度が「神祇官と太政官の併存」から出発したことにも現れている。 | |
| 神仏混合の寺院が多数決という議決方法を生んだ | 日本の大寺院には、重要な決定に対しては全員で会議をし、多数決で議決の上決定するという方式があった。 | |
| 武家はどのようにして天皇の権威を棚あげし、政治の実権を握ったか | いずれにせよ天皇を虚位に置き、全日本を実質的に統治するようになった幕府は、当然に法治に進まざるを得なかった。 | |
| 律令に代わる日本の固有法「貞永式目」はどのようしてに制定されたか | では一体どのような法律が制定されたのであろうか。・・・まず大きな特徴はこの法律はいわば当時の社会の「常識の結晶」であっても、中国の法律とは全く無関係であったことである。 | |
| 武士の所領への貨幣経済の浸透は、一族という血縁集団を、一揆という契約集団に変えた | 「貞永式目」の公布が一二三二年だから、このころすでに貨幣が猛威を振るい出して不思議でない。そして皮肉なことに武士である清盛が切り開いた貨幣経済への道が、武家法をつくった泰時を苦しめることになった。 | |
| 日本の平等主義・集団主義は、武士の自力主義・能力主義を前提とする「一揆」から生まれた | 武士は元来、自力で墾田を切り拓いて来た人びとが主流である。従って「自力主義」ともいうべき特質をもっていた | |
| 日本の組織はピラミッド型ではなく、「一揆」組織が「ぶどうの房」のように中心の茎に連なったもの | いわば一揆連合のような戦国大名は、決して、上下契約によるピラミッド型の組織ではない。しかし個々のぶどうは房となってつなかっていないと存立し得ない。 | |
| 武家社会への貨幣経済の浸透が縁族を越えた一揆という契約集団を生んだ | 土地を掌握しても貨幣を管理できないで倒壊した鎌倉幕府の次に出現したのが、貨幣は握っても殆ど領国支配のできない足利幕府であった。 | |
| 農民への一揆の浸透が一向宗やキリシタン信仰の基盤となった | 農民への一揆の浸透は一二〇〇年代にすでにはじまり、「隠し規文」などといわれる一種の「村法」をつくって自治的体制を敷いていた | |
| なぜ、戦国期の日本にキリスト教は受け入れられたか | ザビエルの日本評「私たちが今までの接触によって知り得た限りでは、この国民が、私の接した民族の中で一番傑出している」 | |
| 日本はなぜキリシタンを禁止したのか | 「日本はなぜキリシタンを禁止したのか」こういう質問が欧米人から出て不思議でないが、多少キリシタン史を知っている人は、「いつ禁止したのか。何を禁止したのか、よくわからない」というのが普通である。 | |
| 江戸時代初期、イギリス人使節の観察した日本 | 九月六日、駿府に到着するまで、毎日十五、六里を旅行した。一里は三マイルである。道路の大部分は、驚くほど平坦で、山を通過する部分は、開削されている。 | |
| なぜ一向宗は信長や家康と対立したか(まとめ) | 王法を尊重しつつ、仏法による信心の王国」の樹立を目指した蓮如の教えが、「一向一揆」という強固な政治的・軍事的集団に発展し、戦国の覇者である信長や家康と死闘を繰り返すことになったか。 | |
| キリシタンを黙許した家康が切支丹国禁令を出したのはなぜか | 徳川家康は、基督教の信徒と雖(いえども)、国法に従ひ、公序良俗を乱さぬ限り、敢て之を禁制しようとはしなかった。 | |
| 島原の乱に到ったもう一つの真相 | この反乱には有馬・小西両家に仕えた浪人や、元来の土着領主である天草氏・志岐氏の与党なども加わっており、一般的に語られる「キリシタンの宗教戦争と殉教物語」というイメージが反乱の一面に過ぎない。 | |
