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山本七平語録

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教育論

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教育勅語について
「教育勅語と日本人」『諸君』年月号イザヤ・ベンダサン
「教育が、二国もしくは数国を共通する同一の聖典下にあるという状態は、理解できない状態になってしまった。通常、一つの文化圏は、その文化圏に共通する教育の原理をもち、従ってそれに育てられた者は、共通でないまでも相互に理解可能な道徳的規範及び価値を持ちうる。だが、教育勅語とか一国の基本法とかを教育が依拠すべき基盤とするなら、その民族は一種の自閉症とならざるを得なくなるであろう。」  「教育」の原理が一国の首長の発する「勅語」とか、政治的に決定される「法律」によって規定されることのおかしさを端的に述べたものです。
例えば儒教は中国、韓国そして日本の三国に共通する教育原理でした。
明治の教育勅語体制は、日本のこの教育の伝統をなぜ消したか、興味深い問題です。
飽食の時代の教育
『現代の処世』p220.225
昔は「衣食足りテ礼節ヲ知ル」といわれた。だが、衣食が足りれば自然に礼節がわかるとはどこにも書かれておらず、それは余裕を得て学ぶべきもののはずである。それをしないなら、衣食が足りると逆に禽獣になる。飽食・暖衣で逸居(ひま)して教育がなければ人間は禽獣に等しくなると孟子はいっている。「飽食の時代」とは一面では、教育がうまくいかないと禽獣になってしまう時代なのである。面白いことに日本自体が逆境のときはあまり教育は問題にならなかった。不思議なようだがこれは当然で、前にも引用したように逆境とはハリ医のハリか薬石のようなものだから、その環境自体が教育になってくれる。ところが、飽食暖衣の時代、言葉を変えれば日本中が「富貴」になった時代は、教育的には最も悪い環境になる。どこが悪いか。まず人間は贅沢な食物を求め、虚栄を求め、虚名を求める。さらに安直な快楽を求め、それがすぐ手に入るという、まことに非教育的な環境になってしまうからである。(中略)
まったくこういう点では、飽食・順境の時代は、粗食・逆境の時代より教育はむずかしい。多くの国は極盛期を迎えると必ず衰亡への道を歩む。この点では中国とはまことに不思議な国で、長い混乱期はあってもまた再び大国として立ち直る。私たちの若いころ、というのはわずか半世紀弱の過去のことだが、このころの日本人は、さすがの中国も、もうこのまま終わりであろうと思っていた。事実、当時の中国のことを思えば、そう考えるのが常識であろう。だが彼らは再生する。しかしローマ帝国も大英帝国も再生することはないであろう。その理由は簡単に解明はできまい。だがその一半が教育にあることは否定できないであろう。このことはユダヤ人にもいえる。この両者はいわば「教育民族」なのだが、それは現在の「教育ママ」のいう「教育」とは意味が違う。いわば、一種の「鍛錬」なのである。(中略)
そして「教育」とは、常に、なにかを積極的に教えるというより、むしろ、悪に染まらないように用心に用心をかさねていることが第一である。
 飽食の時代は、それ自体が非教育的な環境になってしまうので、こういう時こそ、「教育」が大事になる、といっているのです。でもそれは教育ママのいう「教育」ではなくて、おそらく中国人やユダヤ人がもっている一種の「鍛錬教育」だ、といっています。
では、その「鍛錬教育」とは何か、ということになりますが、それは「なにかを積極的に教えるというより、むしろ、悪に染まらないように用心に用心を重ねていることが第一」だといっています。
それは家庭教育に始まり、そしてその根本は「家庭の平和」が保たれていることで、そうした信頼関係の中で、人間関係の基本を「戒律」を通して教えることが大切だというのです。
また、中国の不思議な「立ち直り」の力について言及されていますが、これはおそらく、儒教の「戒律」を念頭に置いているのでしょう。韓国ブームも案外こんな所からきているのかも知れません。

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