★遠江岩室廃寺・口燈明台塔跡・奥燈明台塔跡概要
磐田郡敷地に岩室廃寺心礎、口灯明台心礎、奥灯明台心礎の3心礎が残る。
3心礎は敷地川東西の丘上にある。
東側丘上には岩室廃寺があり、ここには観音堂が現存し、塔心礎1個・礎石建物1箇所・建物基壇2箇所・中世墓などの遺構が残る。
西側丘上には塔心礎2個(口燈明台・奥燈明台)が残る。何れも古瓦などの出土を見る。
なお、東岸丘上の岩室廃寺と西岸丘上の2塔とを合わせて「岩室廃寺」と見做す見解もあるが、岩室廃寺と灯明台2塔との間に何等かの繫がりがあったのかどうかは、文献などが残っているわけではなく、必ずしも明確ではない。
つまり単に敷地川両岸の丘上に遺構が残るということだけのことなのか、あるいは岩室廃寺として計画的に伽藍配置がなされたのかは良く分からない。
◆「静岡県の古代寺院・官衙遺跡」静岡県教育委員会、2003 より
現観音堂付近には塔心礎を初めいくつかの遺物があり、付近から建物跡や平坦地が見られ、ここに伽藍中心地があったと推定される。
口灯明台及び奥灯明台はいずれも見通しの良い鞍部に立地する。
なお岩室廃寺および奥燈明台では大楽寺瓦窯で焼かれた瓦が出土し、さらに心礎の形式から平安中期以降の建立と考えられる。
2012/01/13追加:
各遺構の所在は以下の図に示すとおりである。
岩室廃寺・灯明台2遺構配置図:岩室廃寺塔跡、口灯明台・奥灯明台遺構などを図示する。
灯明台2遺構配置図1:口灯明台遺構・奥灯明台遺構を図示する。
灯明台2遺構配置図2:以下に2012/01/08現在の灯明台2遺構を廻る「順路」を図示する。
(あくまで2012/01/08現在の状況であることに留意。)
永安寺裏(西)に柿畑があり、そこに山中に入る道がある。谷沿いに西行し、尾根に至る。
この尾根を北行し、三角点を目指す。三角点までの山道は竹林が迫り、台風の倒木が多く、かなり荒れているが、歩行は十分可能である。
山道を少し外れて小ピークに三角点がある。三角点から、北行し、3つの小ピークを経て尾根道を行けば、口灯明台遺構に至る。
三角点から口灯明台遺構まで500mくらいであろうか。
三角点から口灯明台・奥灯明台に続く山道はめったに人の往来のない道ではあるが、明瞭に続き、歩行は比較的容易である。
口灯明台から奥灯明台までも基本的に北行すれば、やがて奥灯明台遺構に到達する。
この山道は東にゴルフ場やゴルフ場沿いの舗道を眼下に見下ろす位置にあり、迷うことは考えられない。
奥灯明台遺構から直下にあるゴルフ場沿いの舗道に降り、舗道(一本道)を下れば、やがて敷地川に架かる不動坂橋付近に至ることが出来る。
○以下は2009年 に作成した図であるが、灯明台2遺構の位置が不正確である。
また地図の原図である1/25000の地図が古く、本図で示される山中の小道はほぼ消滅し、また山中に入る山麓の取付口はほぼ失われているようで、山麓から山中に入ることが困難な状態である。さらに、ゴルフ場沿いの舗道などの新しい道路の描画もなく、本図と現地の現状とはかなりの乖離がある。
岩室廃寺位置図:各遺構の位置は上掲「静岡県の古代寺院・官衙遺跡」から転載する。
(本図は全く陳腐化した、また遺構位置も不正確な図である。)
※口灯明台は本図の位置から北約400m地点が正しく、奥燈明台も本図の位置から北東約100mのピーク上にある。
※本図の位置は上掲「静岡県の古代寺院・官衙遺跡」から転載であり、以上の結果から、「静岡県の古代寺院・官衙遺跡」の位置が正確でないということになる。
※口灯明台・奥灯明台の心礎とされる石は、現時点では心礎であることの確証は無いと思われる。即ち心礎ではなくて、伝承(「磐田郡誌」)の通り「灯明台」に関わる何等かの施設に関する石である可能性もあると思われる。
即ちこの地が塔跡というより、この地が灯明台と伝承される、あるいは見通しの良い鞍部に立地する、あるいは磐田海渡船の伝承があるとかは、この地が灯明台であったことを強く示唆する。さらに広い遠州灘の位置確認として灯明台2基がセットで設置されたなどの可能性もあるであろう。
あるいは、遺存する「礎石」が心礎だとすれば、次のように解釈することも可能であろう。