| 仏教を、民衆指導から民衆支配に代えた「寺請制度」 | 簡単にいえば日本人は、全員が寺に登録されているという意味では全員仏教徒になり。寺は戸籍役場になった。 | |
| 家康の創出した「諸法度」による統治体制 | 何らかの新しい原理に基づいて全く新しい法や制度を制定したのでなく、すべての典拠を過去の先例に求めた。 | |
| 韓国から見た徳川幕藩体制の優れた点は何か | 徳川時代の政治体制は、分権的でありながら集権体制であるという、世界でも稀に見るものであった。韓国、李朝の完全な中央主権体制と、ヨーロッパ中近世の完全なる分権体制と較べてみると、両者をほどよく結合した形になるのである。 | |
| 「幕藩体制の統治神学」としての朱子学が採用されたのはなぜか | 秩序の維持はそれだけでは不可能で、そこには新しい統治の思想が必要であった。いわば「幕藩体制の統治神学」の確立である。 | |
| 朱子学の導入過程 | 藤原惺窩以降の思想的系譜 | |
| 戦国から幕藩体制への切り替えはどのようになされたか | 命知らずで好戦的な特攻的日本人が、なぜ急に経済成長を絶対とする有能な経済人に一瞬にして変わったのか。 | |
| ヨコ組織である一揆はタテ社会の幕藩体制をどう支えていたか | 「将軍→大名→家臣」の序列を作りあげたのが家光の時代だが、次の家綱の時代になると、家臣団が連携して無能もしくは暴君的な主君の「押込」という「逆タテ化」がはじまる。 | |
| 五公五民で搾取された農民が豪商になり得たのはなぜか | 年貢が、その年の収穫高に応じて課税する「検見」から、豊凶に関わらない「定免」に代わると、ますます付加価値の高いものをつくるのが有利となる。 | |
| 家康の一国一城制がもたらした意外な経済的効果 | 家康は一国一城制を敷き、新規の築城は禁止し、修理・拡張もまた厳しい許可制にした。彼の目的はもちろん別の点にあったが、これが結果として非生産的な軍事的労役をなくしてしまった。 | |
| 幕藩体制下の経済発展が日本を鎖国から開国へと導いた | 幕藩体制は確かに日本の経済を発展させた。そしてその発展はついに、田沼意次が老中の頃(1772~1788)、鎖国はすでに無理だという状態になっていた。 | |
| 和時計で蓄積された伝統技術が日本の精密工業の基礎をつくった | 人類の長い歴史において、灯火によって昼を夜へと自由に延長できるようになったのは最近のこと、それも電気が自由に使える先進国のことであって、昔は昼と夜で生活の仕方を変えねばならなかった。 | |
| 江戸時代の民衆生活 | 徳川時代の成年・結婚・夫婦財産制・借家・離婚・養子・聳養子・親権・入夫・遺言・相続・隠居等について記した。 | |
| 江戸時代の民間学者がなぜ政治哲学を論じるようになったか | 幕藩体制による「平和時代」の到来とともに多くの人が学問に目を向けだした。ここには家康の学問好きと奨励も作用していたのであろうが、「これからは学問の時代だ」という風潮もあったらしい。 | |
| 幕府を非合法政権とみなした浅見絅斎の思想 | 綱斎はその一歩を進め、幕藩体制を認めなかった。幕府も藩も、排除さるべき非合法の存在と見たのである。おそらく彼は、このような見方をした徳川時代の最初の日本人であろう。 | |
| 自己の存在意義を未来におく日本で初めての思想 | 綱斎は自己の存在意義を未来に置いた。その思いは『靖献遺言』の「燕歌行」に現われている。 | |
| 民間学者輩出の時代 | 幕藩体制という「下剋上的エネルギー」が封殺されたやり場のない誉積の世界で、人はその上昇志向をどの方向に向けて生くべきかという探求が当然に要請される。 | |
