播 磨 高 蔵 寺 ・ 山 城 三 室 戸 寺 三 重 塔

播磨高蔵寺・山城三室戸寺三重塔

播磨高蔵寺三重塔跡

  播磨高蔵寺は佐用郡三日月町の小高い山中にある。
山門を入り左手に本堂・森家御霊屋・薬師堂・鐘楼などがあり、山門正面に客殿(方丈)・庫裏などがある。
本堂に向かって左手に裏山に登る道があり、このつづら折の道を数十m登ると、途中に平坦地があり、ここにフェンスに囲まれた貯水棟(寺院の説明)があり、この貯水棟の裏側 (下記写真6参照)に、三重塔跡が現存する。
 下掲載「播磨高蔵寺絵図」を参照。

2003/12/31撮影:
 三重塔跡は既に潅木に覆われるが、明瞭に土壇を残す。
土壇の一辺(上辺)は約3.9mで、高さは30cm内外を測る。
 :<実測>

播磨高蔵寺三重塔跡1(塔亀腹跡)
播磨高蔵寺三重塔2(左図拡大図)
播磨高蔵寺三重塔3(西面亀腹)
播磨高蔵寺三重塔4(土壇上礎石)
播磨高蔵寺三重塔5(亀腹隅・石柱・礎石)
播磨高蔵寺三重塔6(貯水棟で写真右奥が三重塔跡)
   小雨の中で写真はやや不鮮明。

 この土壇は一辺約3.9mを測るが、山城三室戸寺に残る塔の一辺2.72mから判断して、基壇ではなくて、塔の亀腹と思われる。
礎石は土壇上には1個の自然石(川原石)のみが残存する。周囲には束石があったと思われるも確認は出来ない。
さらに土壇上の礎石とは別に礎石と思われる石(川原石)が土壇外に2個ほど転落して残存する。
 ※但しこれ等の川原石が礎石かどうかは不明。
なお土壇上にはかなり多くの、礎石抜取り穴と思われる穴が残り、礎石は近年に抜き取られた可能性もあると思われる。
2008/07/01撮影:
 播磨高蔵寺三重塔跡11:西面、西より撮影
 播磨高蔵寺三重塔跡12:西面、南より撮影
 播磨高蔵寺三重塔跡13:東面及び南面(南面は写真左)、東より撮影
 播磨高蔵寺三重塔跡14:南東隅(写真のほぼ中央)、写真左上隅:転落(推定)礎石、中央やや左下:「金毘羅大権現五千度供■塚」碑、
                右端やや上:(推定)礎石

なお土壇に接して、正面に「金毘羅大権現五千度供■塚」<■は判読できず>、側面に「文政8年」と刻印した石角柱(上記写真にも写っている)が建つ、その位置は塔の縁とかぶり、またその銘からも、本来塔と関係があるものとは思えない。
おそらく塔が撤去された後に移設されたものと思われるが、よく分からない。

三重塔は中興仁可上人が元禄年中の堂宇再興時に発願、大檀那下本郷中村の中村作右衛門の寄進を得て、作州の大工楢本源右衛門の請負で元禄17年(1704)竣工と云う。塔本尊は大日如来。

◆高蔵寺略歴:
 高蔵寺は済露山と号する。神亀2年(725)行基の創建とし、本尊千手観音像は行基作と伝える。真言宗御室派。
後醍醐天皇は隠岐配流の時、当寺に立ち寄り、建武中興後千手堂を修補したと云う。その後戦火で焼失。
応安2年(1369)赤松覚祐が千手堂・宝塔を再興。弘治2年(1556)堂舎を焼失。
弘治3年千手堂のみ再建、その後仁可上人(中興とされる)の代・元禄年中に大師堂再建、森家の菩提寺となり、宝永7年(1710)堂宇の再建が成就する。本堂・三重塔・大師堂・開山堂・御影堂など の存在が知られる。
その後も三日月藩(1万5千石)森家の菩提寺であり、津山藩初代森忠政、三日月藩初代森長俊以下歴代三日月藩主の御霊を祀る。
 ※三日月藩は、元禄10年(1697)津山藩森家の改易により、分家森長俊が三日月の地に移封されたことにより始まる。

 高蔵寺全景
2008/07/01撮影:
 播磨高蔵寺全景2
 播磨高蔵寺本堂: 本尊は千手観音坐像を安置、左は鐘楼、右は御霊堂
 播磨高蔵寺御霊堂:森家御霊屋、内部中央上檀に藩祖森対馬守長俊の木造を安置し、左右には歴代藩主や一族の位牌が並ぶと云う。
 播磨高蔵寺方丈

