さわやかさ すだちの香り 古里思う
  
   1 徳島県の県章・花・木・鳥(徳島市の木:花  20 HANA HARU FESTA2007
     徳島の行政庁:JR徳島駅前             21 はな はる フェスタ2008
     徳島県の歩み県政資料             
     徳島公園旧:徳島城表御殿庭園を含む  22 徳島 八多の五瀧
  
 日本一:加茂の大クス            23 NHK徳島放送局
  
 世界三大土柱の一つ:阿波の土柱      24 とくしま動物園
                                
25 四国一:轟の滝
  
7 徳島新町川寒中水泳大会2007         26 日本一 洋蘭シンビジューム
       
同上寒中水泳大会2008         27 昭和30年卒業同窓会
        同上寒中水泳大会2010       
28 我が家の月下美人
   8 バルトの楽園:映画化 ロケ村       
29 乳いちょう:花の隠れ里(神山)
   9 鳴門市ドイツ館&賀川豊彦記念館      
30  2012 御来光(眉山から望む)
  10 陶磁器の里:大谷焼
  11 鳴門:渦潮(1)
  12 渦の道
(2)
  13 大塚国際美術館
  14高の瀬峡(木頭村)
  
15 徳島の正月風景(眉山・天神社・周辺)
 
 16 踊る国文祭
  
17 うだつの町・・・脇町
   
18 祖谷渓・かずら橋&琵琶の瀧
   
19 大歩危・小歩危

  
 阿波踊り                            
    
阿波踊り2007
     奉納 阿波踊り2008
     阿波踊り2009
     阿波おどり会館 年末恒例お餅つき大会
     阿波おどり会館まつり 10周年記念行事
     第10回とくしま春爛漫
     阿波踊り 2010
  

 1 徳島県の県章:花:木:鳥(徳島市の木:花)

          


               徳島県庁玄関前:庭園の一部に植林されたスダチの木
                         県の花に指定されている。                          
 
                     
             みかん科:毎年5月中旬ころ、白い小さな花を咲かせます。
             果実は、徳島の特産品です。料理良し。焼酎に良し。その
                     味は、絶品です。古里の味です。

                                          
    徳島県章      県の木「やまもも」     県の花「スダチ」      県の鳥「しらさぎ}
                                                
 とくしまの「とく」を   阿波藩の御禁木として    白い小さな花       棲息・繁殖の地として
 図案化(飛鳥)した  保護 やせ地でも生育    を咲かせる。        県下に広く見られる。    
 融和・団結・雄飛・  初夏に熟し、甘酸っぱい   (S49・10・4指定)     (S40・10・1指定)
 発展を表現する。   味覚である。
(昭和41年3月公募)   (S41・9・13指定)            

         
                              
      徳島市章           徳島市の木           徳島市の花
                       (ホルトノキ)           (桜)
                       
             ホルトノキ(別名:モガシ)
            暖地に生える常緑高木である。前年枝の葉液から総状花序を出し
            白い小さな花を沢山つけます。
            城山のホルトノキは、約20年前から枯死が目立っているため、植樹
            を計画し、実行しているとのことです。

                               

 2 徳島の行政庁:JR徳島駅前


    
                          徳島の玄関口:徳島駅前
    
           そごう徳島店                        後方の山「眉山」
                       
                               
 徳島駅  阿波踊りで歓迎
                 
                                 徳島県庁
   
              徳島県民のトップ行政を掌っている。マンモス官庁
   
                                徳島市役所

                               


 3 徳島県の歩み(徳島県シルバー大学校研修:県政資料から抜粋)

  (1)徳島県の県土に、いつ頃から人々が住みついたかは、はっきりしないが、吉野川
     流域の北岸地域を中心に旧石器時代の遺跡が20カ所知られているところから、
    少なくとも
1〜2万年前頃には、祖先が狩猟や採集によって生活していたと思わ
    れる。

       (旧石器時代→縄文時代→弥生時代(稲作農耕)竪穴式住居・高床式倉庫)

      ◎ 県下の古墳について
     吉野川流域、県南の平野部などに広く分布している。とりわけ、国府町から石井町
     にかけての流域、鳴門市大麻町から板野郡にかけての分布密度が高い。
     当時、多数の国家(クニ)が、成立したと考えられる。