| 石田梅岩の思想 | 梅岩は競歩14年(1729)45歳で退職し、旧都で一般大衆のため小さな講義所を開いた。これが後に広く日本に流布した町人思想すなわち「石門心学」の始まりである。 | |
| 富永仲基の思想 | 学生の町人たちはみな「町人的合理性」をもっているから不合理ははじめから受け付けない。そうした雑学的、よくいえば自由闊達な学風の中で、仏典や四書五経、朱子学の宇宙論などを学んだ。 | |
| 山片蟠桃の思想 | 仲基は西欧を全く知らなかったが、蟠桃はコペルニクスからニュートンに到る西欧の影響が現れている。 | |
| 西欧に先んじた日本の数学 | 日本の算学は文字通り和算だが、もとをただせばその源流はやはり中国である。中国人は西暦紀元前後にすでに代数の初歩に到達していたから、この時点では日本とは段が違う。 | |
| 儒学と決別した「脱亜」の先駆者本多利明 | 彼は、まず数学・天文学・暦学・測量を基本として、彼のいう窮理学すなわち西欧の自然科学への関心を深め、それを基礎にものごとを考察する。 | |
| 海保青陵の思想 | 青陵の現場主義の方が現実を鋭ぐ見ていた。彼は武士階級の意識改革がない限り、国営はおろか藩営も可能とは思わなかった。 | |
| 明治維新はなぜ成功したか | グレゴリー・クラーク氏が、日本は明治維新という「半革命」だけで近代化・工業化へと進み得たことについて、氏はその理由を日本の農村共同体の特質にあったと指摘されているのは卓見である。 | |
| 昭和史 | 「一握りの軍国主義者」論 | 『一握りの軍国主義者』などという抽象的存在がこの世にいたのではない。そこにいたのは具体的存在としての個々の人間である。 |
| 青年将校の「矜りたかぶり」 | まったく戦前の青年将校の「矜(ほこ)りたかぶり」と「あなどり傲り」は正気の沙汰とは思えないほどだった。 | |
| ヤンキー・ゴーホーム | アメリカは、今でこそ世界を圧する国力と豊富な物資でチヤホヤされているが、いずれ「ヤンキー・ゴーホーム」の声が起こるであろうなと思った。 | |
| 青年将校の被害者意識 | ”軍は加害者”は戦後の通説であるから、彼らが強烈な被害者意識をもっていたとは、今では信じがたいであろう。 | |
| 昭和天皇への無謬性の寄託 | 当時の陸軍には、天皇が自分の決断、自分の意志で、自ら行動を起こすだろうと思った人間は一人もいなかったというのがある。 | |
| 派閥と法と権利の世界 | そしてそれに代わって登場した「純粋」な青年将校で構成されているはずの軍部もまた「派閥争い」の世界であった。 | |
| 民主制とは法を創出し制度を作る世界 | 明治から現在に至るまでの問題点は、法により創出される制度の上で、明確な統合の中心を欠いているという点にある。 | |
| 明治維新は「疑似中国化革命」 | この連載を始めてから「明治維新が中国化革命であった」という話は生まれてはじめて聞いて驚いた、といった手紙が余りに数多く来たので、私の方が驚いた。 | |
| 中国人「天孫論」と「犬猿論」 | 今はまた「中国天孫・日本人土下座時代」であろう。これは当然いずれは逆転する。従って私は、最初にのべたように、日本人の中国観は南京攻略戦当時と少しも変わっていないと考えている。 | |
| 日支事変の原因を世界はどう見たか | 日支事変が始まったとき、世界の列強の殆どは、これを・・・「満洲領有確認=満州国承認獲得戦争」、すなわち中国政府に満州国の独立を承認させるための軍事行動乃至は軍事的示威行動と見た。 | |
| 犬が去って豚が来た | 「犬」すなわちすべての実権を握って、吠えかつ威張っていた日水軍も日本人も去った。しかし日本は一応ここに法的秩序を、それが手前勝手なものでも、確立していた。しかし、新しく駐留した国民党軍はそうでなく、温順な庶民の生活を侵害した。それが大暴動の原因であった。 | |
