N ENGLJ MED perspective欄 sept 26 2019 Unsteady thought-telling the truth of psychosisと題するエッセイを読む。
お子さんはいらっしゃるの?と聞かれて私は何と答えてよいかわからない。時には真実を回避して、子どもはいませんと言う。あるいは半分真実である、継子が二人、と答える。くわしく話すのは大変なこと。見えないことを明らかにするのは告白じみている。私の子ども二人は死んだ。「軽い悲嘆は言葉を語り、大きな悲嘆は言葉を奪う」というセネカの言葉を思い出す。
実は私の子、オースチンとコリンの二人は、9カ月の間隔で共に20代の命を絶った。双極性障害による自殺である。現実について私はオープンに話すことができる。恐らく病気の生物学的性質がそうさせてくれるのだろう。
チャリティホスピタルはアメリカでも古いニューオリンズの病院である。私はエンジニアの勉強後、チャリティの医学部に入り神経学の研修を受けた。幻覚を訴える患者の診療で大事なのは患者と話をすることであった。
精神疾患の患者を診ることは、外傷や様々な疾患を診るより或る意味で大変な(daunting)ことだった。幻聴や希死念慮を持つ患者の言葉を聴くことはむつかしい。私は聴くためのスキルを精神病を初めて発症した患者の混乱のなかで学んだ。このようなバックグラウンドがあっても自分の息子の精神の病の体験は困難をきわめた。
数年後、チャリティでの経験は息子たちとコミュニケーションする準備期間であったことを理解した。他の多くの慢性の精神疾患の患者と同様に彼らに薬や他の治療は無効であった。つまるところは愛情と傾聴(attentive listening)を通して慰藉(solace)に行きつく。わが息子コリンが拷問のような幻聴のみならず希死念慮の存在を明かしたとき、私の心臓は駆け出し汗が皮膚に泡だった。静止した静寂のなかで自分に語った、もし彼がこれに耐えて生きていけるなら私もそれを聞くことに堪えられるだろう。病のなかで彼は私を試しているようだった。話の断片で私の反応をチェックした。私が信頼できるようにみえると、次の断片を示すのだった。
私たちの精神病との旅はまだ完遂していない。3年後、精神の病は私の長男オースチンに襲いかかった。彼は時々うつや薬物依存に苦しんでいたが、今や精神状態の悪化の程度やスピードは胸をえぐるようなものだった。私が初めて彼の心の取り乱した状態を感じ、聴き、見、現実を共有できないと知ったとき、私の世界は震えた。双極性障害の家族負因があり、医者として息子のリスクを知ってはいても、それは耐え難いものだった。私たちの物語の前章はシフトし同時に変容し増幅しそして減衰していった。
オースチンの内界は殆ど共有されることはなかった。その経験は言語に絶する(ineffable)ものであったのだろう。「僕の心はとても不安定で砕けやすい(unsteady and fragile)、回りながら振り落とされる、バランスを保つことができない。」と語った。コリンが明らかにしてくれた詳細のおかげでオースチンのだすヒントの深刻さを理解できた。
精神病の苦痛は壮絶な(formidable)ものである。内側から責めてくる声にどのように独りで立ち向かえるのか。親密なものであるだけ苦しみに近づくのは怖かった。私の内なる資源は、安定を保ち、息子のそばに存在するために必要なものだった。治療が患者の苦痛を和らげることができないとき、おそらく安らぎ(comfort)や癒し(healing)は他者の存在(presence)の深みに休息することによって見つかるのだろう。
精神病は脳の最も深い部分からあがってくる原初的な苦悶である、それは思慮によって規制されることがない。精神病を生きてきた人々はそれをむき出しの(raw)腹の底からの(visceral)荒れ狂う(turbulent)ものと表現する。Functional MRI, PETscan, 遺伝子分析データは精神病のネットワーク地図や謎を開こうとしている。しかしながらほとんどは未知の領域だ。
(省略)
精神病的状態で人は見ること、聞くこと、感じることに誇張されたイメージ、つまり幻覚を味わう。これらイメージや思考は閃光のように危険で予想できない。幻覚で刺激し責め、辱め、誘惑し詰問する。「ちょうど僕の耳のそばで声が僕を批判し叫ぶ、お前を殺せ!」とコリンは話す。反復される秘密の試練は耐え難い。
