家康は一族の反乱もからんだ一揆を平定し、三河を統一します。
一揆の発端については、いろいろな説がありますが、結果的には、反家康の家臣を追い出し、松平家の結束を強めることに成功しました。
今川義元が死んだあと、武田は駿河を狙って、家康に言い寄ってきます。家康もそれにのって、遠江(今の静岡県西部)をぶんどります。
この頃、織田信長は東のことは家康に任せて、西に向かい、天下制覇に向けて動き出しています。
信長と家康にとって、武田信玄というのはとてもこわい敵でした。その信玄からすると、北に上杉謙信、東に北条、西に織田・徳川という強敵に囲まれていたわけで、そのときどきで都合の良い同盟を結んで対抗しました。
信長は上洛して足利義昭を15代将軍に就任させます。最初はうまくいっていたのですが、しばらくすると2人の関係は悪化し、義昭は各地の大名に手紙を送って、信長をやっつけるように依頼します。それにのって、まず、動き出したのが、浅井・朝倉と本願寺でした。
義昭の依頼に次に応えたのが信玄でした。たんぼの刈取りが終わった10月に行動を起こし、南下してきました。
武田軍の動きに対して、みんながほっとけ、というのに、なぜか家康は攻撃することを選択します。勝ち目があると思ったかどうかはわかりませんが、戦わなかった時、周囲がどう見るか、を考えたのかもしれません。
しかし、信玄に手玉にとられ、大敗を喫して、城に逃げ込んだときは恐怖のあまり脱糞していたとの話もあります。
このとき、家康は信玄に負けたのですが、仮に勝っていたらどうだったか、NHKの番組である人は、「おそらく信長に殺されたでしょう」と言ってました。
長篠の戦いは、鉄砲を積極的に使い、それまでの戦争の仕方を変えた戦い、と言われていますが、武田軍が鉄砲を使わなかったわけではなく、この頃の戦いで、鉄砲は必ず使われていたようです。ただ、鉄砲はなかなか手に入らなかったし、何より、火薬と玉の入手に苦労しました。信長はいち早く堺をおさえて、これらのものを大量に入手できるようにしました。
信長は桶狭間こそ少数精鋭で奇襲をかけて勝ちましたが、それ以降は物量作戦で相手を圧倒して勝つ、といういくさしかやっていません。とにかく、信長の用兵は弱かったらしいので、数と装備で圧倒しないと勝てなかったということのようです。尾張人は派手好きの性格を反映してもともと戦争に弱かった。人をあてにしない信長らしいやりかたですね。
武田勝頼は武勇には大変優れた人だった、と言われていますが、政治力がなかったのでしょうね。最後の時には家臣はみな離れ、一部の側近の人間だけだったようです。
この信長の凱旋旅行で、家康はものすごい接待をしました。さすがの信長もこの接待攻勢には感激したようで、あとになって家康を安土城や堺に招待しています。
この頃には、信長の天下はほぼ確定しますが、相変わらず、足利義昭による信長攻撃が続きます。信長をそれらを個別に撃破していきます。
ついに義昭は京都から追放され、あちこち流浪したあと、毛利家に世話になります。もう、足利将軍の権威などだれも信じなくなったのでしょう。
そして本能寺の変で信長は殺されます。明智光秀が謀反を起こした原因については、いろいろな説があり、決着していません。家康がからんでいたという説もありますが、私はそれはないと思います。おそらく、複数の原因が、複雑に絡んでいるのでしょう。
家康は堺から岡崎まで驚異的なスピードで戻ります。まだ若かったからできたのでしょうね。
問題は岡崎に戻ってからの行動です。4日か5日に戻って、彼が最初にやったのは、甲斐を確保するための工作でした。光秀討伐の軍を差し向けたのはそのあとで、カッコだけつけた、という感じです。この時点で自分が天下を取る、ということはちらっと思い浮かんだかもしれませんが、それより甲斐信濃を抑えるのが先、というのが彼の判断だったと思います。しばらく、天下は混乱するだろう、と思ったかもしれません。