| 「大義」が「妄想」を生む | 「武器」と「大義」、この二つが結びつくと個人的倫理観を喪失させ、その結果いかに人を狂わせるか。 | |
| 希望的観測1 | 後代の歴史家は記すかもしれない。このような無謀な戦いをしたもの、すなわちアメリカ帝国の領土を爆撃して自ら戦端を開いたのは、日本人だけであったと。 | |
| 希望的観測2 | 当時の多くの日本人は、自分たちが立ちあがれば、植民地として圧迫されているアジアの民が、ともに立ちあかって全面的に協力してくれるであろうと信じていた。 | |
| 動乱、殺人、掠奪は人を変えていく | この世の中に「残虐人間」という特別な人間がいるわけではない。戦場において残虐な行動をした人間が、故郷に帰れば最も温和な通常の人間であるのが普通の状態である。 | |
| 緒戦の大勝利が敗戦への道 | (なぜ日本はアメリカ軍を撃滅しうると信じたのであろうか)その心理的作用は真珠湾攻撃の”大勝利”に(あった。) | |
| 百人斬り競争 | 論争の発端(イザヤ・ベンダサンと本多勝一) | 朝日新聞の「中国の旅」は、虐殺事件の責任者個人を告発しているのではなく、「私の責任といって謝罪すれば責任が解除される」と考える日本的な考え方が背後にあると指摘。 |
| 論争の発端(鈴木明と本多勝一) | 本多氏の記事では、戦闘中の話が平時の殺人ゲームになっている。しかし、いかに戦時中の日本といえ、戦闘中以外の「殺人ゲーム」を許すという人はいないだろう。 | |
| 論争の発端(山本七平と本多勝一) | 本書(『私の中の日本軍』)執筆の動機の一つは、東京日日新聞(現在の毎日新聞)の「百人斬り競争という昭和12年の、誠に悪質な「戦意高揚記事」という名の「虚報に接したことであった。 | |
| 戦場のほら・デマ | 苦しみが増せば増すだけ、人間はあらゆる方法で、あらゆる方向に逃避し、また妄想の世界に『遊ぶ』ことによって、苦痛を逃れようとする。 | |
| 輜重輸卒が兵隊ならば | 横井さんが興奮して、思わず「一人斬り」を口走ったときの報道と解説によると、横井さんの手元に「お前なんぞは炊事番で後方にいたくせに……」といった手紙が山積した。 | |
| 私的盟約は死刑 | 「向井は、自分がどんな記事を書かれて勇士に祭り上げられたのかは、全然知らなかったので、後であの記事を見て、大変驚き、且つ恥ずかしかった。」 | |
| 「副官」と「砲兵」を歩兵小隊長にしたのは誰か | 「二将校の大言壮語」の収録であろうと「週刊新潮」に書かれていたが、おそらくそうではあるまいと前に私か書いた理由はここなのである。 | |
| 「中国の旅」の”殺人ゲーム”で加えられたこと | 「本多版」の記事を仔細に見てみよう。ここで初めて「上官」が登場した。しかし、これを単に姜氏の創作というわけにいかない。浅海特派員の記事にも暗黙に登場しているからである。 | |
| 記者は「見たまま、聞いたまま」を書いたか | ここでわれわれは大きな疑問につきあたるのである。それは浅海特派員も二少尉にだまされていたのかどうかという問題である。 | |
| 「虚報」作成の原則 | 常識や通念が、潜在的願望や希望的観測といっしょになると、情報のうち隠された部分を、無意識のうちに創作しておぎなってしまうのである。「百人斬り」にはこの点がよく現われている。 | |
| 「虚報」の恐ろしさ | さらに恐ろしいことは、内部の人間がそのようになるに比例して、外部に対しては的確な情報を提供して、すべての意図を明らかにしてしまう結果になるからである。 | |
