“Aさんが逝けば連休とれるのとのり弁食べつつ看護師つぶやく”
朝日歌壇、佐佐木幸綱と高野公彦2人の歌人が採っている歌である。佐佐木氏は第一首目に選び、
「不謹慎と知りつつ口にしてしまった一言を聞いたとまどい。生と死を考えさせられる。」という短い評を加えている。
僕たちには分かりすぎる状況である。看護師を医療者と一般化してもよいだろう。
こんなことをつぶやく医療者は許されないという声が聞こえる。
いやつぶやくだけで連休を優先しようなどとは実際は思っていない、このようにじぶんの本音を表現してみるのは大事、
と反論する声もある。いずれにしてもここには佐佐木評のような「生と死」の深い問題というより、
このような現場にはありがちな職業倫理の問題が浮き出ているように思う。
さて僕の場合はどうなのか。
この冬やすみのシアトル行は義務としての旅という側面がある。どうしても行かなければならない。
しかしどうしても行けない事態になるかもしれないのだ。
ひとの生死に真向かう医療の現場にあって、じぶんのやらなければならない仕事をただ黙々とやり続けるしかない。
そのことだけが、どうにもならない事態というものを受け入れる土壌をたがやしてくれる。
じぶんの力ではどうにもならない事態のまえで、じぶんは全きじぶんでありつつ無に近い状態にあることができるかどうか。
しずかに待つのだ。
両手をパーンと打つ音が慶応大学日吉キャンパスの講堂に響きわたる。「右手と左手、どっちの手がどっちを打ったのでしょうか。
どっちの手が痛いと感じるでしょうか。これが間主観性の問題です。」
こう述べるのは丸田俊彦先生。数年前のFOUR WINDS主催の講義だったと思う。とても印象的だったので覚えている。
その丸田先生が亡くなられた。別の場所での講演会をまとめられた小冊子
『現代の心の病へのアプローチ』(「患者中心」から「関係中心」へ)(2011年)を読む。
患者さんの問題に対処するのに、患者中心ということがいわれ、それが進んで「患者様」と呼ぶようになる。
それで患者を崇め奉るということになり、そのことの弊害もでてくる。
その反動で、事態がうまくいかないとそれを患者のせいにするということも出てくる。
そうならないように常に患者とじぶんの関係の在り方をみつめて、相手もじぶんも責めることをせずに、
何が起こったのかを冷静に考えることが重要である。「患者中心」ではなく「関係中心」である。
「私たちは成長して言葉を話すようになると、あたかも言葉でコミュニケーションしている気になります。
しかし実際には、互いに最重要のコミュニケーションは「相手が今、どんな意味・意図でその言葉を自分に言ったか」という点です。
言葉通りではなく、その言葉の先にある意味や意図を、その時の状況や相手のしぐさ・雰囲気などから探って、
相手からのメッセージとして受け取るのです。・・・言語的でもなく、見えないものではあるけれど、
コミュニケーションは明らかに「関係性の中に潜んでいる」ということが言えると思います。」
伝統的なパターナリズムの医療から、患者中心医療へということが言われてきたが、その限界ないしは弊害も見られ始めている。
やや図式的でもある「患者中心医療」からよりフレキシブルな「関係中心医療」へ。
医者はいわば間主観的な感性を問われることになるだろう。
あうんの呼吸で相手と通じ合える能力、相手がどう思っているのかを想像できる能力、相手の痛みを知る能力、
じぶんをふりかえる能力などが必要とされるだろう。
(今、注目されているユマニチュードの推進者ジネスト氏は「患者中心」ではなく「絆中心」といっているが、
これも「関係中心」といいかえることができるかもしれない)
寒い毎日が続く。インフルエンザが今年は例年よりも早くはやりだした。普通のかぜやおなかのかぜもはやっている。
この季節、手紙を書くと最後に、「ご自愛のほどをお祈りいたします」と書くことが多い。さて<自愛>とはどういう意味なのか。
①自らその身を大切にすること。②品行を慎むこと。③物を愛すること。
④Self-love:人間が自然状態において持つ自己保存の傾向。
辞書には以上の4つが載っている。日常の手紙のあいさつでは①の意味で使用されているのだろう。
先日、訪問診療で、或る独り暮らしの老婦人の話を聴いた。
その方の昔からの友人(元学校の先生)が写真を趣味にしていて、
じぶんの出会った風景や季節の花の写真に文を添えて12月になるとカレンダーを作る。
毎年送られてくるのを楽しみにしていたが、今年は思わぬ病気にかかり、それができないという手紙を受け取った。
はっきりとは書いてないが、簡単な病気でないことは文章でわかる。
その友人は定年まで、社会のためにじぶんに与えられた仕事を務めあげた。
定年後は、じぶんのまわりのひとのために、美しい写真や手紙で慰めを与え続けてきた。
その彼女がいま、軽くはない病気で臥しているという。それを知り、彼女の人生に思いをこらし、返事を書いた。
自分も病気で外にはでられないけれど、今こそ彼女じしんをいたわってほしいとこころの底から思う。
その思いをこめて、手紙を「どうかご自愛を」と結んだ。
そのときふと、〈自愛〉ということばのほんとうの意味に触れた気がしたというのである。
社会に尽くし、ひとに尽くし、そのうえでじぶんを大切にする。それが〈自愛〉の意味であると彼女は考える。
この彼女の〈自愛〉の定義には品位がある。
そして、病みながらもこのように交流することのできるふたりの関係を僕は美しいと思う。
「私たちは、ポロポロ落ちるのも気づかず、あれもこれも身につけようとします。
しかし、神にいろいろなものを切り捨てられたとき、初めて真実が見え、大事なものがわかるようです。」
これは以前、僕が診ていた患者さんの手記の一節。ALSの症状が進行し、手足の機能が落ち、経管栄養、気管切開されたときのものだ。
そのあとレスピレータが装着されたのち数年間訪問診療した。足指のわずかな動きで文字を選び、文章をつくる。
僕はそれを読みながら心身の苦しみを理解しようとする。どれだけ理解できたといえるだろうか。
訪問診療のある日、「そろそろわたしにくぎりを」と書かれた文章を読んだとき、僕は何と答えてよいのかわからなかった。
先日、ある在宅緩和ケアの研修会で奥様にお会いした。
ことばでは表現しがたい長く困難な介護であったと思われるが、いわゆるグチというものを聞いたことがなかった。
疲れたとか大変という言葉も態度もだされなかった。淡々とじぶんのやるべき仕事をやっているという風にみえた。
お二人で洗礼をうけていた。彼の書いた“失ったときはじめて見えてくる大事なもの”それは何だったのかを改めて今考えている。
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