最近訪問した塔婆・ご提供画像(2008/06/06〜2008/10/09)

過去の訪問塔婆履歴

2008/10/09 備後鞆の浦弁天堂1
  同        2
  同        3
  同        4
鞆の浦弁天島(百貫島)にある。通常は対岸の鞆の浦及び仙酔島への渡船からしか見ることが出来ない。
従って、建築の詳細は不詳、また情報もなく、二層堂なのか二層塔に相当する建築かどうかは不明。
しかしながら、遠望すると少なくとも上層は三間の建築であり、組物も三手先などの複雑なものと思われ、また勾欄を廻らせるなど層塔としての建築である可能性は高いと思われる。
堂は正保元年(1644)鞆町奉行萩野新右衛門により再建と云う。
なを、弁天堂附近に「百貫島物語」として語られる「石造弁天島塔婆」があると云う。元は十一重石塔であったが、五重と六重は欠失し、現在は九重石塔となる。文永8年(1271)の銘があると云う。
2008/10/04 近江雪野山山容
近江雪野寺塔土壇1
  同     土壇2
  同    塔礎石
  同    龍王寺
  同    坊舎跡
○「古代近江の遺跡」:塔と推定講堂跡が確認されている。塔は一辺約13.7mの乱石積基壇で、柱間は約2,4mを測る。塑像片と塔跡北西隅から風鐸2個と破片1個を採取したという。塔礎石5個 が残存すると思われる (あるいは亡失?)。
2007/08/15追加:
○「近江の古代寺院」小笠原 好彦/〔ほか〕、近江の古代寺院刊行会、1989<図版篇を含む>より
竜王山(雪野山)の南西麓に立地し、北と東は山を負い、南と西は平野を望み、南に向かって寺地を採ることは可能、現在の竜王寺と天神社で東西を限る形で雪野寺跡はある。
昭和12年に発掘調査がなされ、現在の知識も当時の報告書以上に出るものはない。
これまでに明らかになったのは塔跡だけであるが、塔基壇一辺は45尺(13.7m)で、石積の低い基壇化粧がある。基壇は中央で5-6mの巾で溝状に貫通破壊され、礎石は東列4列とに西列北2個目の計5個が残存する。残存礎石により塔平面は中央間8尺両脇間7尺を持つ(一辺22尺)であった。
塑像片:今までに約430片が出土という。
金銅風鐸ほぼ完形のもの2個断片1個が塔西北隅付近から出土。
 雪野寺塔跡基壇西区     雪野寺塔跡東南隅     雪野寺塔跡北区     雪野寺塔跡東区
 雪野寺跡出土童子形塑像  雪野寺塔跡出土風鐸
2007/12/24追加:
○「近江の寺址とその出土瓦・心礎と仏像彫刻」:
「凹座心礎か今亡」「上に阿育王式の新しい石塔あり」
 ※心礎についての情報は不明確ではっきりしないが、発掘調査時には既になかったと思われる。
2008/09/19追加:滋賀県埋蔵文化財センター 情報:
○雪野寺の法灯を伝える竜王寺は古くは「野寺」といわれ、「野寺鐘縁起」では、行基による開基で、和銅3年(710)に建立されたとする。
 雪野寺塔跡平面図
○「忘れられた霊場をさぐる[2]」栗東市文化体育振興事業団、平成19年 より
安吉山と号す。天台宗 。現在の龍王寺付近で塔跡が検出され、古代にも塔を備えた寺院であったと推定される。伝承では承暦2年(1078)越前平泉寺衆徒に焼討ちされ廃絶と云う。その後平安 末期に再興され、龍王寺と改号すると伝える。中世には雪野山麓(現竜王寺の東300m)に 移り、多くの坊舎が展開され、今に坊舎跡を残す。中世末にはこれらも興亡を繰り返し次第に衰微したものと思われる。
承応3年(1654)行海によって、現在の龍王寺が再興される。
 近江雪野寺境内概略図
2008/10/04撮影:
写真雪野山山容:西から雪野山を見る、写真中央山裾に雪野寺はある、手前は日野川。
写真塔土壇1:南から撮影、写真土壇2:東から撮影、塔跡はブッシュに覆われる。
写真塔礎石:5個残存と云うも、現在露出しているのは写真の南東隅の礎石のみと思われる。
 なお、「上に阿育王式の新しい石塔あり」とあるが、石塔は今はない。
山上に上る道途中に坊舎跡の形跡を明瞭に見ることが出来る。勿論潅木に覆われてはいる。

雪野寺西方約2kmに苗村神社があり、多くの古建築を残す。(なお雪野寺とは直接な関係はない。)
苗村神社西本宮:右(東)から十禅師社、西本殿、八幡社は拝殿の蔭で見えない。
苗村神社西本殿1:国宝、三間社流造、鎌倉後期と推定。
  同    本殿2
苗村神社十禅師社:重文、一間社流造、室町期と推定。
苗村神社八幡社:重文、一間社流造、室町期と推定。
苗村神社神輿庫:重文、天文5年(1536)建立か、4間×2間・切妻造
苗村神社不動堂:(本尊不動明王立像:重文、鎌倉初期造像と推定。)
苗村神社楼門1:重文、応永年中(1394-)頃と推定、三間一戸楼門入母屋造、茅葺。
  同   楼門2:殆ど寺院建築であると云う印象である。
苗村神社東本殿:重文、一間社流造、室町期(前庭に永享4年・1432在銘の石燈籠がある)

近江宮井廃寺塔土壇1
  同     塔土壇2
  同     塔土壇3
  同    心礎位置
  同      心礎1
  同      心礎2
  同      心礎3
  同      心礎4
  同      心礎5
  同    金堂土壇
  同      礎石
○「古代近江の遺跡」:まわりの水田より一段高く、移動した礎石が散在する天神社境内やその南西の推定塔跡基壇を中心とする寺跡である。
塔跡は一辺12.75m高さ1.5mの基壇が確認(土壇を残すと思われる)され、心礎位置には別の礎石が置かれ、原位置を保つ四天柱礎3個と脇柱礎10個を残す。柱間は2.25m。心礎は天神社に移動し、三段式心礎で、一段目は径114cm、二段目は径71cm、三段目は径18×9cmの孔を穿つ。
天神社境内は金堂跡とされ、そこから瓦積基壇を確認。
その他北方建物・西方建物が確認されている。
2007/08/15追加:
○「近江の古代寺院」小笠原好彦/〔ほか〕、近江の古代寺院刊行会、1989<図版篇を含む>より
「近江蒲生郡史」では「・・字寺内に古寺跡存す。・・畠地中大礎石数個古の儘に現存す本堂跡なるべし。又塔の台石は天神森に存し共附近に鐘楼台跡あり、此地一面布目瓦散乱す。・・・」 とある。