  (2)粟国から阿波国へ(北方と南方 阿波の国の歩み)
     古くから阿波は、吉野川流域の低地を中心とした北方と勝浦川・那賀川下流の低
     地を中心とした南方の二つに別れ、生活様式もかなり異なっていたかに見える。
     旧日本書記によると今から1700年の昔、応神天皇の13年(213年)3月に千波足尼
     (チワノスクネ)が北方に相当する粟ノ国の国造(ミナツコ)に任命されている。

     一方、成務天皇の5年・9月には、南方に相当する長ノ国に、韓背宿彌(カラセノス
     クネ)がその国造りに任命されている。

     大化の改新(645年)直前の段階で、吉野川流域を中心とする粟国と県南部流域
     長国などが合併し、今の境域ができて、大化の改新により、阿波国になった。

      当初、阿波国は板野、阿波、美馬、麻植、名方、勝浦、那賀の7郡に分かれたが、
     貞観2年(860年)に美馬郡から三好郡が分立、寛平8年(896年)名方郡が東西に
     分かれ名方東(名東)、名方西(名西)の両郡が成立し、9郡たなった。

  (3)武士勢力の台頭
     田口成良氏(平氏)→源義経の攻撃で滅びる。阿波は鎌倉幕府の成立に伴って、
     守護の支配を受ける。

      佐々木氏(源氏)→小笠原氏(幕府滅亡まで守護職)を世襲したので一族が阿波
     各地
に広がった

  (4)守護大名細川氏と阿波(愛知県三河の細川郷)
      室町幕府成立により、阿波国守護として建部3年(1336)足利尊氏の命により
    
細川和氏、頼春兄弟阿波入国。

      最初、秋月に守護職を置いたが、後に勝瑞館に移す。各地に城を築く。
      天文12年(1552年)に主君11代細川持隆は、三好長慶の弟:義賢に滅ぼされる。
     *丈六寺の再興・・・・・8代 細川成之
     *血天井・・・・・新開道善(富岡城主
)・・・長曽我部元親に謀殺される。
                                 詳しくは、後述します。


  (5)三好長慶氏は、三好郡三野町芝生の小笠原氏の一族。三代(10年)にわたり勝瑞
    を中心に阿波(義賢)・讃岐(十河)・淡路(安宅)、畿内などの統治にあたっていたが
    家来の松永弾正久秀の雑言で安宅を殺害する。
    しかし、2人の弟は、戦死し、自分は病死する。

    土佐の長曾我部元親の侵入により天正10年(1582年)に滅び、長曾我部氏は、四国
    の大半を手中にするが、やがて豊臣秀吉の四国征伐により、阿波を明け渡し、土佐
    へ帰った。

    ○
下克上・・・・・松永弾正久秀:三つの悪行
               @ 三好氏を殺したこと。
               A 奈良の大佛を焼き払ったこと。
               B 13代将軍 足利義輝を毒殺したこと。

   
(6)徳島藩政の展開
      豊臣秀吉は、四国征伐の戦功により天正13年(1585年)蜂須賀正勝に17万石を与
     えたが、嫡子 
蜂須賀家正が阿波を治めた。
     大阪夏の陣で徳川方に付き活躍し、元和元年(1615年)加増される。

     一宮城の筆頭家老 稲田邦種、家臣たちは急速に尊皇攘夷:倒幕運動にかかわり、
     本藩は右往左往し、稲田主従は、討幕の旗色を鮮明にする。第二次長州征伐の
     出兵要請を無視する。・・・日和見藩13代斉裕(なりひろ)「48歳 病没」。14代茂韶
     (もちあき)は、討幕派として参戦するが主力は稲田派であった。

  (7)明治維新の徳島
    幕末の徳島藩主:斉裕は、尊王か佐幕か態度を鮮明にしなかった。そんな藩に見切
    りを付けた稲田家主従は、早くから討幕運動に走った。

     明治2年(1869年)藩籍奉還で最後の藩主:蜂須賀茂韶(もちあき)を藩知事とする。
     徳島藩設置されると、稲田旧家臣たちは士族にしてもらえなかったので士族編入
     淡路分藩を要求する運動をする。

     これに対し、徳島藩の若い士族が稲田屋敷のある洲本を襲撃し、大惨事となった。
     阿波の稲田側の本拠地:脇町も襲撃しようとしたが事前に発覚し、主流の新居水竹、
     小倉富三郎等を割腹させ中止させた。
     この事件を
明治3年の稲田騒動という。
     