明治維新後、おそらく塔の維持管理に困窮し、塔を放出したものと思われる。
○2012/08/13追加:「三日月町史 第4巻 史跡」三日月町史編集委員会編、昭和41年 より
この塔は元禄17年(1704)竣工、明治になって破損がひどく、大檀那中村家では明治17年田を8畝ほど営繕に寄附するも、その後維持困難となり、明治44年金500圓で宇治三室戸寺に売却する。
「いまその図面が乃井野八幡神社の拝殿に」あると云う。
 ※その図面とは塔の図面であろうが、未見。
なお、中村(仲村)家には今の和銅の塔棟札を残すと云う。

2006/11/30:「Y」氏ご提供
「播磨高蔵寺絵図」
 「明治新撰 播磨名所図絵」中谷良與助(與助と推定、大阪府平民・堺宿屋町住)、大阪工新圖匠館、明治26年 より

播磨高蔵寺絵図:左図拡大図:
  明治26年の年紀があり、その頃の景観と思われる。

この絵図には、山城三室戸寺に明治43年売却移転した大塔(三重塔)が描かれる 。
絵図によると、本堂裏手に鐘楼があり、そのすぐ裏手に大塔があるように描かれるが、実際は2度折の坂道を数十m上った位置に塔はあった。
現況は
鐘楼の現位置は本堂前横(絵図の十三仏の位置附近)に替わり、塔に至る間の開山堂・文殊堂・玉屋・奥之院の堂宇は退転し、その平坦地を辛うじて残す。
ただ唯一「玉屋」(退転と思われる)の位置に2基の石塔を残す。
※播磨三日月藩5代藩主森快温(はやあつ)墓所は高蔵寺、
  法号:快温院殿野州刺史鷲峯宗雲大居士。
2008/07/01撮影:
 三日月藩森快温墓所
2008/07/01撮影画像に入替
  三日月藩5代藩主森快温墓石:高蔵寺在
  三日月藩5代藩主森快温法号:高蔵寺在

森快温は安芸広島藩主・浅野重晟の次男、明和6年(1769)〜享和元年(1801)、森俊韶の養嗣子となり三日月藩5代藩主を継ぐ。
なお、初代長俊〜4代、6代〜8代の墓所は池上本行寺、9代最後の藩主俊滋墓所は三日月町常勝院と云う。

「赤松律師則祐の祖父覚祐法師、応安2年(1369)・・本堂一宇并峰権現宝塔建立ス中興開山ノ大檀那此ノ人也」



山城三室戸寺三重塔

2002/03/03撮影:

播磨高蔵寺塔であり、元禄17年(1704)建立とされる。
明治43年高蔵寺より買取移建し、本堂西側の丘上に建立される。
さらに近年(昭和52年頃)本堂右横奥(東側)に移建され、同時に修理されたと思われる。
一辺2.72mの小型塔、尾垂木に鎬を入れるも基本的に和様の意匠で構成される。
管理は行き届いていると思われる。

 山城三室戸寺三重塔1
 山城三室戸寺三重塔2
 山城三室戸寺三重塔3
 山城三室戸寺三重塔4(左図拡大図)
 山城三室戸寺三重塔5
 山城三室戸寺三重塔6
 山城三室戸寺三重塔7
 山城三室戸寺三重塔8


2020/04/29撮影:
三室戸寺三重塔11
三室戸寺三重塔12
三室戸寺三重塔13
三室戸寺三重塔14:左図拡大図
三室戸寺三重塔15
三室戸寺三重塔16
三室戸寺三重塔17
三室戸寺三重塔18
三室戸寺三重塔19
三室戸寺三重塔20
三室戸寺三重塔21
三室戸寺三重塔22
三室戸寺三重塔23
三室戸寺三重塔24
三室戸寺三重塔25
三室戸寺三重塔26
三室戸寺三重塔27
三室戸寺三重塔28
三室戸寺三重塔29
三室戸寺三重塔30
三室戸寺三重塔31
三室戸寺三重塔32
三室戸寺三重塔風鐸
三室戸寺三重塔相輪
 

