『ALWAYS 三丁目の夕日'64』
監督 山崎 貴


 昭和ノスタルジーの代名詞にもなっているように感じられるシリーズ作品だが、時代性よりもALWAYS 三丁目の夕日ALWAYS 続・三丁目の夕日の前2作で培ったキャラクターたちによる父子物語の色合いが強くなっているように感じた。住み込み従業員たる六子(堀北真希)と則文(堤真一)の擬似父娘、血の繋がらない淳之介(須賀健太)と竜之介(吉岡秀隆)の擬似父子、血の繋がった竜之介と林太郎(米倉斉加年)の親子関係、この三つの父と子の物語でのいずれの父親ぶりもグっとくるものを湛えていて、大いに感じ入った。

 ベタという点ではこのうえなくベタなのだが、林太郎・竜之介・淳之介の名前を並べるベタさと見合った形で、勘当した息子の連載稿の全てに付箋を差し込んで明治男の達筆による短評を遺して逝っている場面の雄弁さは、叔母(高畑淳子)の台詞で真実を明かして片付けたりはしない場面の力を発揮していたし、竜之介の人生の華とも言うべき大切な万年筆という、目に映るものを使って淳之介の「全部わかっているから」の深さを示す巧みさ、六ちゃんとの相対シーンにおける則文とトモエ(薬師丸ひろ子)のキャラクターを存分に活かした過剰なまでの場面演出など、達者と言うほかないように思った。シリーズ物を好まない僕がこのシリーズ作を好むのは、やはり鈴木モータースの夫婦のキャラクターが気に入っているからなのだろう。

 原作漫画については、僕が接しなくなってもう何十年にもなるから、語り手たる小学生の一平の高校時代があったのかどうかも不明なのだが、漫画のなかの一平たちの時間は止まっていたのではないかという気が僕はしている。前2作は、そういう意味では二年後に作られながらも翌年の物語で、大きな時間の経過はないままだったが、今回は一気に五年後となっているから、既に原作からは時代的にも離れ、より一層、原作から解放されていたのではないかという気がした。それゆえに今やカラーテレビの時代というわけだ。同時に、そういう意味では、もう“昭和ノスタルジー”すら、本作の主要テーマではなくなっているように感じた。

 だからこそ、ノスタルジックに当時を称揚するのではなく、東京オリンピックの頃は、“みんなが上ばかり目指して見上げていた時代”であるとして、若き医師の菊池孝太郎(森山未來)を配し、宅間先生(三浦友和)に“上昇志向を求めない生き方”について語らせていたのだろう。絵柄としても、登場人物たちが皆うえを見上げているショットを執拗に重ねたりもしていたように思う。

 そういう意味では、本シリーズが昭和三十年代を舞台にした作品なれば、一気に三十九年を描いたから、次作はもうないのではないかという気がするが、オープニングタイトルを浮かび上がらせる東京タワーに繋げていった、昔懐かしく僕も作った覚えのあるゴム動力の模型飛行機の飛びゆくシーンを観ていると、僕の過ごした昭和の各時代の風物を再現してもらいたい気になった。僕自身は、銀座のみゆき族を目撃していなくて、原宿の竹の子族を目撃しているのだから。
by ヤマ

'12. 3.11. TOHOシネマズ2



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