即ち、この両地は平安期に塔が建立される。その後、この古塔が廃絶し、中世もしくは近世になり、塔跡に燈明台が設置されたのではないだろうかと。
2012/01/13追加:
心礎を実見した感触では、両心礎とも心礎としては小規模であり、また加工も粗いものであるが、形状から古代終末期の心礎である可能性はかなり高いものと思われる。
また両方の心礎とも規模・形式が類似し、同一の工人の手になるものと推測される。
確かに、この遺物が心礎であり、この遺構が塔跡であることが証明されたわけでは無いが、現地は小ピークにあり、塔が建立されるに必要な平坦面は確保されている。願わくは、建物の礎石配列・建物規模などが明らかになり、塔に関係する何らかの遺物が出土することを願う。
なお現地は確かに高所ではあり、かなり林間から周囲は展望できるが、果たして、「磐田海」まで展望できたかどうか(逆に「磐田海」から燈明台として見通せたかどうか)は良く分からないというより、無理なような立地とも思われる。
★遠江岩室廃寺
○遠江岩室廃寺心礎
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○2009/05/24:「X」氏撮影画像
岩室廃寺塔跡1
岩村廃寺塔心礎1:左図拡大図
大きさは96×81cm(一部欠ける)で、上面は削平される。中央に径37×13cmの円孔を穿つ。(法量は「X」氏情報から転載)○「豊岡村史」(※通史編<1996>と思われるも不明) より
岩室廃寺塔心礎2 |
2011/12/25撮影:
敷地川東岸獅鼻:西から撮影、この獅鼻(岩)の東側の丘陵地に岩室廃寺遺構がある。
遠江岩室廃寺塔跡1 遠江岩室廃寺塔跡2
遠江岩室廃寺心礎1 遠江岩室廃寺心礎2 遠江岩室廃寺心礎3 遠江岩室廃寺心礎4 遠江岩室廃寺心礎5
遠江岩室廃寺心礎6 岩室廃寺心礎実測図:差渡95cm程度の大きさで、中央に径37cm深さ13cmの円孔を穿つ。
岩室寺についての文献史料は多くはないが、「吾妻鏡 第六巻」では、以下の記事がある。
文治二年(1186)・・・。遠江守義定朝臣自彼國參上。日來於當國湖岩室已下山寺。雖搜求豫州。不獲之由被申之。
(文治二年・・。 遠江守義定朝臣 彼國自り參上す。日來當國の湖、岩室已下の山寺に於て、豫州を搜し求めると雖も、獲不之由之を申被る。
)
※遠江守義定朝臣は遠江守安田三郎義定、豫州は九郎判官義経。
また文治4年安田義定、巌室寺(岩室寺)の血極谷において大般若波羅蜜多経を書写と云う。(近江柳瀬在地講所蔵大般若経)
当廃寺について以下の説がある。
現在観音堂付近は「ビクニ谷」と称する。堂塔跡や古瓦が出土し、国分寺文書にも「僧寺の北三里に尼寺あり」とあり、国分尼寺と想定される。
(現在では、当廃寺が国分尼寺であることは無理筋であり、国分尼寺であることは否定されている。)
馬頭観音堂が現存する。
観音堂には土中から掘り出したという平安期の木造仏像2躯(頭部のみと体躯もみのもの)を安置する。
岩室廃寺観音堂1 岩室廃寺観音堂2
観音堂内部1 観音堂内部2:東照大権現・台徳院(秀忠)・崇源院(秀忠室・お江)の名が見え
も、由来は不明。
金堂跡(礎石建物跡):
東西に6個、南北に5個の礎石(礎石間隔は8尺、中央2箇所を空けて28個の礎石を持つ、5間×4間堂)建物である。礎石の大きさは凡そ径3尺を測る。
岩室廃寺金堂跡 金堂跡礎石1 金堂跡礎石2 金堂跡礎石3
金堂跡礎石配列:現状では7個の礎石は簡単に現認できるも、他の礎石は良く分からない。
★遠江敷地口灯明台塔跡
○敷地口燈明台心礎
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○2009/05/24:「X」氏撮影画像
敷地口灯明台跡1
敷地口灯明台心礎1:左図拡大図
○「豊岡村史」(※通史編<1996>と思われるも不明) より
敷地口灯明台心礎2:
「磐田郡誌」には金井戸の谷に灯明台があると記され、磐田海渡船の伝承が記される。
地元ではこれを口灯明あるいは口金燈籠と呼ぶ。宝物埋蔵伝説から深い盗掘穴が開き、心礎はその中に陥没する。
心礎大きさは径約80cn、厚さ約21cmで、中央に径約17cm、深さ約21cm(心礎の厚さが21cmならば、
