『TIME/タイム』(In Time)
監督 アンドリュー・ニコル


 アンドリュー・ニコル監督・脚本の作品はガタカ以来、『トゥルーマン・ショー』シモーヌロード・オブ・ウォーと全て観てきているが、やはり『ガタカ』を超える作品は無理のようだ。『ガタカ』で印象深く残っている海のイメージに官能性を重ねていた部分が作り手のなかにも強く残っていることが窺えるような場面を本作で観て、その到底及ばなさに、前述の思いを強くしたのだった。

 だが、そういう映画的な膨らみには物足りないものがあったものの、同じ“不死の倦怠”から始まってもミスター・ノーバディのような哲学性には向かわず、富と搾取といった社会性のほうに向かうところが如何にもアンドリュー・ニコル的な感じがして、なかなか興味深い作品ではあったような気がする。

 原題の“イン”を省くと、時間が通貨になっている社会という設定であった本作の“社会性に向けた視線”が強調されるようには思うが、間に合わなかった母レイチェル(オリヴィア・ワイルド)と間に合った恋人シルビア(アマンダ・セイフライド)の場面が最初と最後で対照される配置になっている作品としては、やはり原題における“イン”には、大きな意味があるはずで、そのように考えるとそれは、本作に描かれたような格差社会による二極化がそこまで至らぬうちに、というような意味合いが込められているのかもしれないなどと思った。それくらい、現在の世界市場を席巻している“強欲資本主義”とも言うべきアメリカ発の“新自由主義経済”が、今や自国の経済のみならず社会そのものを脅かす形で暴虐の限りを尽くしている状況があるような気がした。作り手には少なくとも、「適者生存」を唱えたダーウィンの進化論のように資本主義が進化して「強者生存」となることへの異議申し立てがあって、仮にそれが生物の進化のように歴史的必然であったとしても、生物を支配する法則と社会を制御するルールとは、人為の及ぶ余地において根本的な差異があるということへの希望が根底にあったような気がする。

 そして、自分が独り占めすること以上に、スラム街の住人などに“分け与えること”を耐え難いものとして意識している人物像の窺えた大富豪フィリップ・ワイス(ヴィンセント・カーシーザー)と対照させる形でウィルに体現させていたものが“シェア”であったことを思うと、内橋克人 著の悪夢のサイクル ネオリベラリズム循環でも言及されていたミヒャエル・エンデに繋がっていくわけで、そうなるとアンドリュー・ニコルの想いにあったのは、やはり時間泥棒の『モモ』だったのかもしれない。

 ふと思ったのは、アメリカにも“その日暮らし”に相当する言葉は、きっとあるのだろうが、それは何と言うのだろうということだった。貧しさというものが常態になっていることを端的に示す言葉として“その日暮らし”というのは、実に上手く言い表したように思える言葉だが、時間が通貨になった社会の貧困層の持ち時間が概ね一日だったことが 、妙に符合しているように感じられて面白かった。
by ヤマ

'12. 3. 7. TOHOシネマズ8



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