2024年・・「waiwai隊」の山歩きの記録  
   2024年5月18日〜19日  
     
    前回の『一の森行(2013年9月28日〜29日)』では『今年も随分とご無沙汰してしまっている一の森行は、“ある事情”があって、相棒と私の共通の友人“ひよこさん”夫妻が同行の山行となった。そのあたりの“事情”については、後述する事とする』との書き出しで始まっています。
 そして、この山行の動機を以下のように記しています。
 
     
   
    実は、小生は9月2日から近くの病院の検査・検査で忙しい毎日を過ごしていました。凡その検査結果が出たのを機に、9月最後の週を“一の森行”を決めました。そんな折り、“ひよこさん”夫妻が私に会いたいとの事・・・、丁度、“一の森へ行きましょう”というのが、今回の撮影行でした。

 そして私の病状ですが、暫らくは山へは行けません。入院治療となりました。そこの辺りの経緯については、ブログに詳しく載せていますので、そちらをご覧頂ければと思います。
 
     
     
     
   ・5月18日(土) 自宅(東温市)見の越〜一の森ヒュッテ  
     
   上記のような事情から11年を経過してしまったのは、小生の健康上の問題だけでは無くて、この間に何度か一の森行を計画したにも拘わらず、実現には至らなかった事も書き添えておきます。また、今回の計画はGW中にも検討したのですが、諸事情もあって、二週遅れの実現と相なったのです。  
     
   もう慣れた東温スマートICからの松山自動車道を使って、美馬・貞光ICまでの行程です。am7時に自宅を出て、順調に走っていると、突然、前方の車がスピードを落としてハザードランプを点し、右車線に寄りました。直ぐ先のトンネル入り口にパトカーが二台止まっていて、トンネルを入った処で軽乗用車が停まっていて、警官らしき人が何やら作業を行っていました。
 そんなアクシデントをよそに、川之江JCTから徳島自動車道へと乗り換えます。そして間もなく美馬ICで降りて、R438号で登山口の見ノ越へと向かいます。コンビニや道の駅へ寄りみちをし、準備は万端です。
 
     
     
     
   さて、11年ぶりに通るR438号線沿いの景色は以前と変わらないし、一宇までの道路状況も変わらないままの狭い道が続きます。しかし、途中で良く利用していた食堂(うどん屋)は開いていないようですし、旧一宇村は限界集落だらけとなっていると聞きます。一宇の葛籠堂(一昔前は、ここでバスを降りて剣山へ向かったと聞く)の集落の先から、第七まで続くヘアピンカーブを通って、見ノ越のリフト横駐車場に着いたのは10時過ぎでした。

 駐車場所を探してウロチョロしましたが、無料の駐車場は満杯でした。民宿の御主人らしき方が『2』を指すので、2台の空きがあるのかと駐車場へ入りますが、空きがありません。それは、『第二駐車場へ行け!』という事でしたが、向かうと、そこは遥か下方でした。結局、先ほどから駐車場の案内をされて方の案内で、有料の駐車場に停めました。そこは、以前も利用した事がある民宿でした。
 さほど重くない荷物にも関わらず、登りにはリフトを利用するのは予定通りです。
 
     
     
     
   駐車場所を探しバタバタしたり、民宿で腹ごしらえをした関係で、リフトに乗ったのは11時前でした。リフト終点の西島駅までは10分余りの行程でした。
 リフト終点からは、『刀掛けの松』への直登の道で『お花畑』を経由して、一の森を目指します。もう、何度通ったことか?
 通いなれた道ですが、なんせ11年振りの事。『シカの食害』は深刻だ・・とは聞いていますが、実際はどう変わっているのかなどと、興味は付きません。
 
     
     
     
    さて、リフトから降りて、ここからが正念場となる山道の登りとなります。やはり小生、階段状に造られた山道は息を切らせての登りとなりました。ザックに入れている重いものは“望遠レンズ”の一個のみです。今回は、三脚も担いでません。
 リフト駅から大剣神社へ向かう道(大剣道)からの直登の道と出合うと、見晴らしが良くなります。次々に登ってくる登山者に道を譲っては、一休みを繰り返します。右手に三嶺が確認できます。『ひょっとして、石鎚も見えていない?』と、相棒が囁きます。やがて、前方に人の気配がすると『刀掛けの松』に着きました。11時40分でした。
 
     
     
     
 