天神社南側入り口附近に花崗岩の心礎が置かれている。神社境内西南30mには塔基壇(一辺13m・高さ2m)と思われる土壇があり、東に2個・南に1個礎石が露出している。
昭和56-58年に発掘調査を実施。その結果、金堂・塔・北方建物・西方建物の基壇と寺域などがほぼ明らかになった。
金堂跡:天神社祠のすぐ北側が該当する。
塔跡:発掘結果、基壇一辺は12,45m(42.5尺)、高さ1.2m(4尺)と判明、礎石は四天柱礎3個(東北欠)、側柱礎10個(南側東第2・東第3欠)が原位置を保つ。心礎位置には大型礎石( 1.12×1.34m・表面には火災痕)が置かれていた。これは根石も見られるが、これは創建時のものではなく、下を断ち割った結果、後に現在の場所に置かれたものと判明した。
 宮井廃寺塔心礎位置の土層
塔心礎は天神社前に置かれている。ほぼ三角形(三辺は2.16m、1.84m、1.58m・厚さ86cm)の花崗岩で、三段式の円孔を持つ。外円は径114×5cmで外側が深くなっている。中円は径71×9cmで底は内湾する。舎利孔は径18×9cm。元は塔基壇の地下に据えられたものと推定される。基壇化粧は全て削られたと思われるも、花崗岩の出土状況から乱石積基壇と推定される。
 近江宮井廃寺心礎     宮井廃寺心礎図     宮井廃寺塔跡土壇
 宮井廃寺塔跡(南から)   宮井廃寺塔跡図
○滋賀県埋蔵文化財センター「滋賀県文化財学習シート」 より
 宮井廃寺心礎
2007/12/24追加:
○「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
 近江宮井廃寺心礎図
2008/10/04撮影:
写真塔土壇:土壇上には塔礎石があると云うも、現状露出はしていない。
写真心礎位置:現在心礎は塔土壇上になく、金堂土壇南方(塔土壇東)にある、位置は写真白丸印。
写真金堂土壇:天神などと云う実態ではなく小祠があるのみ、小祠後方が金堂土壇。
写真礎石:上記の小祠の前方に礎石がある。
「日本の木造塔跡」:心礎の大きさは1.4×1.36m、外円は径95.5cm×5cm(内に向かって底が高くなる)、中円は径70×10cm、内孔(舎利孔)は18×6cm。
近江綺田廃寺遠望
  同  推定塔土壇1
  同  推定塔土壇2
 同  拝殿北側土壇
  同    推定礎石
東近江市綺田町。「古代近江の遺跡」:寺域は栩原(とちはら)神社<稲荷神社>を中心とする。拝殿前後に礎石が遺存し、拝殿南に南北約20m東西十数mの土壇が、その南西に一辺約10mの土壇がある。それぞれ講堂・金堂・塔跡と想定される。出土瓦から白鳳創建で平安期まで存続したとされる。附近から奈良期の瓦が出土し、本願成寺の跡といい、地名の寺町とはこのことに由来する と云う。
2008/10/04撮影;
写真遠望:現在の栩原稲荷神社、北東から撮影。
写真塔土壇、写真北側土壇は推定であって、確定しているものではない。
綺田の集落中に栩原稲荷神社(今はこのように称する)が東西方向に狭くかつ長く(正面は西)鎮座する。土壇の状況は明確ではないが、良く観察すれば、土壇とも推定される微かな高まりが残存する。
拝殿の北側(南ではなく)に土壇南端とも思われる微高地と拝殿南西に土壇北端とも思われる微高地が残る。拝殿南の土壇とは良く分からない。また拝殿前後に礎石が残存すると云うも、礎石様の石は1〜2個を除いて、これも良く分からない。
近江石塔寺三重石塔1
  同         2
  同         3
  同  三重石塔台石
  同    石製宝塔
  同   石製五輪塔1
  同   石製五輪塔2

2007/12/24追加:「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
 近江石塔寺心礎図  7世紀後期の大石塔あり、詳細不明。
2008/10/04撮影:
奈良期の三重石塔を残す。(奈良前期と云う、重文、初重塔身は石材2枚を使用、相輪は後補。 高さ7.6m)創建時にはこの石塔の位置に木造塔婆があったとする見解もある。であるならば石製三重塔台石は塔心礎と推定する見解もあると思われる。
石製宝塔:正安4年(1302)銘、重文。
石製五輪塔2基:嘉元2年(1304)、貞和5年(1349)在銘、ともに重文。
 ※なお天台宗備中玉島山圓乗院に近年当塔をモデルにした三重石塔が建立された。

近江金貝遺跡
建物3遺構(西南より)
建物3遺構(南より)
建物3遺構(東南より)
建物3遺構(北東より)
建物3柱穴(正面中央間)
建物3柱穴(正面中央間)
建物3柱穴1
建物3柱穴2
2008/10プレス発表:近江金貝遺跡で、平安前期の三間社流造の神社本殿と思われる掘立式建物が確認された。三間社流造の最古の遺構は建保7年(1219)の讃岐神谷神社本殿であるが、これより200〜400年前の最古の確認例となる。これまで神社建築は神明造など(掘立式)と三間社流造など(礎石建物)と の2系統に大別されていたが、これで神明造から三間社流造に発展していた可能性が浮上した。
三間社流造復原図:大上直樹大阪人間科学大准教授作成とある。
・・・以上プレス発表はかなりセンセーショナルなものであった。
しかし、一般的には神社関係の由緒・祭神などは、ほぼ100%、近代の天皇教に毒されて入りと思われ、特に慎重に考察しなければならないであろう。
2008/10/04「現地説明会資料」より
建物3はその発掘遺構からみて、「階段で高床の本線に入る、三間社流造の神社本殿である可能性が極めて高い掘立式建物」であろう。
建物3の規模:
南東を正面、約6m×7m。2間×3間の身舎に庇が付く。身舎の柱間は約2m、庇部分は約3m。庇中央2つの柱穴の内側に近接してそれぞれ柱穴がある。これは階(きざはし)の親柱と推定される。
立地:
微高地に立地し、附近には9〜10世紀と推定される多くの建物跡があり、この地は領主の館あるいは施設であったと思われる。建立時期:確定的なものは出土せず、附近の建物時期と同時期であろうと判断するのが最も妥当とされる。
金貝遺跡建物3平断面図: 三間社流造本殿の平面配置とされる。
金貝遺跡主要遺跡平面図:丸数字の建物跡は平成19年度新川発掘調査意で判明した遺跡。