| ベンダサンの「虚報」を見抜く目 | 本多・ベンダサン論争で、・・・「浅海版」が三十五年ぶりに再登場したとき、ペンダサン氏はすぐに「浅海版」もフィクションだと一笑に付したが、その根拠は何かという問題である。 | |
| 事実として聞いたか、フィクションとして聞いたか | 「浅海特派員は、この事件における唯一の証人である。そしてその証言は一に二人の話を「事実として聞いたのか」「フィクションとして聞いたか」・・・ | |
| 軍人の手柄意識 | 向井が「花嫁を世話してくれないか」と冗談をいったところ、記者は「貴方が天晴れ勇士として報道されれば、花嫁候補はいくらでも集る」といった。 | |
| 戦場の軍人にとっての女性と里心 | 「精神的里心」とは、人が「殺されることが当然」という戦場に連れて行かれたとき、何としても自分が生きていることを肉親に知らせたいという気持ちが異常なほど強くなることをいう。 | |
| 日本刀神話の実態 | 次に中国人R氏のお手紙を紹介する。氏のお手紙は大分長く、中国の刀剣の説明があり、ついで日本刀に言及し、成瀬関次氏の著作に言及しておられる。 | |
| 生への希求 | 部隊長の顔には、奇妙な激情が走った。「切ってこい。遺体の一部なりとも遺族にとどけにや相すまん。絶対にとどけにゃならん。とどけにや相すまんのだ。 | |
| 向井少尉の紫金山での「長広舌」のわけ | 彼はこの時点で、今までのべて来た「負傷」のもつあらゆる恐怖から解放されたところなのである。そのわき出るような喜びはだれも抑えることはできない。しかし一方、非常に気が弱くなっていることも事実である。 | |
| 野田少尉はなぜ記者の誘いに乗ったか | 何らかの示唆に基づくだれかからの暗黙の慫慂もしくは許諾がない限り、一少尉というものは、軍隊という官僚機構の中で、これほど大胆に振舞うことは不可能である。 | |
| 戦闘中の「非戦闘員殺害」は有罪 | 戦犯の実行犯においてはそうでなく、ある人間の同一の行為が犯罪になるかならないかは、その置かれた情況によって全く変るわけである。これも軍法の特例であろう。それは通常(一)[一戦闘行為、(二)戦闘中ノ行為、(三)非戦闘時ノ行為、の三つにわけられる。 | |
| 東京法廷はなぜ二少尉を無罪放免したか | なぜ東京法廷が二人を不起訴にしたか。それはこの「百人斬り競争」の英訳を読めばわかる。英訳は、これを「インディヴィデュアルーコンバット(個人的戦闘行為)」と規定している。 | |
| 虚報が故意に欠落させたもの | 虚報には常に一つの詐術がある。それは何かを記述せず、故意にはぶいているのである。そしてそれは常に、それを記述すれば「虚報であること」がばれてしまう「何か」なのである。 | |
| 南京法廷は「戦闘中の非戦闘員殺害」とみた | 少なくとも、日本語の「新聞記事」には、どこにも「完全軍装の正規軍兵士に対する個人的『戦闘行為』」だとは書いていない。浅海特派員がこれを明言しなかった理由は、もちろん、本多氏の場合と同様「虚報を事実らしく見せかける」ためである。 | |
| 紫金山麓一二月十日の向井、野田の会見は事実か | 最後まで問題になり、ついに二人を処刑させてしまったのは「十日の紫金山麓の会見記事」なのである。「おいおれは百五だが貴様は?」向井「おれは百六だ!」・・・向井少尉はこの会見を否定した。 | |
| 「南京大虐殺」を”まぼろし”にしたもの | あくまでも公正を期すなら、法廷は、浅海・鈴木両特派員を喚問すべきであった。それをしなかった点では一種の「政治裁判」といえる面を否定できない。 | |
