家康が生まれたのは、松平家の内紛のさなかでした。
この頃、松平信定という家康の叔父さんが、松平家をのっとろうとして、広忠を追い出したり、広忠に追いだされたり、という争いをしていて、それにつけこまれて、今川の属国になっていました。
織田信秀に攻められて、今川に助けを求めたら、人質を出せ、と言われ、人質を出したら、途中で親戚に奪われて織田に売られてしまった。そんなことがごく当たり前にあった時代なのでしょう。
そうこうしているうちに父は家臣に殺され、今川はわざわざ人質交換で家康を取り戻します。それから10年以上にわたる人質生活がスタートとします。
人質といっても牢屋に入れられているわけではなく、いわば軟禁状態にあるのですが、読み書きくらいは教えてもらったようです。小さい頃はかなりのイタズラ坊主だったようです。
桶狭間の戦いでは今川の先陣を務め、義元が殺された日は大高城という城で休養をとっていました。
信長公記というのは、織田信長の側近だった太田牛一と言う人が書いた本で、戦国時代の様子を伝える第一級の史料と言われています。現代語訳が文庫本で出ていて、そこから抜粋したのですが、大雨が降る前から信長の手下が攻撃をしかけていたようです。
家康は、桶狭間で義元が殺されたという連絡を受けたとき、最初は信じなかったそうです。夕方になって親戚の水野信元から早く、岡崎に帰れ、と言われて、それでは、と戻ったようです。
岡崎に戻ったら、岡崎城にいた今川の城代を追い出して、そこに入るのが普通だ、と誰もが思っていたのに、彼はそうしなかった。城代を追い出すということは、今川に叛旗を翻すことになりますが、そんなことは当たり前、というのが当時の常識だったのですね。
家康はなぜ、そうしなかったのか、想像ですが、周りでいうような律義さは、計算はしたかもしれないけど、本当は今川に仕返しされるのが怖かったのではないか、要は慎重だった、ということではないでしょうか。