播 磨 高 蔵 寺 ・ 山 城 三 室 戸 寺 三 重 塔 |
播磨高蔵寺・山城三室戸寺三重塔
★播磨高蔵寺三重塔跡
播磨高蔵寺は佐用郡三日月町の小高い山中にある。
この土壇は一辺約3.9mを測るが、山城三室戸寺に残る塔の一辺2.72mから判断して、基壇ではなくて、塔の亀腹と思われる。
◆高蔵寺略歴:
明治維新後、おそらく塔の維持管理に困窮し、塔を放出したものと思われる。
2006/11/30:「Y」氏ご提供
★山城三室戸寺三重塔 2002/03/03撮影:
2020/04/29撮影: ◆三室戸寺移建三重塔の旧地 播磨高蔵寺から移建された三重塔は、現在の三重塔がある場所(本堂の左:左側)ではなく、本堂右前(西側)の台地上に移建される。 従って、本堂右横前(西)の台地上には、播磨高蔵寺から移された三重塔の当初の建立場所が残る。 この跡地には石造十三重塔が建立され、その標とする。 2000/09/30撮影: 旧三重塔跡地・石造十三重塔 2012/08/13追加: ○「三日月町史 第4巻 史跡」三日月町史編集委員会編、昭和41年 より 三室戸寺当初移建場所に建つ高蔵寺三重塔 三室戸寺旧地三重塔1 三室戸寺旧地三重塔2 2011/03/31追加: ○「流域紀行 宇治川の原風景をたずねて」宇治市歴史資料館、2008 より 宇治名勝御案内付宇治川ライン:三室戸寺部分図:吉田初三郎、昭和5年 ○「宇治市観光絵図」三輪高英、昭和31年 宇治市観光絵図:三室戸寺部分図 ※何れも、三室戸寺三重塔は本堂の西側の丘上に描かれる。 2020/04/29撮影: 理由は不明であるが、現在、当初三重塔が移建された場所は立ち入りが禁止されている。 勿論、強引に登れば行けるのであろうが、遠慮しておく。従って、旧地へ至る石階のみの写真である。 旧三重塔へ至る石階 2020/12/11追加: ○三室戸寺旧地に建つ三重塔(s_minaga蔵) 西国十番三室戸寺絵葉書:組写真:矢沢邑一撮影、平井美術館印刷、撮影年不詳 三室戸寺旧地三重塔3 西国十番三室戸寺絵葉書:組写真:山本湖舟寫眞工藝部納、撮影年不詳 三室戸寺旧地三重塔4 2005/10/22追加: ◆三室戸寺古図 ○「宇治市埋蔵文化財発掘調査概報 第35集」宇治市教育委員会、1996(三室戸寺子院跡発掘調査)より 「三室戸山一山絵図」:天保15年(1844) 今の山門下道路西に総門 (西向)があり、東西道の南に公文所・西から東に本坊金蔵院・北ノ坊・池坊、東西道の北に十輪坊・宝性院・宝珠院などがある。さらに参道の中腹東に一坊(と思われる。判読できず)、子守坊があった。 また(真偽は定かではないが)東北には別院48ヶ寺があったとする。 ◆三室戸寺現況 2020/04/29撮影: ◇山城三室戸寺略歴: 当寺は本山派修験宗。西国33箇所10番札所。 寺伝では、宝亀年間、宮中に奇瑞があり、光仁天皇の勅命で藤原犬養がこの地を探り、志津川上流岩淵で黄金の仏像を得る。 天皇は叡感し御室を移して尊像を安置し、御室戸寺と称したとされる。開山は大安寺行表あるいは智証大師円珍ともいう。 康和年間(1099-1104)園城寺隆明上人が中興。 文明11年(1479)橋寺と争い焼亡。延徳元年(1489)再興、多くの子院があったとされる。 天正元年(1573)槙島合戦で足利将軍に加担し再び焼亡。江戸中-後期には山麓に金蔵院を残すのみとなる。 文化11年(1814)現本堂再興。大正8年(1818)書院と茶室九窓亭を三渓園に売却。 什宝として、清涼寺式木造釈迦如来立像(鎌倉・重文)、木造毘沙門天立像(平安・重文)、阿弥陀堂の木造阿弥陀如来及両脇侍坐像(平安・重文)を蔵す。 三室戸寺山門 三室戸寺庭園1 三室戸寺庭園2 三室戸寺庭園・塔 三室戸寺庭園:伽藍 三室戸寺参道 三室戸寺手水舎 三室戸寺本堂1 三室戸寺本堂2 三室戸寺本堂3 三室戸寺阿弥陀堂 三室戸寺鐘楼 また鎮守社十八神社本殿(室町・重文・三間社、三間向拝)が現存する。 2000/09/30撮影:鎮守社十八神社本殿1 鎮守社十八神社本殿2 なお、残念ながら今般(2020/04/29)は十八神社が修理中のため、拝観は出来ず。 2023/03/31追加: 金藏院客殿【重文】: 元々徳川家康が再建した伏見城の大名伺侯の際の控え所であったという。慶長8年(1603)の建立。 伏見城取り壊しの際に宇治の茶匠上林家へ下賜し、それが金蔵院へ寄贈されたという由来があるが確証はないとも云う。 大正年中客殿は原三渓の手に渡り、大正7年三渓園へ移築される。現存する。 →山城加茂燈明寺・三渓園>三渓園その他の建築を参照 2006年以前作成:2023/03/31更新:ホームページ、日本の塔婆
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