     明治政府は、徳島藩士族を多数処罰し、稲田家家臣を士族に編入するかわりに、
     北海道の静内に移住させることにより事件の後始末をした。

     現在でも、
北海道 静内町に蜂須賀農場として残っている。

     翌4年の廃藩置県により徳島県が設置され、その直後に名東県と改名された。
     こうして発生した県政の頂点に立ったのは旧藩主で大参事の
井上高格であった。
     また、初代の徳島市長でもあった。

     
県の要職は,全て旧藩主たちであった。

     現在の
徳島県知事 飯泉嘉門知事は、51代である。

 血天井             
戦国の代 土佐に起こった長曽我部元親は、四国平定の野望を抱いて阿波に入った。
阿波の南方各地の塁城を攻め降し、那賀郡の富岡へ迫ってきた。
富岡城の城主:新開遠江守忠之(僧籍に入って入道道善)は、智勇兼備の猛将であって、
土佐勢を悩まし苦しめた。
正当な攻めでは不可と覚った土佐側は、謀略を用いる方針を採り、丈六寺において和談
を開きたいとたいと新開側へ申し入れた。
忠之は、これに賛同し会談の日を約束した。丈六寺において土佐側と新開側の和談は開
かれた。
元親が四国を平定すると忠之に勝浦郡を与え、富岡城を保証するという好条件で忠之
主従は満足し、和談成立の祝いと懇親を兼ねた酒宴が開かれ、土佐側の厚意の美酒
馳走を新開側は満喫し、心から酔いに酔った。
夕景に迫らん頃 忠之主従は、辞して縁側に出た曲がり角フスマの片側に身を隠して
いた武士が抜刀して、忠之の肩口に切りつけた。この時、床下に隠れていた武装した人々
が踊り出た。所々に身をひそめていた武士が飛んでくる。
裏山から俄に起るトキの声、大勢の武士たちは近づき叉飛び上がる。「謀られたか」と憤り
怒り、遂に一同斬り死にする
そのとき飛び散る血汐は流れて縁板にしみ入り、真紅となり、手の型、足の型 恨みの血
痕は、拭けども消えず、洗えども落ちず。
忠之主従の血汐は、今なお残っているのである。忠之の墓碑に「天正9年10月16日」と刻
まれている。
この縁板を天井に用いて、後世に造られたものが血天井である。


   
               寺 表 門             裏側から撮影  右 鐘付き堂
   
      本  堂:国指定重要文化財  寛永6年(1629年)蜂須賀蓮庵が、娘 辰(美濃国
     加納城主 松平忠光夫人)の供養のため方丈(住職の居室)を再建寄進したもので
     ある。            

  
                       
  血 天 井
  

      丈六寺・・・白鳳年間の創建と伝えられ「阿波の法隆寺」「正倉院」とも称され
      る古寺名刹:650年(白鳳元)の創建と伝わる古刹
      多くの宝物を所有し、聖観音坐像(重要文化財)は、立てば1丈6尺(約5m)
      にもなるほどで寺名の由来となっています。

      7月 土曜日:昼・晴天というのに、参詣者がいないためか、寺は閉鎖され、
      住職・寺守の姿が全く見えず、案内の看板が頼りでした。

      ただ、血天井の廊下等への入室が自由であり、見学できたのが幸いでした。
      しかし、名刹が泣いているのでは?と思っています。本当に驚いています。
      
      素晴らしい宝物館があり、近くには、細川家の墓地があり、水路には、数千
      匹の緋鯉:真鯉が悠然と泳ぎ、足を伸ばせば、五瀧があります。
      また、果実みかん畑等々の農家があり、環境は抜群です。
      大々的にPRすることによって、徳島の良さの一つが誕生するのでは?と思っ
      ています。
                                 
  徳島公園

   

                              徳島城:鷲の門

      徳島城(別名渭津城)は、天正13年(1585年)に阿波に入国した蜂須賀家政が
     築城した屋形造りの平山城であった。
     幕藩時代を通じ蜂須賀が14代にわたって居城し、280余年の間、阿波・淡路両
     国25万7千8百石を支配していた。
     鷲の門は、この徳島城の巽(南東の方向)に位置する表口見付の門で、その造
     りは脇戸付きの藥医門である。
     幕府に鷲を飼うからと申し立て建造したことから鷲の門の名があると伝えられて
     いる。
     廃藩置県の後、城郭建造物は取り壊されたが、唯一残された鷲の門も昭和20年
     (1945年)7月4日早暁の徳島大空襲によって焼失した。
     現在の鷲の門は、平成元年(1989年)復元寄贈されたものである。