| 最後の「言葉」 | 向井・野田両氏は、その生命にかえて実に貴重な遺産をわれわれにおくってくれた。またK氏はよくそれを持ち帰ってくれた。それがなければ「百人斬り競争」も「殺人ゲーム」も、そしてその他のこともすべて「事実」として押し通され、結局すべては戦時中同様にわからずじまいで、探究の手がかりが何一つなかったであろう。しかし処刑の直前によくこれだけのことができたと思う。 | |
| 歴史評論 | 歴史人物 | 渋沢栄一の思想と行動 | 日本における近代の創造は、徳川時代と明治時代の連続・非連続を統合的に把握してはじめて理解できる――では、どのような方法を用いればその「統合的把握」が可能なのであろうか。 | 明治時代を現出した幕末人、尾高藍香と渋沢栄一 | 言うまでもなく栄一は、第一国立銀行の創設者、生涯に五百の会社を設立したといわれる人、一方藍香は有名な富岡製糸所の建設者で経営者で日本の「絹」が国際商品になる道を拓いた人である。 | 尾崎行雄の「天皇三代目論」 | これは、尾崎行雄が、昭和17年東条内閣当時の翼賛選挙における応援演説の中で使った言葉です。政府(東条英機)は、これが不敬罪に当たるとして、尾崎行雄を刑事起訴しました。 |
| イザヤ・ ベンダサン |
ペンネームについて | ペン・ネームは偽名でも匿名でもない。別名すなわち別人格を意味する名前である。 |
| 『日本人とユダヤ人』について | 『日本人とユダヤ人』を出版した後、私は、踏み絵を踏んでお奉行に褒められたような、妙な気を再三味わった。 | |
| 「雲の下」論 | この論法は、「語られた事実」を「事実」だと主張して、その「事実」の証拠を他の「語られた事実」に求めるとき必ず出てくる議論である。 | |
| 教育論 | 教育勅語について | 教育勅語とか一国の基本法とかを教育が依拠すべき基盤とするなら、その民族は一種の自閉症とならざるを得なくなるであろう。 |
| 飽食の時代の教育 | 飽食・順境の時代は、粗食・逆境の時代より教育はむずかしい。多くの国は極盛期を迎えると必ず衰亡への道を歩む。 | |
| 日本資本主義 | ||
| 経営論 | ||
| 日本的実力主義の伝統 | 日本における最初の成分法である「貞永式目」は基本的に武家法であり、軍隊的秩序を基本としていた。その特徴は功績が地位に転化するという原則である。これは身分が制度的に固定化されている社会ですら、ある程度は無視できない原則であった。 | |
| 一揆的集団主義 | 伊達千広のいう「下より起こりて次第に強大にして止むことなき勢」はしだいに底辺にまで及び、ついに農民にまで達し、それまでの社会秩序を根底から覆しそうに見えた。 | |
| 「礼楽的」一体感の秩序 | 日本も形式的には「法契約社会」だが、実質は「礼楽的社会」だから、社内は「礼楽的秩序」である。すなわち、「楽は同を統べ、礼は異を弁つ」で、同時に「仁は楽に近く、義は礼に近し」である。 | |
| 人望=久徳的リーダー | (人が人格・人望を身につけるためには)『近思録』には、「具体的中間目標は、九徳である」とは記されていないが、「九徳最も好し」とあるから、具体的には、これに到達することを目指せばよいであろう。 | |
| 勤労絶対化の規範 | 労働により己が生活を支えることは、梅岩にとっては、「人という形」に生れた者が自然の秩序に従う道であった。いわぱ「馬という形」ならば草を食うような「心」が自然にそなわっているようなものである。 | |
| 徳川時代の町人思想 | 商人とは、その目的が非常にはっきりした存在であるから「目的が手段を正当化する」という考え方は、成り立たない。逆であって、「利潤」という目的の追求が正当化されるのは、その追求の「手段」が正当な場合に限られる。 | 政治評論 | リーダー論 | 「組織的家族」と「世話人型指導者」 | 日本軍・・・この戦闘のみを目的としそれに対応して構成されたという意味で、非常に単純明快なはずであるべき組織が、実は、「家族集団」として規定されていた。 |