私はオースチンとコリンが早すぎる死を迎えるまで慢性の双極性障害に耐えているのをそばでみてきた。その病と死との闘いは私にも原初的な苦悩(primitive agony)をもたらした。私の腕は痛む。それは母親として二人の亡き子を求めて母親の傷みを痛むのである。私の身体は私のあかごをはぐくみ抱くことを渇望する。彼らと一緒の将来を夢見る。それは無理。彼らの不在は私の動物的な核(animal core)に共鳴する。
(省略)
5年の間、息子と私は病院への入退院をくりかえした。過酷な薬物療法、涙、絶望、子どもたちの大事にされた性格は消えてしまった。
(省略)
オースチンとコリンが死んでから私の胸は短剣(dagger)を抱えたままだ。・・どのようにしたら私自身の、そして人の苦しみを和らげることができるのか。人の助けを得て、いわば共感的喜びという薬を傷に処方している。人生の歯車は回転し新たな可能性が開けるのを待つ。私の夫と私は今二人の継子を大事に育てている。私は自分の患者におのれをささげている。ジョンズホプキンス大学双極性障害に関する遺伝子研究センターに息子のDNAを寄贈した。私が死んだら脳をハーバード大学ブレインセンターに献体する予定である。
私の行動により子供たちの代わりに語り、私達の経験を広め、私達の通った道を歩く人たちのためになればと思う。そして今、私の魂のアドバイザーの示してくれた道を具体化しよう、“あなたは母親としておのれの仕事を成し遂げた、今、彼らの名誉を受けて、善く生きなさい。”
まだ時折、私の心のなかで彼らの声や笑いの反響が聞こえる。チェシャ猫の笑いや悪ふざけを思いだす。そして、私の腕はまだ痛み、そして懐かしむ。
以上が抄訳。女性の精神科医の子どもが二人、双極性障害による自死という衝撃的な重い内容のエッセイである。母親としてまた医師としての苦悩と自責をまじえた文章は読んでいてもつらいものがある。精神を病む者は他者の存在の深みに休息することで安らぎと癒し、魂の慰藉へと至ることができる、といった文章は示唆に富む。
また二人の息子を亡くしたあと胸には短剣を抱えたままだという印象的な文章がある。思い出すのは次男を自殺で亡くされたノンフィクション作家柳田邦男氏のことだ。自分の胸には次男洋二郎さんの短剣が刺さったままだという言葉がある。短剣を引き抜いたら血が噴き出て自分は死ぬことになる。短剣は刺さったままにしておかなければならないというのだ。
「わが息子・脳死の11日」という副題のある『犠サクリファイス 牲』の最初の文章を引用する。
「冷たい夏の日の夕暮れに、私の25歳になる次男洋二郎が、突然自ら死出の旅に出てしまった。時は冷酷なまでに過ぎ去っていくが、彼の部屋だけは時間が凍結されてしまっている。」(柳田邦男)
ランセット10月18日号、Digital medicine: Preserving clinical skills in the age of AI assistanceを読む。
アルゴリズムによる援助が支配的になるAIの時代にあって臨床医はどうやって自分の核となる臨床スキルを保持するのだろうか。臨床においてAIがますますその役割を広げるにつれて、臨床上の仕事や推論の重荷を下ろすことでスキルが低下する(deskilling)、AIのエラーやバイアスを採用する(mis-skilling)、あるいはそもそも能力を得ることの失敗(never-skilling)などの懸念が生じる。そのようなスキルが低下するというエビデンスは心電図やX線画像の自働解析に現れている。今年のはじめの観察研究では経験を積んだ大腸内視鏡医のポリープを読む技量がAIサポートがないところでは低下すると懸念を示した。
ポーランドの4か所の内視鏡センターではAIポリープ検出システムを3ヶ月使用した19人の内視鏡医と外科医はAIサポートなしでは腺腫を見つける率が低下した。グループとしてみるとAIサポートによるポリープ診断のあとの技量は元々のAIサポートなしの技量よりも低下した。何人かの内視鏡医はその技量を著しく落とした一方その他の医師はスキルを維持した。これからいえるのはdeskillingはすべてにみられるわけではないこと、そしてAIがケアのルーチンに組みこまれるにつれ我々はdeskillingを和らげるアプローチを探さなければならないことである。
オートメーションとスキル保持のバランスのとり方について長く苦闘している他の産業から学ぶことができる。航空関係では自動パイロットシステムが安全性に寄与してきた、それでもマニュアルの飛行スキルを低下させる懸念はないわけではない。管理者は手動でのルーチンの飛行時間およびシステム不全類似の状況のシミュレーションを学ぶことを試みた。原発のオペレータは万が一自動システムが故障した際でも大事なスキルが機能できるように危機的シナリオを規則的な間隔でリハーサルする。
