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1.プロフィール

徳川家康 基本情報

家康は1543年の1月に今の愛知県岡崎市で生まれました。旧暦では12月なのですが、新暦だと翌年の1月になります。普通、数え年と満年齢は1つだけ違うのに、彼の場合は2歳違います。

歴代の徳川将軍の位牌が岡崎の大樹寺にありますが、その位牌の高さが故人の身長だと言われていて、家康の位牌の高さは159cm、つまり彼の身長は159cmでした。現代の男性としては小さいですが、当時としてはこれが大体標準だったようです。信長や秀吉も同じくらいです。 奥さんは正室が2人、側室が20人、こどもは全部で16人。最初の正室は今川義元の家臣の娘でしたが、信長の命で殺され、2番目の正室は豊臣秀吉の妹を秀吉から押しつけられた政略結婚でした。

趣味は、文科系より体育系が得意だったようです。保健衛生について相当博識があり、薬の知識はとても豊富だったし、運動も毎日欠かさなかったようです。なお、死因は胃癌と推定されています。

家康のこどもたち

16人のこどものうち、男は11人女は5人、正室(築山殿)の子は2人だけです。

7人は50,60歳代で生まれていますが、うち4人は成人を待たずに亡くなっています。秀吉が世継ぎで苦労したのを見ていてがんばったのかもしれませんが、年取ってからできた子どもは健康に問題があるのかもしれません。

家康にかぎらず、この時代の嫡男以外のこどもは、他の武将との姻戚関係を結ぶためなどに戦略結婚させられることが多かったようです。

徳川御三家の祖になる3人はすべてこの時代に生まれています。

家康の性格・思想

この3人はよく比較されますが、司馬遼太郎のこの定義がぴったりくるのではないでしょうか。
家康はスキのない高級官僚で、派手さはないけど、慎重、堅実、排他性の強い三河人気質を体現している人だと思います。それと正反対なのが、尾張人で、派手好き、新し物好き、外交的、今でも名古屋では尾張人と三河人は仲が良くないと聞きました。

私が家康の最も優れた能力だとおもうのは、自己統制能力です。気に入らないことがあっても、1回2回は我慢できても何回も続けばどうしても顔に出てしまうのがふつうのおとなでしょうが、家康の我慢強さは図抜けていました。

彼の基本理念というのは、厭離穢土 欣求浄土という言葉です。これは浄土宗の経典か何かにでてくる言葉だそうで、意味は平和を求める、ということのようですが、かれはこれを公式の旗印にする一方で、実は徳川家をいかにして安泰にするか、を常々考えていました。

家康が生きた時代

家康は16世紀半ばに生まれ、17世紀初頭に亡くなりました。この時代はどんな時代だったのでしょう。

日本は足利幕府の権威失墜や農業生産性の向上により地方の力が強くなってきて戦国時代に突入し、優秀な戦国武将をたくさん輩出しましたが、そのなかで最後に勝ち残ったのが家康でした。家康は地理的にも年齢的にも他の戦国武将に比べて有利な立場にありました。

世界(ヨーロッパ)は、ルネッサンスが終わりに近づき、華やかな大航海時代の最盛期を迎えていました。大航海時代の初期に栄えたスペイン、ポルトガルが衰退し始め、かわってイギリス、オランダが力をつけ始めています。それまでの封建制が崩れ、絶対王政による強力な中央集権政権ができ、グローバルな貿易を通して得られた富みは、それらの王様や貴族に集められていきます。

戦国時代の社会変化

技術の進歩によって食料生産が増え、領地の人口が増えた豪族が力をつけていきます。そこへ応仁の乱のような内紛が起こって、中央の権威が失墜すると、豪族はますます強くなっていきました。

戦国時代後期になり、戦争のやり方を大きく変えたのが、鉄砲です。それまでは武芸の訓練をした専門の武士が主体の戦争でしたが、鉄砲は百姓を戦力として使うことができるようにしました。ただ、百姓は農繁期には農業をしなければなりません。これを変えたのが織田信長です。彼は、兵隊を金で雇い、1年間いつでも戦争ができるようにしました。兵隊を雇うための金は楽市楽座や堺の貿易利権を手に入れて確保しました。

日本人の意識として、死を美と考えたり、忠義を大事にしたりする風潮が今でも残っています。だけど、戦国時代は、自分が生き残ることが重要で、そのためには主人も裏切るし、降伏も平気でした。今のような風潮ができたのは、江戸時代中期以降、ヒマになった武士を管理しやすくするためでした。昭和初期にはこれが利用されました。

家康のルーツ

家康のルーツは、長阿弥・徳阿弥と言う名の遊行僧の親子だったようです。徳川家の系図では新田義貞につながる、となっているようですが、家康が征夷大将軍になるときにでっちあげたものであろう、というのが通説です。

松平郷というのは、トヨタの本社から15km、クルマで30分ぐらいのところにあります。たんぼもあまり作れない山奥にあって、貧しい土地だったようですが、次第に領地を広げて、7代目清康のころには三河全域を支配するまでになりました。

しかし、清康が殺され、その子の広忠の時代になると松平家の内紛が表面化し、事実上、駿河の今川家の属国になります。