| 「組織的家族」の「植物化」からどう脱却するか | 自己の表現ができない限り、人問は自己の現況から脱却できない。一言でいえば進歩はあり得ない。もちろん模倣はありうるが、模倣は、実際は退化にすぎない。 | |
| アメリカのまねはできない | レイオフは日本では簡単にできない。これは組織的宗族では当然であり、勘当か破門同様に本人が受けとり、社会もそう規定するからである。したがって日本には正当解雇という概念はが在せず、解雇はすべて不当になり、そして不当な扱いをうけた者は犠牲者とされる。 | |
| 組織の非合理性からの脱却 | 新たな戦後世代と日本の国際化、過去には考えられなかったような諸外国との接触は、組織的家族の中に「和」よりも合理性を求める結果にもなっているであろう。 | |
| 肯定的戒名より否定的戒名 | 自己検証から出てくるものは「これはすべきでない」という形の「否定的戒命」であり、それで構成される大きな枠の中での各人の方向は、自由にみずからが探究すべき問題である。 | |
| 人望論 | ||
| 常識論 | ||
| 宗教 | 日本は明治の初めに仏教と神道をあわせて国教を作ろうとしたが失敗した | |
| 聖書学 | ||
| キリスト教 | 内心の伝道 | 批判とは外部から行うことであり、伝道とはその中に入って、その中の人のわかる言葉で語ることである。 |
| 未来論 | 21世紀の展望 | 明治も過去を消そうとした。そして、戦後も過去を消そうとした。「我々に歴史があるとすれば、消すべき恥ずべき歴史しかない」と考えた。 |
| 「どうなるか」ではなく「どうするか」を考える | 自ら履歴書を検討してみれば、自分の特技も、また欠けた点も明らかになる。個人が生涯学習の時代なら、民族もまた、それ以上に常時永続学習を要請される。 | |
| 明治から昭和の「履歴書」 | 日本の存立も発展もその伝統的文化が基盤であることは言うまでもない。それは明治を可能にしたし、戦後の繁栄をも可能にした。 | |
| ユダヤ人より上回る現代日本人への反感 | 「お前たちは貸す者となっても借りる者とはならないであろう」という旧約聖書の『申命記』の言葉は確かに日本にもあてはまる。しかし、それがどれだけ大きな反感になるか。 | |
| 民族は伝統文化を失わない限り存続する | 民族は、たとえ国土と政治的独立を失っても、伝統的文化を失わない限りその存続する。 | |
| 祖国をポケットに入れて世界中を歩き回る | 世界中にばらばらにばらまかれても、「共通の民族の遺産をみなが読んでいる」という意識は強い連帯をが成したであろう。丈化的統合をいかにして保持するか、これはわれわれの問題でもある。 | |
| 昭和天皇論 | ||
| 論語 | ||
| 対談 | 小室直樹 | |
| 岸田秀 | ||
| 司馬遼太郎 | ||
| 加瀬秀明 | ||
| 秦郁彦 | ||
| 会田雄次 | ||
| 山本夏彦 | ||
| 吉本隆明 | ||
| 論争 | 立花隆 | |
| 司馬遼太郎 | ベンダサンの司馬批判 | |
| 本多勝一 | ||
| 洞富雄 | ||
| 新井宝男 | ||
| 浅見定雄 | 浅見氏の「にせユダヤ人論」について | |
| apemanさんとの論争1 | ||
| 自己絶対化を克服すること | ||
| 『にせユダヤ人の日本人』における浅見定雄の山本七平批判について | ||
| 佐伯信光 |
