きのうは夏 きょうは秋
さらばよ さらば
激しかった束の間の夏のひかりよ
ボオドレール『悪の華』
酷暑の夏を生き延びてようやく秋らしい深い空がみえる。冒頭の詩はボオドレール『悪の華』のなか「秋のうた」より取った。ここでの激しい夏とは青春の比喩なのかもしれない。
日本では激しい夏のあとにくる秋のしみじみとした情感を歌に託す歴史がある。例えば、新古今和歌集の有名な三夕(さんせき)のうたを振り返ってみよう。
さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮
寂蓮法師
心なき身にもあはれは知られけりしぎたつ澤の秋の夕ぐれ
西行法師
見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ
藤原定家
1首目は真木立つ山の秋の夕暮れを「さびしさ」の色彩という観点から捉えた歌。同じ作者の百人一首中の次の歌は寂しさという言葉は使わずに深い寂寥感を表現している。
村雨の露もまだひぬまきの葉に霧たちのぼる秋のゆふぐれ
寂蓮法師
3首目の定家の歌は花や紅葉が見えないという無を詠うことにより却って有ることの美を現前化させている。
くさぐさの実こそこぼるれ岡のへの秋の日ざしはしづかになりて
斎藤茂吉『小園』
この秋のうたは、斎藤茂吉『小園』のなかの昭和20年の歌。このとき茂吉は山形県金瓶村に疎開していた。この歌の次の歌が茂吉の代表歌のひとつである。
沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ
斎藤茂吉『小園』
敗戦の痛手を雨のふりそそぐ百房の黒き葡萄に象徴化している。沈黙が重い。
最後に、秋の公園で作った歌2首。
丘の上の公園は秋ひそやかにジュビレ・デユ・プリンス・ドウ・モナコは咲けり
秋の薔薇しずかにそよぐ園を過ぎ落葉の思想の方へ寄りゆく
秋の野毛山公園、往診の帰途よく立ち寄る。大きなケヤキの下のベンチに坐り様々な色に咲きそろう薔薇の花を眺める。そのなかでひと際目を惹かれたのがプリンセス・デユ・ドウ・モナコだ。一方、薔薇の花のはなやかさとは対照的に地面の上飛び散る落葉の多彩な色や形や匂いには深々と秋を感じる。
ところで、ボオドレールの秋の歌は次のように終わる。
灼熱の真白き夏を惜しみつつ、黄に和(な)ぎわたる
晩秋の 光を われに味(あじは)はしめよ
ボオドレール
静かな秋の日ざしが続くことを願う。
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