秀吉の死後、武断派と文治派の内部対立が表面化した。家康はこれにつけこみ、武断派を味方につけ、石田三成らの文治派を挑発して戦いを起こすように仕向けました。
石田三成は正義感の強い真面目な男だったので、まんまとそれにのせられてしまいました。
家康はまず、上杉に因縁をつけます。上杉は1598年に秀吉によって越後から会津に移されており、城の増改築などを進めていました。
上杉の家老、直江兼続は石田三成と通じており、「直江状」と呼ばれる手紙を送ります。よくもまぁ、これだけ言いたいことを言った、と思いますね。これはもう宣戦布告状といってよい。
家康は6月に大阪城を出て上杉討伐に向かうのですが、この出征は豊臣秀頼の名代という形式になっています。
三成はいよいよ決起します。あらかじめ、毛利とは話がついていたのでしょう。毛利秀元、毛利輝元の二人が大阪城に入ります。そして、「内府ちがひの条々」という書状を出す。これが奉行の名前で出たので、家康は反逆者になってしまいます。
三成は家康が連れて行った福島正則ら豊臣恩顧の大名たちを引き離そうと大坂にいた妻子を人質にとろうとしますが、細川ガラシャの死によって失敗します。
家康は上杉討伐に参加していた武将を小山に集めて、「三成が謀反を起こしたが、それぞれ事情があるだろうから、国に帰りたければ帰ってもいいよ」、というのですが、帰ったのは真田昌幸くらいで、ほとんどの武将が家康についていくことになります。裏工作をして福島正則に最初に手をあげさせた、という説もあります。
そのあと、家康は全国の大名に手紙を送って内応工作をします。そして、先発した福島正則らが、本当に三成と戦う気があるか、確かめたあとゆっくりと江戸を出発します。
一方、三成は最初、美濃、尾張を抑えて三河との国境で家康を迎え撃つつもりだったのですが、尾張は福島正則の領地で美濃は東軍の先発隊にあっけなくおとされてしまい、ひとまず大垣城に集結することにします。この間、京極高次の寝返りなどもあって、関ヶ原に駆けつけられない部隊がかなりいたようです。
家康が着陣した9月14日、西軍は軍議を行い、関ヶ原で決戦することに決めます。このとき、島津は家康を奇襲する案をだしましたが、三成に拒否されています。島津は、正面から戦ったら勝ち目がない、と思ったのでしょうね。西軍はその日の夜、関ヶ原に移動します。
関ヶ原というのは山に囲まれた谷で、西が高く東に向かって傾斜しています。三成は有利な西の山沿いに陣を構えました。
前日、雨が降って、当日の朝は霧がたちこめていたようですが、その霧が晴れるのを合図に戦闘が開始されました。当初の戦闘に参加した兵の数は東軍の方がやや多かったようですが、西軍の方が士気が高く、どちらかというと西軍が押し気味だったようです。決戦が行われたのは関ヶ原の西の端、およそ2km四方くらいのエリアでした。
家康は最初、前線から3kmくらい後ろの桃配山(ももくばりやま)のふもとに本陣を構えていたのですが、昼前には前線から500mくらいのところまで陣を進めています。
小早川秀秋は、松尾山から戦いの様子を眺めていて西軍が思った以上に善戦しているので、迷ったでしょう。この松尾山というのは、標高は300m足らずですが、関ヶ原の全貌がよく見渡せます。新幹線や名神高速道路はこの松尾山のふもとを通っています。新幹線の車窓からもほんの一瞬ですが、決戦場が見えます。
家康が威嚇射撃をしたかどうかはわかりませんが、何かをきっかけにして小早川秀秋は寝返ります。これで西軍は総崩れになります。
三成がカッコつけずに勝つことにこだわっていたら、勝てたかもしれません。明治時代にドイツの将軍が関ヶ原を訪れて、両軍の陣配置などを視察したとき、間違いなく西軍が勝ったはずだ、と言ったそうです。
家康が最も恐れていたのは秀頼がこの場に出てくることだったと思います。淀君は出さなかったでしょうが、三成だったら、何とかごまかして秀頼を引っ張りだすことができたのではないか、そしたら、歴史は全然別な動き方をしていたかもしれません。
関ヶ原では勝っても、家康はまだ安心できる状態にはなかったでしょう。大坂城にいる毛利輝元がどういう動きをするかによって、勝ちはひっくり返る恐れがあったからです。幸い、毛利輝元はさっさと退去してくれたので、家康の勝ちが確定しました。
西軍についた大名のほとんどは、領地没収となり、関ヶ原以前は西軍の方がやや多かったのが、戦後は全体の2割くらいまで減らされました。
これで、家康の天下が確定するわけですが、当時、西国では、商業重視の貨幣経済が主力になってきていたのに対し、徳川幕府は米を基盤にした経済に戻してしまいます。これだけでも、世界の流れに大きく後れをとってしまったといえるでしょう。代わりに260年の平和を得ており、それはそれなりに良かったのですが。