  リフト西島駅から“刀掛けの松”まで25分も掛かったのでした。何組かの人が地図を見ながら話している横を左手へと道を取ります。もう少し季節が進むと“キレンゲショウマ”が見える道(行場への道)です。今の時期は、頂上を目指す人たちが大多数なので、こちらへ曲がる人はいません。
 直ぐ先で相棒が『これ、撮らんの?』との声。その花は、ホソバノアマナでした。皿ヶ嶺で見たのは一か月も前だったので、咲く時期も随分と違うようです。少しの間“お花畑”の手前までは、下り道となるので、私の方は大丈夫。一方、私と違って相棒は直ぐ先の細いザレた道は苦手です。道は直ぐ先で左手へと分れています。『こんな道だった〜?』と、11年の歳月が記憶を薄くしているようです。
 行場と称されるこの場所は、キレンゲショウマからシカの食害を守るために『防護ネット』が張られているが、柵にしてもネットにしても随分と朽ちかけている。
 
     
   
 
 
   
 
 行場の『つるの舞』を過ぎると、前方に二の森と一の森が現われた。そして『不動の岩屋』の手前の沢状の場所は新たな道が付け替えられているようだ。そこから一気に下ると、行場の『おくさり』と呼ぶ場所に着く。相棒が『精霊の森(写真集)』の中の“キレンゲショウマ”の写真を撮った(2008/8)場所だ。

 先ほど触れた“鹿除け防護ネット”の工事(2006年9月19〜22日の一の森行)は、丁度、waiwai隊が足繁く訪れていた時期に施行されています。その時期には、見ノ越周辺でもシカの姿が普通に見られました。リフトの下の斜面や、R438周辺でもササを食べている姿が見られました。
 剣山系へと行けなかった10年余りの間、『剣山から三嶺のササは、食べられてしまった』との“風の噂”を聞く度に、気になってました。当時、徳島の山岳会の役員をしていた友人も、徳島県や高知県への『食害からの自然の保全を求める運動』の話しなども聞きました。また、当時の小屋主(小生の職場の先輩でもある)のUさんからも、徳島県への働きかけをしている事を聞かされていました。
 そんな事などに思いを巡らしながらの歩きです。“両剣神社”の手前に今にも咲きそうなヤマシャクヤクの蕾がありましたが、葉が2本食べられていました。 
 
   
      
     
 
 ここから道は随分と危なっかしくなっています。ここから“追分分岐(現在は、この先通行止めとなっている道)”までの沢部をトラバースする道は以前(2007/1/6〜7)の撮影行に、大変な思いで通過した記憶があります。近年、どの山域でも沢部をトラバースする登山道の崩落が言われていますが、この道も例に漏れません。
 細い道ながら、明瞭な道はザレた場所などもあって通行には注意を要します。鉄製の柵で出来た橋を渡ると滝の傍らに“穴吹川の源流碑”が建っています。

 そこから間もなく、“通行止め”の標識の建つ別れに着きます。そこが、“追分”への分岐となっています。もう12時半を過ぎていました。そこで、小休止。

 相棒の写真集のメインとなる木々が立っているのは、この先、追分へとすこし行った先にある森です。
 
     
     
     
   
 お花畑分岐の通行止め標識の場所は、以前と変わりなかったのですが、あたりに生えているのは一面がカニコウモリで、テンニンソウは目にしないようです。分岐から少し行くと、“精霊の森”と名付けた場所に着きます。こちらも、トリカブトやバイケイソウが芽を出してきていますが、シカが食べ残した跡だろうと思われる箇所にも出合います。
 相棒の写真集の主テーマだった“精霊の森”に建つ木々は以前と変わりません。しかし、先ほど触れたように,、以前のような雰囲気とは違った感じを受けます。それは、シカの食害の所為か登山道の通行止めの所為かは判りません。ここでもゆっくりとしました。

 お花畑を後にしたのは、14時半頃でした。
 
     
     
     
 
 以前はこの時期、山芍薬の白い花や少し後の時期にはオオヤマレンゲの白い花が緑に映えます。進むにつれ少し奇妙な感覚に思ったのは、右手の稜線へと見渡せるような景色でした。以前も、シカが駆け下りてきて登山道が荒らされていましたが、斜面のササが食べつくされている感じなのです。やや荒れた道の谷側にロープを張っていた場所も足場が壊れて散乱している場所に出合う。前方から二人連れが降りて来たので、狭い場所だったので避けていると、先行した男性が後続の相棒に何やら話し掛けていた。
 『避ける際には、谷側じゃなくて山側に避けないと危ない場所がありますよ』との話しだったようだ。相棒は、『この先、そんな場所あったかなぁ〜』と、小生の後から続いて来たのでした。
 
