『ALWAYS 続・三丁目の夕日』
監督 山崎 貴


 オープニング前のロゴからして“東宝スコープ”の昔のモノが使われ、茶川(吉岡秀隆)が淳之介(須賀健太)に「それじゃあ、まるでゴジラみたいですね」と言われる小説の中身がゴジラの特撮映画として映像化されている贅沢で凝った作りに驚いた。その点では間違いなく前作以上の贅沢さなのだが、前作で成功を収めた監督が「褒美として先ず一番やりたかった事をやらせてもらいました」と言っているかのようなオープニングがゴジラの特撮であるところや、そのシーンの出来がなかなか立派なものであったことから、なんだかとても気持ちがよくなった。

 また、僕自身にも覚えのある一平(小清水一揮)が扇風機の風に向かって声を発して振るわせている姿とか、短期間での米の値上がりで給食費が払えなくなっている様子から高度成長期に伴うインフレを窺わせるといったような細部の充実が効いていて、感心するほどに時代の再現に抜かりがない。前作の日誌に当時を振り返って近所には自動車の修理工場も文学を志す青年も一杯飲み屋もなかったが、顔見知りの大人たちの姿はなぜか日常的にあって、よく声も掛けてもらっていたような記憶がある。そして、大人というのは妙に小器用で、物を作ったり直したりするのが上手くて、親切だけどちょっと恐い存在だったような気がする。また、大人も子供も、食べ物以外に物を買うことなど、滅多になかったように思う。だから、物作りや修理が上手だったのだろう。と綴っていたのだが、今回の作品ではもろに、トモエ(薬師丸ひろ子)が服を仕立てていたり、アクマこと宅間医師(三浦友和)が端材で犬小屋を作ったりしていた。時代考証的なところで僕が少し違和感を覚えたのは、茶川の芥川賞候補作が掲載されている文芸誌をヒロミ(小雪)が手にした雑誌売り場に並んでいた週刊誌などの表紙に対してぐらいだった。福岡に向かう特急こだま号のなかでヒロミが読んでいた一節からは、茶川の書いた『踊り子』は純文学風ではなかったように思うが、時代考証とは別問題で、違和感と言えば、そのくらいしかなかったのが嬉しかった。

 前作の日誌に原作にもあったユーモアのみならぬ少年の日々の不思議味も空想趣味もきちんと添えて、温かく爽やかな後味を残してくれたのが嬉しかった。と綴った部分に今回相当するのは、則文(堤真一)の前に現れた牛島(福士誠治)の姿と蛍なのだろうが、確かに不思議風味ではあっても少年の日々のものではなく、男たちの大和/YAMATOの神尾に通じる部分を感じた。戦友会に行けずにいる夫を促しているときのトモエの風情がとてもよく、夫の心痛を柔らかく受容している姿に説得力があったからこそ、酔いに酩酊した則文が牛島の幻に向かってトモエのお陰なんだと語る場面に、些かもあざとさを感じることがなかったような気がする。前作でも感じたことだが、薬師丸ひろ子は、本当にいい女優になったと思う。

 中盤少し弛んだような気がするが、鈴木オートの親父のキャラ立ちは前作以上で、まさしく堤真一の当たり役だと思った。トモエが美加にハンドクリームを塗ってやるエピソードがいいと思っていたら、作り手も意識していたらしく、しっかり駄目押しをしていたのだが、本当によく作り込まれた作品だった。もう少しエピソードの整理をしてスッキリさせていたら尚よかったようには思うのだが、この一年を漢字一字にして振り返れば「偽」とされる時代にあって、タイムリ-にも「信じることと騙すこと」についてのエピソードを置いて、前作にはなかった悪人を遂に登場させていたことについては、素直に好感を抱くことができた。




推薦テクスト:「お楽しみは映画 から」より
http://takatonbinosu.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/always_cdb2.html
by ヤマ

'07.12.14. TOHOシネマズ8



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>