ではなぜ”この場所に”また”この時期(平安前期)に”この建物が出現したのか。明確な説明は出来ないが、附近にある河桁御河辺神社(神崎郡の川桁神社の論社の一つ)の本殿が三間社流造である。当社殿は河桁御河辺神社の前身とは考えられないであろうか。
※しかし、そうだとしても、式内川桁神社は平安初頭に廃絶したという事実が残るだけであろう。なぜ掘立式の三間社流造の社殿であったのかの回答にはならないであろう。
参考:河桁御河辺神社;本殿は三間社流造、慶長15年(1610)再建、境内に延慶4年(1311)在銘の石燈籠(重文)があり、少なくとも中世以降の歴史があるのであろうと推定される。
 →近江金貝遺跡
近江長命寺伽藍1
  同    伽藍2
  同    伽藍3
  同    伽藍4
  同    伽藍5
  同  三重塔01
  同  三重塔02
  同  三重塔03
  同  三重塔04
  同  三重塔05
  同  三重塔06
  同  三重塔07
  同  三重塔08
  同  三重塔09
  同  三重塔10
  同  三重塔11
  同  三重塔12
  同    本堂1
  同    本堂2
  同    本堂3
  同   護摩堂1
  同   護摩堂2
  同    鐘楼1
  同    鐘楼2
再訪:
三重塔は慶長2年(1597)建立。一辺4.85m、高さ24,35m。屋根杮葺。
初重四天柱内に須彌壇を設置、本尊大日如来坐像及び四天王立像を安置。
塔創建は元応2年(1320)佐々木定綱によると伝える、永正13年(1516)焼失。
 寺伝では、武内宿彌当山に登り「寿命長遠諸願成就」の文字を柳の巨木に記し、長寿を祈願したと云い、また聖徳太子が十一面聖観音像を刻み、伽藍を建立すると云う。
承和3年(836)比叡山西塔の別院となる。
永正13年(1516)伊庭氏の兵火により、堂塔を全焼。
大永2年(1522)寺僧の勧進で本堂等伽藍再興、永禄・元亀・天正期の兵乱の戦火の被害は幸いにも免れる。
※但し、元亀4年(1573)信長の兵火により炎上、三重塔などはその後の再興とする記述もある。
元禄5年(1692)の書上げでは、 岩本坊、円明院、妙覚院、修練坊、寳持院、實乗院、眞静院、慈禅坊、教智坊、禅林坊、金乗坊、眞教坊、蓮蔵坊、本行坊、円行坊、善蔵坊、延壽坊、眞蔵坊、宝樹坊の名がある。西国33所31番札所。
 長命寺参詣曼荼羅(長命寺蔵:推定室町期)
・「忘れられた霊場をさぐる[2]」栗東市文化体育振興事業団、平成19年 より
 近江長命寺境内図:参道左右に多くの坊舎跡と明王堂・實光院・禅林院(何れも無住)・眞静院・妙覚院などの坊舎を残す。
・「敏満寺は中世都市か」多賀町教育委員会、サンライズ出版、2006 より
 近江長命寺境内図2:上記と同一図
現在以下の重文建築を有する。(2008/10/04撮影)
本堂:大永4年(1524)再建、重文、7間×6間、入母屋造、檜皮葺。
護摩堂:慶長11年(1606)再建<露盤銘>、重文、方3間、檜皮葺。
鐘楼:慶長13年(1608)再建、重文、入母屋造、檜皮葺。
2000/03/14撮影:画1   画2   画3   画4   画5   画6
2008/10/04撮影:
近江長命寺穀屋寺:山下にある、寺院の経済を担当したと云われる。
  同    妙覚院:宿坊
  同  眞静院石垣   同    眞静院:有住と思われる。
  同  眞静院附近:この附近の石階はまだしっかりするも、中腹はかなり荒れつつある。
  同   廃坊石垣1    同   廃坊石垣2:石階は808段と云う。
  同    禅林院:既に坊舎は廃墟もしくは倒壊と思われる、竹垣で閉じられる。
  同   禅林院窟:禅林院入口横に石窟が残る。
  同   實光院:既に廃墟と思われる。竹垣で閉じられる。
  同   明王堂:既に廃墟と思われる。立ち入りは可能。
  同  明王堂石垣
  同     本坊
  同   廃坊石橋:恐らく實光院の入口を撮影と思われるも、定かではない。
近江阿弥陀寺 近江奥嶋神宮寺
近江成願寺 近江成願寺
2008/09/24 (近江蚊野廃寺)
近江塔ノ塚廃寺土壇
  同      土壇2
  同  心礎様大石1
  同  心礎様大石2
  同  心礎様大石3
  同       礎石
・「X」氏情報:心礎と推定される自然石の礎石を残すも、心礎か否かは不明。
・「古代近江の遺跡」:字「塔ノ塚」の水田中に土壇があった。現在は哺場整備で整備(破壊)されたが、塔跡想定地は公園として残される。礎石と思われる石が残存する。
・滋賀県文化財学習シート(サイト:滋賀県埋蔵文化財センター)より
現状は塔の基壇と推定される土壇のみを残す。発掘調査では法隆寺式伽藍と確認され、当寺に瓦を供給した瓦窯2基が発見される。出土遺物から、白鳳期に創建され、平安期ま で存続したと推定される。
・「現地説明板」:7世紀から10世紀にかけて存続した寺院跡であり、現在田の中に塔基壇を残す。
昭和53年発掘調査され、寺域は方2町であり、溝・門跡・僧坊跡などが明らかにされた。また附近の軽野神社境内に礎石と思われる石が数個残る。なおこの地には古代、蚊野氏の本貫地であった。
・塔基壇と云う基壇上に大石がある。大きさは凡そ150×190×65cm、上面も相当荒い面であるが、この面が柱の据付面とすれば、この面の大きさは凡そ150×150cmを測る(実測)。
確かに、この大岩を心礎とするのは心礎位置から出土したなどの事実がなければ無理であろう。心礎とするには、後世の破壊がないとすれば、あまりに非整形 と思われる。特に軽野神社にある礎石が同一の廃寺のかつ同一の時期の礎石であるならば、その落差は大きすぎる。また直感的に、この大石が白鳳創建時の心礎であることは有り得ないであろうと思われる。但し塔跡に心礎に相応しい大石が存在するのは何かは分からないが、特別な事情があるとも思われる。
礎石:軽野神社にある礎石写真
近江多賀大明神 現在は、鐘楼・不動院遺構(奥書院)・般若院跡などの他には何も見るべきものはない。
多賀大明神
近江敏満寺跡 再訪 近江敏満寺跡
近江満願寺廃寺露盤1
  同         2
  同         3
 同  露盤・推定礎石
長浜市弓削町:
弓削町案内略図弓削観音堂(聖観音)の東に露盤は置かれている。観音堂西は弓削神社( 明治維新までは牛頭天王社)、南は牛頭天王が配置される。さらに東に春日明神がある。
観音堂本尊木造聖観音立像は平安期の作で重文指定と云う。
・滋賀県文化財学習シート(サイト:滋賀県埋蔵文化財センター)より
弓削の観音堂境内に石製露盤及び礎石類を残す。石製露盤の存在から塔の建立が想定されるも、詳細は不詳。出土瓦は白鳳期〜平安期のものとされる。
満願寺とは、集落の南西はずれの小字「万願寺」に因むと云う。「東浅井郡誌」:「大御堂観音ノ古址」:「大御堂観音ノ古址ハ大字弓削ニアリ・・・皇子(聖徳太子)大連(物部守屋)ノ居址ニ據リ伽藍ヲ建立シ自ラ仏像ヲ彫刻シ以テ崇祀シ満願寺ト号ス」とある。
なお近世満願寺跡は弓削町案内略図の下右寄に表示されているように、現存する。
・露盤の大きさは110×112×38cm、貫通円穴;径は凡そ50cm内外と思われる。(貫通円穴と思われる上に礎石と思われる石が乗り、円穴が貫通はどうかは不明であり、加えてその径の実測も不能)
写真露盤3:写真中央に辛うじて「円穴」の縁が見える。
・「幻の塔を求めて西東」:105×105×30cm、径60cm、奈良後期、花崗岩。
近江浅井廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同   礎石(6個)
東浅井郡湖北町今西:集落東にある。
・「幻の塔を求めて西東」:心礎は一重円孔式、大きさは110×110×60cm、径20×5cm、白鳳。円孔は傾斜している。
・寺域は比伎多理神社を中心にした2町四方と推定され、境内に心礎・礎石が散在する。古瓦が採取され、奈良後期の寺院とされる。朝日山と号したとされ、今堂前 (こんどまえ・金堂前)の地名を残す。
「X」氏ご提供画像: 近江浅井廃寺心礎
・「佛教考古學論攷 四 佛塔編」より: 近江浅井廃寺心礎
2008/09/29:
・「東淺井郡史」より:「弘仁年中伝教大師此処に来り、比伎多理神社の傍らに一刹を建立し、朝日山淺井寺と号す。七堂伽藍を備はりし寺院にして比伎多理神社の別当たり・・・・文亀年中山徒争乱の際寺領没収せられ継いで回禄の災に罹り・・・衰微す・・・ 」
・心礎は比伎多理神社境内にあり附近には礎石と思われる石が散在する。
なお比伎多理神社とは明治維新の時延喜式内社に付会した社名(要するにインチキ)で、本来は山王十禅師社であった。境内には多くの礎石と思われる石を残す。
心礎実測値:大きさは120×110×凡そ60cm、上面に径18×6cmの孔を穿つ。
近江法道寺跡心礎1
  同        2
  同        3
 同 心礎4(現下面)
近江法道寺跡観音堂
法道寺跡観音堂鬼瓦銘
東浅井郡湖北町津里:
・「幻の塔を求めて西東」:心礎は一重円孔式、180×140×45cm、径22×14cm、白鳳、裏返しになっている。
・「X」氏情報:津里集落中心の観音堂入り口付近にある。赤茶の巨石が裏返しになっている。年輩の方のお話によると、溝に橋として架けられていた。子供のころ遊びで下から礎石を覗いたことがあり、穴が開いていたようであったとのこと。現状隙間から覗いても、表面の様子は全く分からない。
「X」氏ご提供画像 近江法道寺心礎
2008/09/29:
・心礎は確かに裏返しになっていて、心礎かどうかの確認は不能。
津里の東にある観音堂を中心とした方1町半が寺域と推定されている。法道寺とは応和元年(961)の妙香院荘園目録にこの寺名が見えると云う。
津里の観音堂は現在屋根葺替中で瓦は全部降ろされ、大工棟梁が屋根裏の工事中であった。
葺替中屋根の工事大工棟梁談:観音堂向かって右の溝の石梁として確かにあった。孔についてははっきりした記憶はないが、小孔があるとは聞いたことはある。現在「裏返し」になっているのが本来の設置方法でないならば、再度裏返すことを検討しよう。重さはどれくらいだろうか。(これは三脚による石のつり上げが可能かどうかの意)なんとか試みて見よう。」
※後段の心礎再裏返しの遂行についての話は、本気かどうかは不明、しかし全くの口先だけの話とも思われず、ある日実現している可能性が無きにしもあらずと密かに期待する。
観音堂の建築時期については、鬼瓦年記や、様式上から江戸後期の建築と思われる。
鬼瓦年記:文化11年(1814)、天保4年(1833)製を昭和35年再造したと推定される瓦などがある。
図4(現下面):現在の下面(本来の上面)を撮影するも、孔などを見ることはできない。
近江浄明寺塔跡 木之本町大音:
・現地案内板(大音区賤ヶ岳観光協会):「X」氏撮影:によると、「小字<塔の尾>にあり、浄明寺(廃寺)の西塔跡と伝える。 現在も地下に基礎の石が残っている。三重塔であった。」と云う。
三重塔とする根拠は不明。地下には礎石もしくは地覆石などの類が残っていると云うも不詳。
「X」氏ご提供画像近江浄明寺西塔跡    近江浄明寺西塔説明板
・2008/09/29:
浄明寺については不詳であるも、現地説明板を要約すると以下のようになる。
浄明寺は弘仁3年(816)弘法大師によって開かれたと伝える。古は大門を中心に西に西塔・西光寺・長久庵・堂角寺が、東には東塔・東光寺・天正寺・神宮寺が立ち並んでいたと云う。
天正11年(1583)賤ヶ岳の兵火で焼失と伝承する。
現在は大門跡に大日如来を祀る近世の大日堂の小宇1宇のみを残す。
 大音区史跡名勝案内図(現地)
 近江浄明寺大門:民家などの密集する狭い大音集落中央に唐突に広い道路(参道)が出現する。この附近を大門と云う。正面中央に大日堂がある。右(東)中央の屋根が誓海寺。
 近江浄明寺大日堂
地元民の話:
大日堂大日如来は西塔本尊であったと云う。
発掘調査は実施されていない。字塔尾と伝承されている。礎石等が有るかどうかは知らない。
字塔尾にあった礎石は誓海寺鐘楼の基壇の石に転用したとの話がある。
 ※この転用石は良く分からない。
 大音誓海寺鐘楼:礎石とほぼ断定できる石は存在しないと思われる。
・伊香郡史(明治36年):伊香具村大日堂(大音)では:
「大日堂ハ古昔天台宗盛ナル時字塔尾ト称スル地ニ一大刹那アリテ其塔ノ仏ナリト云フ元亀年中織田氏ノ為ニ堂宇其他ノ建物ヲ焼カレシモ幸ニ該仏像ハ火難ヲ免レ其後慶長年中字大日ニ堂宇ヲ再建シ仏像ヲ遷セリ・・・明治24年古器宝物取調ニ付・・・鑑査状ヲ得タリ・・大日坐像木丈2尺9寸5分・・・」とある。
・大門東に誓海寺(現大谷派)があり、元は空海創建と云う。久安年中(1145-)焼失し、この時焼失を免れた大日尊が現大日堂本尊と云う。西にある西光寺(現曹洞宗)はもと天台宗と云う。
 ※大刹であったと云う浄明寺の実態あるいは西塔の実態は依然として不明。
2008/09/11 山城相国寺 再訪 山城相国寺
2008/08/31 河内叡福寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同      金堂
  同      廟所
再訪 河内叡福寺
大和法起寺 大和法起寺三重塔・法起寺心礎 三重塔:再訪、塔心礎:初見
大和法輪寺 大和法輪寺 再訪。
大和中宮寺跡 再訪:
中宮寺跡は現中宮寺の東方約500mの所にある。
数次にわたる字発掘調査の結果、遺跡の保存状態はあまり良好ではないが、塔及び金堂跡を確認する。塔の基壇は一辺約13.5m、塔の一辺は6.8mと判明。基壇中央には約 2.5mの地下に花崗岩製の塔心礎石が残存する。(脇柱は既に抜き取られていた。)出土瓦から飛鳥から室町まで存続したと推定される。伽藍は四天王寺式伽藍配置と判明 する。
2008/08/31追加:
現在、塔及び金堂跡土壇の発掘調査準備に着手、塔・金堂土壇上の樹木が伐採されている。
 大和中宮寺跡土壇1:北東から撮影:右が金堂土壇・左が塔土壇
   同        2:東から撮影:右が金堂土壇・左が塔土壇で両土壇は繫がっている。
  同 金堂跡露出礎石1    同 金堂跡露出礎石2
   同    発掘図:塔と金堂は南北に一直線に並び、
              かつ堂塔の間は極端に狭いことが見て取れる。
なお心礎発掘時、心礎上面から金環・金糸・金延板小片・玉類の埋納物が発見されると云う。
○「日本の木造塔跡」:心礎(花崗岩製の柩形の切石)は1.7×1.4×0.6mで、柱穴・舎利孔などの加工はなく、上部がわずかに高くなっていたとされる。 なお心柱や根巻板は腐食していたが、心柱径は82〜70cmと推定されたという。
○「仏教考古学講座 第2巻 寺院」石田茂作館宗監修 雄山閣 1984年より:
 中宮寺心礎と根巻粘土
○「飛鳥時代寺院址の研究」より:
東西65尺南北120尺の土壇を残す。明治41年に礎石が掘り出され、小泉村中沢氏に売却されたという(礎石は現存)。
 大和中宮寺現況  大和中宮寺土壇実測図
画像:土壇の南東附近
大和加守廃寺
 加守廃寺塔土壇遠望
   同   塔土壇1
   同   塔土壇2
   同   塔土壇3
塔跡 初見。
○「加守廃寺の発掘調査」近江俊秀(「佛教藝術 vol.235」、1997所収)
この廃寺は「薬師寺縁起」でいう大津皇子鎮魂のため建立されたとされる加守寺(掃守寺、竜峯寺とも云う)であろうと云う。加守廃寺は二上山の尾根を挟んで 南遺跡(加守神社の周辺)と北遺跡(塔土壇)とがある。北遺跡では塔及びそれを囲む廻廊が検出され る。塔基壇は凝灰岩製の壇上積基壇で、犬走を伴う。但し基壇の大半は既に削平されていた。回廊は塔の西側と南側で礎石(自然石)及び礎石抜取り穴が確認され、塔を取囲むものであったとされる。また残存する土壇を断ち割ると、流紋岩製の円形造り出しを持つ2個の礎石が出土した。
 加守廃寺塔跡発掘図
 塔基壇地覆石・犬走り(南から)    加守廃寺出土礎石
南遺跡では発掘により長六角堂跡が検出され、 これは大津皇子の供養堂説とも推定する説もある。
○「奈良県史 第6巻」:
葛木倭文坐天羽雷命神社西北。池の畔の四天王堂付近で瓦を出土し、礎石が残る。(南遺跡)
塔心礎は教善寺(本願寺派)に、金堂礎石は當麻寺護念院に移されている。
○2008/05/29追加:大和上代寺院志」保井芳太郎 より:
當麻寺中之坊に古図があり、ここには加守附近に三層の塔婆を描き掃守龍峯寺と記すと云う。
遺跡所在地の旧名をトンタニと称するのは「塔谷」の転訛で、龍峯寺の塔跡ではないだろうか。
「薬師寺縁記」では大津皇子の事蹟が述べられる。即ち
大津皇子世を厭い、不多神山に籠る、・・・(大津皇子は悪龍・悪霊と化し、謀殺される)・・・悪龍永諾、仍皇子の為に墓を建て、名付けて龍峯寺と云う、寺は葛下郡に在る、掃守寺是也・・・・とある。
この寺跡はこの龍峯寺(掃守寺)であろうか。いずれにせよ加守神社附近、トンタニ附近一帯が龍峯寺(掃守寺)であろう。
礎石について、當麻寺護念院に手水鉢として利用されている礎石がある、その側面には「天明9年・・・、達司代之モラウ 加守金堂柱礎石」と彫られている。一見心礎と見えるも、孔が小さくやはり金堂の礎石に多少手をいれたものであろう。
加守教善寺にある礎石は出所不明であるが、加守寺から移した可能性もある礎石で、塔の心礎であろう。
 大和加守廃寺跡図:字「トンダニ」に半壊した塔土壇が残る。
  この図は「奈良県史蹟勝地調査報告書第ニ」(天沼俊一)にある。同書では「水田中に凡そ23尺高さ凡そ4尺の土塊あり礎石1個半ば地中に埋もれて存す」「奈良時代前期の瓦を出土する」
◎推定加守廃寺心礎
付近の教善寺本堂前に心礎と思われる石がある。庭石として転用され、いずれの廃寺のものなのかは不明なれども、加守廃寺心礎の可能性が高いとされる。
○「幻の塔を求めて西東」:心礎は110×95×47cmで、径37×5cmの孔を穿つ。白鳳期。
図1  図2  図3:図1〜3は在教善寺心礎
大和朝妻廃寺心礎 大和朝妻廃寺
飛鳥資料館
大和山田寺模造心礎1
  同         2
  同         3
  同         4
大和法輪寺模造心礎1
  同         2
  同         3
  同         4
大和奥山久米寺講堂礎石
いずれも「飛鳥資料館」庭に展示
大和山田寺心礎、大和法輪寺心礎は模造品
奥山久米寺講堂礎石は現地より運び込んだと思われる礎石
大和塔の宮廃寺塔跡 再訪。
大和古市廃寺出土瓦 再訪。
「古市廃寺の発掘調査」中井公(「佛教藝術 vol.235」、1997所収)