AI関連deskillingの勢いは胃腸内視鏡にとどまらない。外科系および緊急医スペシャリストは予想外の事態に備え常に警戒心と準備が要求される。皮膚科、病理科、放射線は精緻な視覚診断とパタン認識が必要となる。画像読影のみならず、診断推論、意思決定、そして患者マネジメントにはAIにより浸食されないような批判的思考が必要とされる。患者との出会いはしばしば性急であり、深い分析や推論の余地が奪われる。そこで医師が負担の一部をシェアしてもらえるAIを歓迎するのは不思議ではない。しかし、AIが臨床に定着すると新たなリスクが生じる。警戒心が低下し、スキルが衰え、より多くの医師がAIを頼るようになり、AIの助けなしには臨床に自信が持てなくなる。
これらの懸念はとりわけ教育に関連する。トレーニング中の医師は大事な能力を身に着ける前にAIに依存することになる(never-skilling)。万が一機械が故障したら基礎を身に着けることは不可能となり、臨床的直観や判断力を発展させる骨格となる経験が削られことになる。AI-enabled environmentで医師のスキルや思考力を守ることは簡単ではない。過剰依存、警戒心の低下、deskillingのtrajectoryはアルゴリズム、専門領域、コンテクストによって可能な解決法と同様に異なる。一つのセイフガードは短い意図的な“AI-off”あるいは“AI-delay”を臨床の中に設けること、警戒心を再調整し、AIの援助なしに仕事をする客観的な方法を獲得すること。トレーニングあるいはスキル維持セッションの間は、AIの解釈は、研修者が自分の所見を切り出したあとのみ出るようにセットする。もうひとつのアプローチはより強固な隔壁を作ること、つまりAIは規則的な、量の多い、曖昧さの少ない仕事に限ることで、医師はよりcontextualな、曖昧な、重要な決定に関わる仕事に向き合える。例えば、放射線科ではAIアルゴリズムが正常レ線を除外することで放射線科医はより微妙で複雑な所見に集中することができる。そのような境界線は、仕事が重なり共有されると起こりがちなオートメーションバイアス(誤ったAIの結果に頼りすぎる事)やオートメーションネグレクト(正しい結果を無視すること)を減らすことに役立つ。どのような戦略であれ大事なことは、AI toolの信頼性を評価できる臨床医の進化する能力である。
大腸内視鏡AI deskillingの研究はAIの告発状ではない。40のランダマイズ トライアルからのエビデンスでは、医師が前癌状態の大腸ポリープをより多く診断するのにAIが役立つことを示した。このような進歩を我々は歓迎すべきである。しかし、AIが臨床のなかに組み込まれるにつれて医師の行動や臨床的なケアが変ることがないか、注意深くみていかなければならない。AIの採用は加速的に増えるだろう、それでも仕事の流れや慣習を向上させることは可能である。我々がAIを用いていかにデザインし、統合し、訓練を重ねるかという目下の選択が、これらのシステムが我々の仕事を向上させるか、あるいはじわじわと静かに我々の仕事のスキルを侵食してゆくのかを決定するだろう。
以上が抄訳である。
附記
*2023年にもランセット誌Digital medicine欄でAIに関する同じ著者(ERIC .TOPOL: DEEP MEDICINEの著者)による論稿がある。2023年10月22日の臨床余録で取り上げた。「AIは患者に共感できるか」というタイトル。その要旨をふりかえってみよう。
*AIは事務的な仕事をこなすことができるので、医師に時間という贈り物をすることになる。その時間で医師は、注意深い身体診察、人間的触れ合い、信頼関係の醸成、純粋なケアや思いやりを患者との間に持つことができる。さらに、AIは事務的な仕事だけでなく、患者の質問に対する応答において、ひとよりもChatGPTの方が共感性(empathy)が高かったという。しかし、この共感性は偽の共感性(pseudo-empathy)とも言うべきで、真の共感性はアイコンタクトや握手など非言語的なヒューマンタッチを介するもの。また、神経性食思不振症など複雑な医療情報が必要な疾患にたいする質問にはAIでは正しい応答は困難であり注意を要する。
*これが前回の要旨である。今回の論稿では医師のAIへの依存度が増すにつれてAIがなかった時の医師の診断や治療スキルに比べて、AI時代の医師自身のスキルがかえって低下するという皮肉な現象に焦点をあてている。だからといってAIを拒否するのではなくその能力とうまくつきあうことを通して共存していく方途を探っている。
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