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6.徳川時代

徳川幕府の成立

家康は征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開きます。しかし、上方の町人や淀殿などは、家康の次は秀頼、と真面目に思っていたようです。ところが、家康が秀忠に将軍の座を渡すことにより、これからは徳川の天下だぞ、ということを示してしまいます。

現代人からすれば当たり前のことですが、当時の上方の人たちは本気で秀頼の天下になることを信じていたようです。秀頼から天下を奪い、経済的繁栄を江戸に持って行かれた関西人は、今でも家康大嫌い、という人が多いようです。

大阪冬の陣(背景)

家康は最初、豊臣家は一大名として残すつもりでした。秀吉も織田家に対して同じようにしました。ちなみに織田家は明治維新まで一大名として残っています。

ところが、淀殿はそれを良し、としなかった。徳川の天下が確定したあとも、機会をみて豊臣の天下に戻したい、戻せるはず、と思っていたようです。

家康のずるがしこさを象徴するようなこの鐘銘問題ですが、当時の常識からすればあながち、無茶な因縁とは言えないようです。しかし、家康がこれを理由にして豊臣家を滅ぼしたのは事実です。

ちょうどこの時期、豊臣恩顧の大名の大物が次々と世を去っています。これも、家康に豊臣討伐を決断させた理由のひとつでしょう。

片桐且元が出した3つの条件は、おそらく家康の側近から囁かれたと思います。且元だけでこんな条件を考え出せるわけはありませんから。

大坂冬の陣(戦闘の経緯)

大坂城は当時、世界一堅牢といわれた城だったようです。家康はもともと城攻めは得意でなく、一回のいくさで豊臣をつぶせるとは思っていなかったでしょう。少し戦って、すぐに講和交渉を始めます。そのまま城攻めを続ければ、局所的に敗けることもあり、引き分け状態でいくさを終わることは、事実上の敗けになってしまいます。最初から、2度目で落すつもりだったのではないでしょうか。

交渉の相手は、実質的に淀殿です。この時点での講和には籠城している主要な武将は全員反対でしたが、幕府軍の攻撃のものすごさに淀殿は耐えかねたのでしょう。大砲の音というのはものすごい音です。自衛隊の演習で大砲を打っていますが、自分をねらっているのではないことがわかっているので、うるさいな、くらいで終わりますが、あれが自分を狙っている、と思ったら、いてもたってもいられなくなるでしょう。

家康側から見かけ上は甘い講和条件が示され、淀殿も講和に応じます。

大坂冬の陣(講和)

城を破壊し、濠を埋めること、というのは当時はよくあった講和条件だったようですが、家康は文字通り、徹底的に城を破壊し、濠を埋め尽くしてしまいました。このあたりが、家康がタヌキと呼ばれるところでしょうね。

当時の大坂城というのは今の大阪城公園の4倍くらいの広さがあったと言われていますが、人夫を大量に動員して本丸とその内堀以外を1ケ月ほどで壊してしまい、残ったのは今の大坂城公園くらいの大きさでした。

淀殿は非常にプライドの高い女性だったようです。彼女も先に述べた北条と同じように、時代の変化を理解しなかったのでしょう。室町時代の権威主義の文化にしがみついていました。
豊臣家にとって不幸だったのは、淀殿をコントロールできる人物がいなかった、ということです。秀長や秀次が生きていたら、武断派と文治派の争いも抑えられたでしょうし、淀殿に豊臣家の将来を託すようなことにもならなかっただろう、と思います。

大坂夏の陣

豊臣方についた牢人たちは、冬の陣の時点では家康に勝つことはできなくても、一泡ふかせることはできる、と思っている人が多かった。しかし、夏の陣ではほとんどの人が勝てるとは思っていなかったでしょう。それでも豊臣家のため、というより自分自身のために、このいくさに参戦し、戦死しています。

これはもう戦争というより、犯罪とはいいませんが、処刑のようなものです。それでも淀殿は最後まで生きる望みを捨てなかったようです。
この大坂の陣でやったことから「タヌキおやじ」とよばれるようになったといいます。このやりかたは、誰が見ても褒められるものではありませんが、家康は本当にあせっていたのでしょうね。

家康の死

豊臣家が滅んで、家康もほっとしたのでしょう。半年くらいあとに亡くなります。死因は胃がんと言われています。おそらく、大阪の陣のころには何らかの自覚症状があったのではないでしょうか。

セルバンテスとシェークスピアの話は大変おもしろいですね。タヌキおやじ、といわれるのは家康本人にとっては、面白くないでしょうが、彼がやってきたことを見ればこれ以上ぴったりした言葉はありません。

優秀な指導者で「タヌキおやじ」でない人は、いないといってもよいでしょう。その意味で家康は歴史上も累をみないほど優秀なリーダーであったと言えると思います。