古市小学校東北のごく低い丘陵地に位置する。案内板など皆無のため、位置は非常に分かり難い。
図1:古市廃寺遺跡図(1990、1989調査発掘区位置図)、低丘陵地に推定塔土壇と金堂土壇を残す。(かっては畑地であったが、現在では竹薮となる。) 図2:西から廃寺跡の低丘陵を撮影。
現状塔跡とされる土壇らしき高まり<図3>は荒れた竹薮の中にあり、金堂跡とされる土壇は耕作を放棄した(荒れた)果樹園にある (と地形から判断)。金堂跡(7間6間の堂跡)には礎石が若干残存すると云うも、荒地のため発見出来ず。(あるいは金堂跡の想定を誤っている可能性もあり。)
1960年に発掘調査がなされ、南面する四天王寺式伽藍配置の寺院と判明する。塔は一辺13mと推定され、盛土は上下2層(その間隔は約1m)からなる。金堂規模は約30×20mで、桁行7間×梁間7間の平面規模で、柱間は3.7mと判明。3箇所で凝灰岩製礎石を確認、礎石は一辺75cmの正方形で径70cmの柱座を持つ。塔・金堂址からは瓦をはじめ大量に出土品があった。
 古市廃寺金堂平面図   古市廃寺金堂礎石実測図:図中の記号ABCは平面図のABCに対応
1989年には住宅建築で図1の塔跡西南部分が発掘されここでは大規模の掘立式建物跡および多量の瓦が発掘された。(回廊跡などの形跡は認められない。)
現状では、中門・回廊・講堂などが発掘され確認された訳ではなく、塔跡とする根拠も金堂跡とされる土壇の南に位置し、土壇が方約13mであるということだけが根拠と思われる。 依然として全容は不明のままと云わざるを得ないであろう。
○塔跡南西の田圃で耕作している人の談:「以前はこのあたり一帯は松林だった。この田圃を開墾したとき大量の瓦が出てきた。軒丸瓦もあり自宅に今も保存している。この田圃は多分寺院の築地が巡っていた場所だろうと思われる」 。
 なお瓦は飛鳥(但し1点のみ)−奈良−平安のものが出土すると云う。部分的な発掘調査の結果あるいは現地の地形などから勘案して、本格的な四天王寺式伽藍があった可能性は低いと思われる。
○2008/08/31撮影: 大和古市廃寺出土瓦
廃寺跡低丘陵の南麓の住人の談:この附近一体が廃寺跡である。今も瓦を出土する。廃寺の南西角の宅地から礎石が出土した。多くの瓦の出土を見るが、その一例として軒丸瓦と布目瓦が 今。写真はこの軒丸瓦・布目瓦を撮影。なお丘上の金堂・塔跡とされるところは以前は畑であったが、今は竹林になっている。
2008/07/01 播磨満願寺心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同     跡地
「古代寺院からみた播磨」:
▲唯一の遺構として心礎が残存する。心礎は満願寺跡北側の常徳寺の手水として改変される。約3分1が欠損していると推定されるが、1.55m×1.1m×70cmで径32 cm深さ18cmの孔があり、周囲に径80Cmの環溝がある。心礎の元位置は長尾廃寺南方約 700mの地点とされる。▲
満願寺については良く分からないが、「平安期には当地は上万願寺村と称し豪族満願寺氏が支配していた」とされる。その後「大朴玄素開基の如意輪山満願寺を建立し、赤松氏全盛の頃は大いに栄えていた」とも云う。おそらく古代この地の豪族が寺院を建立し、平安期までこの地を支配したと思われる。中世には赤松氏が支配し、古代寺院は如意輪山満願寺として復興するも、赤松氏の没落とともに寺院も廃絶したのであろうか。現在伝満願寺跡には大銀杏のみが残存し、その他のことは一切不明。
なお心礎には円孔より幅20cmで繋いだ55×29cmの方形孔があるが、これは手水として転用の時に新しく穿ったものと推定される。
播磨長尾廃寺塔跡
  同     心礎1
  同     心礎2
  同     心礎3
  同     心礎4
  同     心礎5
 同  塔跡推定礎石
 同 塔礎石(在高校)
「古代寺院からみた播磨」:
▲字「塔の石」にある。昭和63年・平成元年の発掘調査で、塔基壇、金堂基壇、西築地、中門を確認。塔基壇は1辺約11 mで、東8mに金堂基壇がある。7世紀末〜10世紀後半までの瓦が出土。心礎は残存。礎石3個は作用高校の前庭に保存。 北方350mの長楽庵には宝光山鶏旭寺とする縁起がある。▲
 心礎の大きさは一辺およそ1.7mの自然石、上面に径100cmの円形柱座を彫り出し、径38cmと径11cmの円孔を穿つ。深さは柱座より12cmを測る。この心礎は昭和初期に掘り出され売却されようとするも、保存された経緯を持つという。寺院は宝光山鶏旭寺と伝えるも、不詳。 なお塔跡基壇には礎石と推定される石が数個残存する。
「日本の木造塔跡」:
大きさは2.3m×2.19m、径100×1cmの円形柱座を造り出し、中央に径38×6cmと径11×4cmの円孔を2段に穿つ。
播磨長尾廃寺発掘調査図:作用高校より入手(調査報告の複写と推定)
播磨早瀬廃寺俯瞰
  同     塔土壇
  同     心礎1
  同     心礎2
  同     心礎3
  同     心礎4
  同     心礎5
「古代寺院からみた播磨」:
▲塔心礎が現存。原位置と思われる。 大きさは2.0m×1.8m×55cmで、径18cm深さ8cmの孔がある。8世紀初頭の瓦を出土。心礎や瓦以外の遺物・遺構は不明。▲
「日本の木造塔跡」:
大きさは1,8×1.5mで、やや中心を外して径28×6cmの円孔を彫る。寺院は白山満願寺と称したとの伝承がある。
心礎実測値:大きさはおよそ190×150cm、円孔は径およそ17×深さ8cm。
現地には畑および人家の中に半壊状態の塔土壇と思われる高まりとその隅に心礎を残す。すぐ背後には急斜面の丘が迫り、丘上には白山権現が鎮座する。白山満願寺の鎮守であろうと推測される。
早瀬廃寺俯瞰:北側の白山権現参道途中から撮影、写真中央民家に多少隠れた独立樹の根元に心礎がある。
塔土壇:南やや東から撮影、独立樹の根元に心礎がある。
播磨新宿廃寺跡土壇1
  同         2
  同         3
  同         4
  同       礎石
「古代寺院からみた播磨」:
▲昭和37年の簡単な発掘で、塔の側柱礎石3個を検出。同時に7世紀末〜8世紀初めの瓦が出土。付近に塔垣内などの字を残す。その他の遺構は未検出。▲