   

     下乗橋(小見付橋)・・・城内の堀に架けられた木製の太鼓橋で、殿様の住む
     御殿への正面出入り口に当たります。下乗橋の名前は、橋の前で駕籠など
     乗り物から降りて、歩いて渡ったことから由来しています
。                   

   

                        旧 徳島城表御殿庭園

   

        自然石橋:初代藩主:蜂須賀至鎮(ヨシシゲ)公が踏割りの伝説
       のある長さ10・6m(35尺)の自然石橋(緑泥片岩)


   

                               庭園:散策路

    
 
             散策路             心字池・・・草書体の心という字形に作られている

    

      北宋画風を形取っている遠山石

    名勝:旧徳島城表御殿庭園

        この庭園は、阿波、淡路両国太守蜂須賀公の居間や表書院の庭として作られた。
      上田主水(宗箇)の作庭による桃山時代白眉の名園で、枯山水庭と築山泉水庭の
      二庭
からなる池泉回遊式と鑑賞式を兼ね具えた庭園です。
  
  
    枯山水庭中島には、初代藩主:蜂須賀至鎮公(義伝公)踏割の伝説のある10・6m
     (35尺)
の自然石橋と豪華な御影石(花崗岩)の切石橋を架け、築山には、北宋画風
      の遠山石を組み蘇鉄を植栽した豪壮かつ優美なものです。
      また、庭園深部の観音山を源とする築山泉水庭は、池に二個の中島を配置した
      心字池になっています。


      築山に組み込まれた枯瀧の手法は、静寂な谷川の瀧組とともに、作庭当時の遺構
      をよくとどめています。
      阿波の特産である緑泥片岩を多数使用した地方的特色のある桃山様式の庭園と
      して傑出したものです。


    

         平和を祈念して                   海が近い? 生活における捨て場?

   

      鳥居龍蔵博士(1870〜1953)明治から昭和にかけて活躍した人類学:考古学:
      民俗学の先覚者である。1870(明治3)4月4日:徳島市東船場町に生まれる。

      この貝塚は、大正11年鳥居龍蔵博士が発掘調査したもの。徳島県考古学の基
      礎を
築いた。
      約4000〜2300年前、縄文時代後期〜晩期 ごみ捨て場である。ここから土器片
     人骨が発見されている。

   

      海に沿い、城の防御の一つを形成                 牡丹園

                 
    
                            父の像
                   平和を祈る心・永遠に続いてほしい。
           
       

              蜂須賀家政公銅像                   徳島公園内の大クス

                                    



  5 加茂の大クス
                                                               
                


国指定特別天然記念物 加茂の大クス

一樹:森成す三加茂大楠≠ニ詠まれている本樹は、楠としては、典型的な繁茂を遂げ
傘の開けるが如く
壮大な樹冠でよく整った樹容を誇り、まさに日本一である。大正15年、
内務省告示第58号をもって「クス」の代表的巨樹として天然記念物に指定され、
昭和31年文化財保護法により、国の特別天然記念物に指定された。

樹齢は、1000年余年と推定され、根周り20m、目通り周囲13m、枝張り東西径46m,

南北径40m、樹高25mである。
,現在も樹勢は旺盛である。



   6 阿波の土柱

          

          

                     
                                 阿波の土柱(天下の奇勝)
                

         吉野川によって運ばれた砂石が蓄積してできた段丘礫層が風雨に侵食されたものです。
       世界三大土柱の一つです。アメリカのロッキー山脈:イタリアのチロルの土柱が有名です。


        土柱とは、100万年前の氷河時代に堆積した扇状地が、その後隆起、雨水の浸食作用
       を受けて形状された奇勝です。

        阿波の土柱は「土の柱」というよりは「土の壁」といった感じです。


     
                        
 徳島新町川寒中水泳大会      右の写真をクリックしてください。
                        
フルスクリーン(ウェブりアルバム)にリンクします。
ー寒さに耐え、元気に威勢よくー
新春の恒例行事・徳島新町川寒中水泳大会(新町川を守る会主催)が、2007年(平成19年)1月21日
徳島市内の新町川周辺で開催されました。  
 午前10時の気温:8度 水温:11度 参加人員46名
    

          
    

          

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