この深さは何かの間違いであろう、写真からはもっと浅いと思われる)の臍(ママ)が彫られている。周囲の調査では瓦などの採取はないと云う。 |
◇2012/01/13追加:
「静岡県磐田郡誌 下巻」磐田郡教育会、大正10年(名著出版 1971復刻版、p.1002) より
【燈明台】(敷地村)敷地村字金井戸ヶ谷の山上に、石基一臺あり。傳へ云ふ。是れ往昔磐田海渡船の時、燈下を點し、以て船路の便に充てしものなりと。石基は約方4尺、中央に径約5寸許の穴を穿てり。
◇2012/01/08撮影:
口燈明台遺構遠望1:左の寄棟屋根は永安寺本堂、その背後のピークが三角点で、右のピークの背後が口燈明台遺構か。
口燈明台遺構遠望2:同上
口燈明台遺構1 口燈明台遺構2
心礎は盗掘孔に垂直に近い角度で落下し半分は土砂に埋もれ、その上には枯木が積もる状態である。
★遠江敷地奥灯明台塔跡
○敷地奥燈明台心礎
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○2009/05/24:「X」氏撮影画像
敷地奥灯明台跡1
敷地奥灯明台心礎1;左図拡大図
○「豊岡村史」(※通史編<1996>と思われるも不明) より
敷地奥灯明台心礎2:
心礎の大きさは径約80cm、厚さ約35cmで、
中央に径約21cm深さ約15cmの臍が彫られている。
他に礎石らしい石も見られる。西側にはかなりの量の瓦が採取できる。
南西側斜面に平坦地(堂跡か)がある。 |
2012/01/08撮影:
心礎の石質は砂岩様のもので、平面はほぼ円形を呈する。その表面は平らに削平されるのは口燈明台心礎と同じである。
心礎実測値:大きさは80×70×37cm、径23cm深さ13cmの底が碗状の円孔を穿つ。
なお心礎の側の四天柱礎の位置と思われるところに推定礎石(差渡しは約40cmを測る)が1個残る。
「豊岡村史」で云う西側の瓦の散布を見ることは困難であり、また南西斜面の平坦地もブッシュに蔽われ良く確認はできない。
奥燈明台遺構1 奥燈明台遺構2:心礎と礎石と思われる1個の石が残る。
奥燈明台遺構3:手前は礎石か、奥は心礎
奥燈明台心礎1 奥燈明台心礎2 奥燈明台心礎3 奥燈明台心礎4
奥燈明台心礎5 奥燈明台心礎6 奥燈明台心礎7
奥燈明台推定礎石
★参考
1)燈明台
蛇足ながら、灯明台とは以下のように理解される。
近世には沿海航路が発達し、「かがり屋」とか「灯明台」と呼ぱれる「燈台」が多く作られたと云う。その形式の多くは石積の台を造りその上に小屋を載せ、その中で木を燃焼させるあるいは菜種油を燈す仕組みのものであったと云う。これ等の篝屋・灯明台は幕末には100基余を数えたと云われる。
一方これとは別に海岸近くの社寺の石灯籠は常夜灯の役目を兼用したものも多く奉納され、今でも全国各地に残る。
灯明台で現在に残る最も著名なものに讃岐金毘羅大権現の高燈籠がある。
また攝津住吉社の高燈籠も全国に知られるも、これは近年の再興である。
毘羅大権現高燈籠:2007/01/20撮影:安政6年(1860)完成、石積基壇に木造三階建の高層建築を載せる。屋根宝形造・本瓦葺・宝珠を架す。総高15間1尺(27.58m) 、石積基壇は
5間3尺(10m)、下端一辺51尺、上端28尺 。この位置は海抜約80mと云う。大権現常夜燈と標識燈を兼ねると云う。
なお、灯明台のやや下方の平坦地に塔が建立されていた所として、陸奥應仏寺五重塔と灯明台がある。
(五重塔<陸奥應仏寺五重塔1、陸奥應物寺五重塔3>は大正2年退転するも、常燈明堂及び木製角行灯2は残存する。)
2012/01/13追加:
2)敷地永安寺
口灯明台に上る現状考えられる「順路」の山道入口付近にある。
永安寺は近年本堂などを焼失し、新築されると云う。(敷地村出身で現在は浜松市在住の男性の談)
さらにこの男性は、子供の頃は特に遊び場もなく、口燈明台や奥燈明台などでしばしば遊んだと云う。
敷地永安寺境内 永安寺山門・観音堂 永安寺観音堂
永安寺観音堂宮殿 永安寺観音堂仏像1 永安寺観音堂仏像2 永安寺観音堂組物
2006年以前作成:2012/01/13更新:ホームページ、日本の塔婆
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