現地には土壇が残存し、その土壇は(自明のように)塔跡とされていると思われるが、塔跡とする根拠は不明。 (あるいはこの土壇の字が塔垣内であるのかも知れないが不明)
播磨高蔵寺三重塔跡1 再訪、播磨高蔵寺三重塔跡
播磨越部廃寺跡 「古代寺院からみた播磨」:
▲薬師堂の土壇(東西 12m、南北10m)は塔跡の可能性が高い。また薬師堂礎石には巨大な礎石が転用される。詳細は不明。7世紀末−8世紀初頭の瓦が出土。▲
 但し、この薬師堂土壇が塔跡である確証がある訳ではない。
越部廃寺調査地周辺図▲:薬師堂礎石、祠中地蔵尊台石、手水鉢、土壇上、土壇東石組などに多くの礎石(推定)が残存する。
薬師堂内には古代寺院の仏像と推定される天部(相当腐朽)が安置されると云う。
越部廃寺薬師堂土壇正面:土壇東面土止(写真左)として推定礎石が並べられる。
  同  薬師堂南側面:推定礎石が散在する。
  同      手水鉢:推定礎石の内で最も大型のものと思われる。心礎の可能性もあり?。
  同    推定礎石1:薬師堂南側面の沓脱に転用。
  同    推定礎石2:薬師堂北東隅の転用推定礎石。
  同    推定礎石3:薬師堂土壇南東隅の推定礎石。
2008/06/30 備中神遊山遍照院寺中 備中神遊山遍照院旧寺中金剛院
備中圓乗院三重石塔1
  同    三重石塔2
 (塔婆参考資料)
平成14年完成、近江石塔寺三重石塔(重文)をモデルとする。総高6.2m。花崗岩製。大型石塔。
 ※石塔寺三重石塔(阿育王塔):奈良前期建立、総高7.6m。
天台宗、玉島山と号する。
2008/06/29 備前西光寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同      楼門
昭和50年(1975)建立。 一辺 3.38m。木造丹塗、純和様の様式からなる。屋根本瓦葺、金剛界大日如来安置。 心柱は基壇の礎石上には降りていない。
塔は西光寺裏の丘上にある。西光寺中興400年の記念事業の一環として建立。誓願の塔と称する。地下霊堂は位牌堂とする。
王子山蓮華院と号する。弘安年中(1278-)に鹿島に創建されたという。(鹿島明神の神宮寺であったとの説もある。)一方慶長年中に中興されたともいう。
小豆島88所第58番札所。
 ※小豆島は現在香川県(小豆郡)に属する。
小豆島88所札所 小豆島88所札所:第62番:大乗殿、第63番:蓮華庵 等
備中不動院遠望
備中不動院陶製五重塔1
  同           2
  同           3
  同           4
 (塔婆参考資料)
不動院五重塔:大原焼陶製、高さ約3m、明治4年建立。妹尾石平・俊男の両名の作。
塔石積基壇の前に「安原房吉夫婦供養塔」との碑がある。
※大原焼は奈良期より続くこの地の伝統的な焼物で基本的には土師器系の軟質の焼物。
里庄町新庄。
不動院:高野山真言宗、寛文5年備前藩の寺院整理で、里見霊山寺が廃寺、同寺智算和尚は当地に移住、元禄6年不動院を開基建立。本尊は不空羂索観音、文政7年備前瑜伽山より瑜伽大権現を勧請、現存する。
2008/06/28 播磨與井廃寺 播磨與井廃寺
備前幡多廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同     礎石1
  同     礎石2
  同     礎石3
再訪
備前賞田廃寺 備前賞田廃寺
備前脇田山相輪橖 報恩大師開基備前48寺:備前脇田山安養寺、備前脇田山安養寺相輪橖
 (附:報恩大師開基備前48寺:9.湯迫山浄土寺)
備前高野山
 吉備別院二重塔
喪失塔婆:備前吉備別院二重塔
2008/06/14 大和興福寺五重塔 再訪、大和興福寺
2008/06/06 尾張萬徳寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
  同       13
  同       14
  同    鎮守社1
  同    鎮守社2
  同    鎮守社3
  同    鎮守社4
再訪

◇室町中後期建立。尾張性海寺塔婆をモデルにしたと推定されている。
一辺3.63m。
◇萬徳寺は寺伝では奈良期創建という。建長6年(1254)後深草天皇の勅願で常円上人が中興。以来尾張真言宗の中心として繁栄する。
多宝塔横に鎮守社(室町・重文)がある。
尾張名所図会 後編巻之1より
記事:「真言宗。醍醐報恩院の流派。宝塔(稽文会の作の大日如来の像を安置す。これ常円上人の異人より授かりし霊仏なり)」  全     図   部  分 図
◇附録:尾張大国霊社
万徳寺西約1kmにある。明治の神仏分離まで威徳院(元尾張国分寺の一坊・恩徳寺)および大日坊(儺追堂・本尊本地大日如来)が境内に あり管理に与る。明治の神仏分離で両院は廃寺・還俗、岩田氏を名乗り、什宝は萬徳寺に移されると云う。
拝殿(江戸初期、切妻造・妻入り、重文)及び楼門(室町初頭の建立と推定、正保3年<1646>の大修理で上部を改造、重文)を残す。
尾張大国霊社拝殿1     同     拝殿2    同     楼門1     同     楼門2
尾張性海寺 再訪 尾張性海寺多宝塔・宝塔・塔心礎
尾張光円寺三重塔11
  同        12
  同        13
  同        14
  同        15
  同        16
  同        17
  同        18
  同        19
平成19年建立、(内部構造は不明ながら)伝統様の正規の木造建築と思われる。
規模は不明であるが、中型から大型に属する塔と思われる。
側柱は欅で、柱以外の用材は檜を用いる。全て素木のまま。印象的には各重の逓減が小さく、また相輪も短く(現状の倍近くは欲しい)鈍重感は否めない。
本尊;阿弥陀如来を祀ると云う。
光圓寺(中川区富田町万場)は臥龍山と号す。元は天台宗医王山瑠璃光院薬師寺と号するも、嘉禄元年(1225)一向宗(現大谷派)に転宗すると云う。
2008/02/10「X」氏撮影画像:
 尾張光圓寺三重塔1     同         2
尾張浄福寺三重塔11