     
    
 
 
     
 
 左手は沢状のところが数箇所ありますが、随所に木橋があり心配は要りません。そして、前方に一の森が見えてきて、縦走路と出合うと、殉難碑が建つ分岐に着きました。もう、14時40分でした。ここでも小休止。
 一の森の頂上へは向かわず、冬季避難小屋へと進みます。相棒は小さな花(コミヤマカタバミ)たちを撮る事に一生懸命になっています。私と言えば、このぐらいの登りでも“ちょっと一休み”を繰り返しながらの上りです。
 それでも、進んでさえ行けば目的の地へは着くものです。

 冬季避難小屋が見える場所からの異様な景色には、何か違和感を覚えました。その景色は、林立する白骨樹の林でした。
 はて? この景色は?
 
     
   
     
   『はて?』は、直近の朝ドラで使われている常套句だけでしょうか? 冬季避難小屋の裏から見える上掲の景色を撮影している間に相棒が上がって来ました。そして、驚きは一の森ヒュッテ前の景色にも云えます。同じ場所からの写真では無いのですが、11年前の記念写真と共に載せておきます。  
     
     
     
 
 ヒュッテの前庭の景色を見渡した後、ヒュッテへ入ります。事前に予約の電話を入れていますので、懐かしく話しが弾みます。まづは部屋に荷物を置き、食堂で寛ぎます。今日の宿泊者は5名で、2名は素泊まりとの事、一名は表でビールを飲んで寛いでいるとの事です。
 そんな話しをしている間にも、テン泊の予約の人達が次々にやって来ます。某タレントの『ボッチキャンプ』などの番組がヒットしたりして、車で行ける『テン泊』が流行していますが、こんな山深いテント場も、例に洩れません。
 
     
     
     
   夕食までの時間を利用して、一の森の頂上やヒュッテの周りの散策に出掛けました。槍戸山方面へ向かうと三角点がありますが、そこへ青年がやって来て『ここが三角点ですか?』と話し掛けて来ました。家族は頂上ヒュッテで泊まり、一人テントを背負って一の森まで来たとの事。出身は関西方面ですが、徳島の大学へ通っているとの事で、最近、山へ通い始めたそうです。槍戸山への道からヒュッテへと戻る途中で、テント場が見下ろせます。狭いテン場に6張りのテントが所狭しとばかり張られていました。  
     
     
     
   『夕食は18時頃で、夕陽の撮影はその後で間に合うでしょう』との事で、素泊まりの二人はヒュッテの外で宴会が始まっています。小屋では、3名での夕餉です。珍しく小生はアルコール抜きの夕食でした。
 夕陽の撮影にはpm6時40分頃出掛けました。我々は、到着前に目にした白骨樹の林を目指しました。その場所は“富士の池登山道”から剣山の稜線が見える場所です。冒頭の夕陽の写真と、上掲の白骨樹の写真を撮り終え、ヒュッテでの歓談は、素泊まりのペアの二人を交えての歓談でした。
 ヒュッテの管理人さんと宿泊の皆さんとの歓談で、相棒の写真集にも話しが及んで楽しいひと時を過ごせました。
 
     
     
     
   今回、一の森編を纏めている中、一昔前の記録の中で(2008年7月5〜6日)下記の文章を見つけました。もう、16年も前に記した文章ですが、改めて以下に再掲します。  
     
     
    情報の氾濫などと呼ばれる現在、ネットの及ぼす影響が無視できない状況が生まれている。そんな中、当サイトを含めて、山のサイトでもその運営者自らが自主的に規制すべき“何か?”を考える時期にあると思う。もちろん、その事を他者に押し付けることは出来ないし、断じて、そうすべきでは無いと、私は考える。

 現在“山歩きサイト”を公開する上で、考慮すべき問題点として思いついたものとして、
 
 ◆ “絶滅危惧種”への対応はどうすべきか?.....hpでの公開の際の配慮。
 ◆ “山歩きサイト”はどうあるべきか?...不必要な情報を公開していないか。
 ◆ “山歩きのマナー”について、サイト上での啓蒙が必要。
 のような問題などである。