三室戸寺移建三重塔の旧地

播磨高蔵寺から移建された三重塔は、現在の三重塔がある場所(本堂の左:左側)ではなく、本堂右前(西側)の台地上に移建される。

従って、本堂右横前(西)の台地上には、播磨高蔵寺から移された三重塔の当初の建立場所が残る。
この跡地には石造十三重塔が建立され、その標とする。

2000/09/30撮影:
 旧三重塔跡地・石造十三重塔
2012/08/13追加:
○「三日月町史 第4巻 史跡」三日月町史編集委員会編、昭和41年 より
 三室戸寺当初移建場所に建つ高蔵寺三重塔
  三室戸寺旧地三重塔1     三室戸寺旧地三重塔2
2011/03/31追加:
○「流域紀行 宇治川の原風景をたずねて」宇治市歴史資料館、2008 より
 宇治名勝御案内付宇治川ライン:三室戸寺部分図:吉田初三郎、昭和5年
○「宇治市観光絵図」三輪高英、昭和31年
 宇治市観光絵図:三室戸寺部分図
  ※何れも、三室戸寺三重塔は本堂の西側の丘上に描かれる。
2020/04/29撮影:
理由は不明であるが、現在、当初三重塔が移建された場所は立ち入りが禁止されている。
勿論、強引に登れば行けるのであろうが、遠慮しておく。従って、旧地へ至る石階のみの写真である。
 旧三重塔へ至る石階

2020/12/11追加:
○三室戸寺旧地に建つ三重塔(s_minaga蔵)
西国十番三室戸寺絵葉書:組写真:矢沢邑一撮影、平井美術館印刷、撮影年不詳
 三室戸寺旧地三重塔3
西国十番三室戸寺絵葉書:組写真:山本湖舟寫眞工藝部納、撮影年不詳
 三室戸寺旧地三重塔4

2005/10/22追加:
◆三室戸寺古図
○「宇治市埋蔵文化財発掘調査概報 第35集」宇治市教育委員会、1996(三室戸寺子院跡発掘調査)より
  「三室戸山一山絵図」:天保15年(1844)
今の山門下道路西に総門 (西向)があり、東西道の南に公文所・西から東に本坊金蔵院・北ノ坊・池坊、東西道の北に十輪坊・宝性院・宝珠院などがある。さらに参道の中腹東に一坊(と思われる。判読できず)、子守坊があった。
また(真偽は定かではないが)東北には別院48ヶ寺があったとする。

◆三室戸寺現況
2020/04/29撮影:
◇山城三室戸寺略歴:
 当寺は本山派修験宗。西国33箇所10番札所。
寺伝では、宝亀年間、宮中に奇瑞があり、光仁天皇の勅命で藤原犬養がこの地を探り、志津川上流岩淵で黄金の仏像を得る。
天皇は叡感し御室を移して尊像を安置し、御室戸寺と称したとされる。開山は大安寺行表あるいは智証大師円珍ともいう。
康和年間(1099-1104)園城寺隆明上人が中興。
文明11年(1479)橋寺と争い焼亡。延徳元年(1489)再興、多くの子院があったとされる。
天正元年(1573)槙島合戦で足利将軍に加担し再び焼亡。江戸中-後期には山麓に金蔵院を残すのみとなる。
文化11年(1814)現本堂再興。大正8年(1818)書院と茶室九窓亭を三渓園に売却。
什宝として、清涼寺式木造釈迦如来立像(鎌倉・重文)、木造毘沙門天立像(平安・重文)、阿弥陀堂の木造阿弥陀如来及両脇侍坐像(平安・重文)を蔵す。
 三室戸寺山門     三室戸寺庭園1     三室戸寺庭園2     三室戸寺庭園・塔     三室戸寺庭園:伽藍
 三室戸寺参道     三室戸寺手水舎
 三室戸寺本堂1     三室戸寺本堂2     三室戸寺本堂3     三室戸寺阿弥陀堂     三室戸寺鐘楼
また鎮守社十八神社本殿(室町・重文・三間社、三間向拝)が現存する。
 2000/09/30撮影:鎮守社十八神社本殿1  鎮守社十八神社本殿2
なお、残念ながら今般(2020/04/29)は十八神社が修理中のため、拝観は出来ず。

2023/03/31追加:
金藏院客殿【重文】:
 元々徳川家康が再建した伏見城の大名伺侯の際の控え所であったという。慶長8年(1603)の建立。
伏見城取り壊しの際に宇治の茶匠上林家へ下賜し、それが金蔵院へ寄贈されたという由来があるが確証はないとも云う。
大正年中客殿は原三渓の手に渡り、大正7年三渓園へ移築される。現存する。
 →山城加茂燈明寺・三渓園>三渓園その他の建築を参照



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