  同        12
  同        13
  同        14
  同        15
  同        16
  同        17
  同        18
  同        19
  同        20
平成16年建立。一辺約2.8m、高さ不明。
構造は不明ながら、木造建築(総檜)と思われる。但し地長押は御影石で代替する。
初重正面中央間は桟唐戸、正面以外は盲目連子窓、脇間は塗壁。
小型塔で、そのため脇間は極端に狭く、塗壁とする。(初重中央間128cm、両脇間78cm<芯芯間は73.5cm>を測る。一辺284cm)
基本的に和様の意匠ですが、組物は出組(小型塔の故か)とし、軒は二重繁垂木。屋根は銅板葺。松井建設請負。
浄福寺(名古屋市中川区高畑)は浄土真宗大谷派。
寺地の西に(道路を隔てて)たかばた保育園、浄福寺(旧庫裏などと思われる)、さらにその西に隣接して神明社があり、神明社は不明ながら、これ等は全て浄福寺の境内と考えられ る。現在、塔・本堂・庫裏が狭い境内に建立されているが(写真11)、これは新に購入した土地に新築さいたものと推測される。
2007/09/15「X」氏撮影画像:
 尾張浄福寺三重塔1     同        2     同        3
尾張荒子観音多宝塔11
  同         12
  同         13
  同         14
  同         15
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  同         17
  同         18
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  同         20
  同         21
  同         22
  同         23
  同         24
  同         25
  同         26
再訪
尾張福生院六角宝塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
六角宝塔:建立時期不明、六角二重塔で、六角一辺66cm、初重差渡115cm、屋外小型塔。
木造総檜で、きちっとした造作と思われる。
上重には薬師如来、下重には各種守り本尊(仏像)を祀る。
福生院(毘沙門天) :真言宗智山派、如意山と号す。至徳3年(1386)順誉上人、愛知郡中村に大聖歓喜天を祀るのが始まりと云う。元和3年(1617)現地に移転する。昭和20年空襲にて焼失。
名古屋の問屋街にあり、狭い境内に小堂宇が犇き、多くの流行仏、考えられる限りの現世利益成就仏が祀られる。六角宝塔もその一つである。
尾張興正寺 五重塔11
  同        12
  同        13
  同        14
  同        15
  同        16
  同        17
  同        18
  同        19

尾張興正寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
再訪

 

興正寺多宝塔:
2003年建立、構造:RC造(一部S造)、延床面積:607平方m。(かなり大型)
「圓照堂」と称し、地下1.2階は永代供養納骨堂と云う。
おそらく床面積を広く採るほうが、収益を多くあげられるので(推測)、立面的に見て相当程度異形(上から圧縮し潰れた形)であると思われる。
またRC造としては当然と思われる大雑把な造作で、「永代供養納骨堂」であるならば、無理に多宝塔形式にする必要もないとも思われる。
設計監理:(株)浦野設計、施工;(株)鴻池組名古屋支店

三河文護寺心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
  同       7
  同       8
  同 心礎排水孔
  同 心礎実測図
三河隋應院山門
  同    参道
  同 寺中浄土院
心礎が「随応院」境内に残存する。寺跡から出土という丸瓦・平瓦が各1点伝えられている。
○「幻の塔を求めて西東」:心礎は2重円孔式、160×150×60cmで、90/85×10cmの円穴と方11×1cmの方孔を穿つ、白鳳。
勧学院文護寺は遺物の散布状況・心礎の現存・随応院所蔵の布目瓦などから、現在の随応院境内附近にあったということと創建は奈良期であると推定される。
随応院縁起では、
長享2年(1488)寺部城主鈴木重時、加茂郡力石村浄土宗極楽山浄土院不遠寺<文明11年(1479)創建>を、当地の勧学院文護寺跡に移転したとする。
 ※つまりは中世随応院が現地に移転する頃まで、古代寺院勧学院文護寺の存在は知られていたと推定される。
慶長13年(1613)尾張藩付家老渡辺半蔵守綱が14,000石にて寺部城に入府、不遠寺を菩提寺とする。
承応元年(1652)三代渡辺治綱、亡母随応院殿33回忌を営み、院号を随応院と改め、極楽山随応院不遠寺と改号する。現在、江戸期の本堂、中門、経蔵 、塔頭浄土院等を残す。
 ※浄土院は大正15年塔頭受頭院(大永3年創建、合併後寺号は安城市に移す。)と浄善院(天正6年創建)とを合併して成立、長い参道東に現存する。
○「寺部城跡・寺部城関連遺跡・勧学院文護寺跡 (豊田市埋蔵文化財発掘調査報告書)」豊田市教育委員会、2006.3 より:
「豊田市埋蔵文化財調査集報 第6集 寺院址」1978の記録;礎石は現在「イボ神様」(礎石に溜まった水でイボを洗うとイボがとれる)と呼ばれる。礎石の大きさは140×140cmのほぼ矩形をなし、礎石上面は平坦で、東西径90cm、南北径は推定85cm、深さ10cmの柱座がある。(柱穴は西側がホタテ貝式に若干膨らむ形状)また西側に偏った位置に方11cm深さ7cmの舎利孔がある。なお柱座北側に排水用の小孔を穿つも、当初からのものかどうかは不明。礎石が原位置を保つかどうかも不明。 心礎には「阿弥陀佛」名号碑が建てられている。

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