【絶滅危惧種の公開について】
 現在、地球の温暖化やそれに伴う生態系の変化などによって、動植物の絶滅が危惧されている。これらの絶滅危惧種を公開する場合に、場所が特定出来るように記述しない。《例えば、地図上に記述しない。また、登山道の記述に於いて場所の特定をしないなど・・。》
 《その理由に就いて》
  花を採る(採って帰る)事を目的に山へ行く輩が存在するから。また、山歩きの目的に、希少価値のある可憐な花々に巡りあいたい・・との思いで『連れて行って登山者』が存在する。もちろん、仲間内だけの『連れて行って』ならいいのだが、バスなどを利用する営利目的での『連れて行って登山者』が問題である。何故なら、動機が不純(あの花を見たい!・・だけ)だから・・なのだ。自分の足で歩いて、探そうよ・・地図を片手に。(でもねぇ〜、自分では行けない人もいる訳で〜、西大台ケ原(規制前)駆け込みツアーや、ポンポン山福寿草ツアーに遭遇した事があったけど、連れて行く側の問題だと思う。千代)


【不必要な情報の公開について】
 新たなルート(登山の)を作ることを目的としないで、ただ自分の歩いた軌跡だけを地図上に記し、サイトへ公開することは必要なのかどうか?もちろん、市販のガイドブックに記述されている道が間違っている場合など(この例はよくある)や、道が新たに付け替えている場合などは、その旨を記すのは当然ではある。

【山歩きのマナーについて】
 この件については、サイト上にて出来る限り、啓蒙活動を進めるよう心掛けよう。



このような提言は、当サイトでは初めての試みですが、最近、ネット社会の“歪み”が言われている最中、私たち自身が心掛けなければ・・と。


 
     
   上記は16年前の記述で、ネット環境も随分と変わって来て、『スマホ&google map』がネット世界を席巻し、hpでの山行などの紹介記事は振り返えられなくなって、『YAMAPやヤマレコ』などの投降記事が氾濫するようになってきました。それらの投稿記事の管理は、『SNSなどと同様、プラットフォーム側の管理責任』こそが必要な事と考えます。  
     
     
     
   ・5月19日(日) 一の森ヒュッテ剣山頂上〜見の越〜松山  
     
    昨晩は早くから就寝したのですが、私は夜中にトイレに起きだしたのでした。こんな事は、自宅以外の宿泊では初めての事でした。寄る年波には勝てないのでしょうね。それはそうと、管理人さんの『独占トークショー』は相変わらずで、相棒の写真集の解説にも口を挟んだり・・11年前と変わりなかったです。

 そんな事とは関係なく安眠出来たようで、相棒は4時過ぎに起きだしていました。小屋の御主人は『朝は、4時半頃外を見て明るくなっているようだったら起きだしても間に合うでしょう』と、言っていたのですが・・。
 結局、4時半頃には準備をし、玄関を出ると雨が降って来たのでした。『暫く、待とうか!』に、相棒も頷きます。しかし、朝陽が顔を出さないままで、朝を迎えることとなりました。
 
     
   
     
 
 
宿泊していた皆さんも起きだしてきたのですが、生憎の雨模様で朝陽が現われそうもありません。結局、朝陽の撮影は出来なくて意気消沈で、朝食をいただく事となりました。管理人のHさんに別れの挨拶をして、小屋を出たのはam7時すぎでした。

 帰路は、尾根伝いを選びました。殉難碑の分岐で先行のペアが暫く地図を見ていましたが、どちらの道を取るかの相談をしていたようです。結局、暫くして尾根道を進んで行きました。我々も出発しようとすると、下方から3名の人が登って来ました。いずれも御婦人方で軽荷のようでした。
 7時10分頃に殉難碑分岐へと下り始め、7時半頃には分岐を通過しました。ここからは、二の森への登りとなります。
 
     
     
     
    二の森への登りは、思ったほど辛くなく順調に登れました。ピ−クの手前で『この花(バイカオウレン)一輪だけ咲いているから撮る』と相棒。雨にもかかわらず可憐に咲いていました。二の森のピークは7時50分に通過しました。直ぐ先の祠に手を合わせ、先を目指します。  
     
      
     
