臨床余録
2015年 1月 25日  じっと耳傾ける時

「私は老年とは若い時や中年の時とはちがって、何かにじっと耳傾ける時だと思っているのです。 その何かとはやがて旅だって行く次なる世界からかすかに聞こえてくる音なのです。 私も65歳になったら、その音をよりよく聞くために仕事を整理しようと思っています。」(遠藤周作『死について考える』)

さて僕はといえば、3日前に66歳になった。遠藤周作によれば立派な老年である。診療の合間に窓の外を眺める。 樹の表情、枝や葉の揺れ、鳥や蝶の行き来に目を遊ばせる。 往診の途次、野毛山公園のベンチに座って欅の大樹やその上の深い空を眺める。晴れた日は上原の小展望台から富士の姿を眺める。 丘の上の市民病院に勤めていた頃、疲れて6階の病棟の窓から空をみていると 「また良先生は雲をみているの?」と看護婦さんからからかわれた。 自宅の小さな庭の梅の木が紅く芽吹き、池の金魚たちの泳ぐ姿を眺めるのも歓びのひとつ。 遠藤周作のいう「次なる世界からのかすかな音」は直接聞こえてくるのではなく、 これら僕のまわりの風物をとおしてやってくるような気がする。そこにひとはいない。言葉もない。 風の音、鳥の声、雨のにおい。自然はいつもある。それらを通して何かが届く。 それから、もうひとつ。日に一回は聴くことにしているバッハ。“次なる世界からの音楽”とふと思うこともある。

2015年 1月 18日  whimsical art and medicine

Jose Perezの描いた“whimsical artとしての医学”という本がある。医学の各専門分野をおもしろおかしく描画している。 例えば、neurologistは、患者の頭蓋を水平に割り、患者の肩にまたがりドライバーを持ち、 機械仕掛けの脳の故障をなおす修理工として描かれる。もう一人のneurologistは、ケンタウロス(半人半馬の怪物)の頭蓋を開き、 中をのぞきこんでいる、そこには脳はなく無脳症に侵されているのだが、耳から脳波?を記録し、 空洞の頭蓋のなかの所見を助手に口述筆記させている。 横にはハンマーを持ち、その足元にピンやフォークが投げ出されている別の医師(古いタイプのneurologist)が立っている。
さて、neurologistとしての僕がこの絵をみて何を感じるであろうか。少なくとも侮辱を感じることはない。なぜだろうか。 ここにあるのは諷刺であり、イロニーである。生じるのは怒りではなく、にがい笑いである。
作者は前書きのなかで次のようにのべる。「これはアートである。それは真実に深く刺さる表現法である。 諷刺的アーチストはつねに弱くはかないものを拾い出し、それを手助けしてよりよいものを作り出す、 そのためにアートという手段を使う。我々はじぶんが恐れるもの(肢体不自由や死)を笑い飛ばさなければならない」
僕がこの本に目を留めたのは、シャルリー・エブドの表現の意味を考えるためである。 それが少なくはないひとたちににがい笑いではなく怒りを引き起こしたということ。 表現は表現としてだけあるのではなく、それを見るひとがいて成り立つということ。 これは例えば差別語やタブーとされる表現など広範な問題をはらんでいる。表現の自由とは何なのか。引き続き考えていこう。

2015年 1月 11日  JE SUIS CHARLIE

“そこには喜びもないのだ。悲しみもないのだ。 ただあらゆる形容を絶したDESOLATIONとCONSOLATIONとが、そしてこの二つのものが二つのものとしてではなく、 ただ一つの現実として在るのだ。” 『バビロンの流れのほとりにて』森有正

ひとつの事件が世界中に衝撃を与えている。 1月7日、パリの週刊新聞社「シャルリー・エブド」が襲われ記者ら12人がテロリストに殺された。 僕が深い感銘を受けたのは、それに対するフランス国民の反応である。 怒りの叫びではなく、“JE SUIS CHARLIE”と大きく書かれた紙を胸に掲げて悲しみの表情で静かに立っている人たち。 殺されたのはわたし。“わたしがシャルリー。”なんという深い抗議であろう。 ヨーロッパの個人主義と言われる。だがひとつの惨劇を共有したときのなんという強い連帯の力がそこには隠されているのか。 「自由」「平等」「民主主義」という言葉のほんとうの意味。「自由」という言葉だけがはじめからあるのではない。 言葉は現実そのものの重みを担う。 重い戦いの歴史を背負うひとりひとりがその生きる経験の深みでつかんできたものに例えば「自由」という言葉を与える。 その時、ひとりの経験は個でありながら普遍的なものとなる。 フランスで長く学び生活した哲学者、故森有正はくり返しこのことを語った。よく生きることはよく考えること。 いま、フランス国民ひとりひとりがその胸に海のように深い悲しみを抱えながら、 それらが重なり巨大なうねりとなってとどろきわたるのを聴く。 1月11日、日本時間午後11時、悲しみの、怒りの、そしてそれを超えるものの行進がはじまった。 BBCライブに釘付けとなる。ドイツ、イギリス、イタリア、スペイン、ウクライナ、イスラエル、 パレスチナらヨーロッパのリーダーたちが腕を組み、フランスのオランド大統領を守るように静かにゆっくりと歩いてくる。 300万を越える人たちがパリの広場や道路を埋め尽くす。なんという光景。 深い悲しみと絶望の波を、より深い何かが押し返そうとしている。 それを何と呼んだらよいのか、言葉を与えることができない。ヨーロッパは深い。

2015年 1月 4日  海よ

無理かもしれないと思っていた年末年始、4日間の休暇を与えられた。 その幸運のおかげで、シアトルまで“海”という名前のあかごに会いにいくことができた。 父親と母親がなぜ“UMI”とその子に名付けたのかは知らない。なかなか素敵ではないか。海はまだ3か月だが、よく笑う。 その眼は冬のなぎさにあそぶかもめのようだった。

蝶のやうな私の郷愁!・・・。蝶はいくつかの(まがき)を越え、午後の街角に海を見る・・・。 私は壁に海を聴く・・・。私は本を閉ぢる。私は壁に凭れる。隣の部屋で二時が打つ。 「海、遠い海よ! と私は紙にしたためる。――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。 そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」(郷愁)三好達治

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