    三の森への登り返す鞍部の景色で『こんな白骨樹の林だったかなぁ〜』と相棒に話し掛けたのでした。以前に『シカの食害でササが食べつくされた』と、聞いていましたけど・・。昨晩の管理人さんの話しでも『木の表皮を齧られないように防護の網を巻いているけど、年によって雪の残り具合であまり効果が無い時もある・・』との事。また、『小屋の近くでウサギを見た』と言い、『ウサギは花を齧って、バッサリと刃物で切ったようになっている』と、生態系の変化に打つ手が無い、とぼやいていました。  
     
      
     
   最後となるピークの先に、剣山の頂上テラスに建つ電波塔(アンテナ)が見えてきました。テラスには8時半ころに着きました。この頃には、地理的条件なのかは判りませんが、風雨が一段と激しくなって来ました。ここまで、左手にず〜っと見えていたジローギュウもガスが流れてきて、見え隠れしています。
 
     
      
     
    勿論、剣山の頂上での記念写真も11年振りでした。頂上ヒュッテへと戻る途中にある立派なトイレに寄り、頂上小屋へ寄りました。ここでも相棒の写真集を於いて貰っているので、小屋の御主人に『二冊目の写真集を見て貰いたくて・・』と挨拶を兼ねて寄ったのでした。生憎、お留守だったようでしたが、“あめ湯”を接待して頂きました。
 小屋を出ようと準備していると、見覚えのある青年と目が合いました。昨日、三角点で話しをした青年で、その青年との雑談で“一緒に剣山まで来ていた家族”こそ、帰路、唯一出合った三人連れの女性だったのでした。
 また、いつかどこかで・・での“さよなら”でした。小屋を出たのは9時20分でした。
 
     
      
     
   帰路は、大剣道の大剣神社〜リフト西島駅〜剣神社へと下山します。下り始めると直ぐに若い人達が降りてきました。以前は、下りに道を譲ることなどなかっと・・という記憶ですが、もう74歳になるジイサン・バアサンですので無理もないでしょう。
 こちらの道は、稜線じゃなくてトラバースの道なので景色を楽しみながらゆっくりと歩けます。新芽の色が木々によって微妙な色合いを見せ、目に優しく映ります。リフト駅もまじかになった頃、下から大きな荷物を担いだ一団が登ってきました。担いでいたのは、“しめなわ”のようで、どこかの“しめなわ”の交換に登って来たようでした。
 
     
     
     
   リフト西島駅には、10時過ぎに着きました。西島駅のすぐ下のテン場から仰ぐ剣山は、この先、見えなくなりこの先、登山口までは森の中を降りる事となります。すぐ下の大曲りコースとの分岐は、小曲りへと右折しました。  
     
   
 
【下写真(2枚)は、千代撮】
 
     
   淡々と降りるのみだが、千代さんは、ガスの中に浮かぶ森を撮るのに忙しい。また、高度が下がるからなのか植生の違いなのかは判らないけど、木々の緑の濃淡には心が現われる。時間をかけて降りていくのだが、下山も登って行く人にも出合いません。リフトを潜る場所でも、リフトに乗っている人が居ません。やはり、天候が崩れると登山者が一気に減るのだなぁ〜。  
     
     
   
   リフトを潜り、少し降りると道端の巨樹が無残な姿となっていました。これも、自然のなせる技・・。災いは為せるまま・・。無事の下山を報告して、手を合わせます。一泊のお世話になった駐車場に挨拶をしたのは11時過ぎでした。

 帰路、いつものように道の駅で昼食として、無事に帰宅でした。
 
     
     
   
 前回は、私の写真生活の集大成の写真集「精霊の森 『森遍路』」が出来たのと、おっちゃんの病気が発覚したのとがぶつかってしまったけど、あれから11年、おっちゃんが病気を克服し剣山・一の森に来れたのは良かったな〜。
 それにしても、刀掛けから一の森の道がこんなだったとは記憶が薄れていたな。カメラがフイルムカメラからデジタルカメラに変わって、本体(1290g)とマクロレンズ(980g、合計2270g)を袈裟懸けにして歩いていたんだけど、バランスが悪かったのか、体力が低下しているからか遠く感じたんじょ。最近は、手持ち撮影なので三脚を担いでないのにね。
 精霊の森の桂の木は変わってなかったけれど、周りは随分と変わって荒れた感じになって、倒木・枯れ木が目立っていたな〜。ヤマシャクヤク、テンニンソウ等は全然なかったし・・・。
 夕方、一の森の北面から丸笹山方面に沈む夕日が見えて感激したんじょ。