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『ファーストボイス ―私たちの逆転裁判―』['26]
監督 前田哲

 これが今風の法廷ものの造りか、と隔世の感を覚えた。実証性よりも情緒性に余りにも傾いていて、これでは裁判で力を持つのは、証拠力や論理性ではなく、最終弁論での弁術力と裁判所に寄せられた手紙の束などの示していた世論動向だということになってしまう。確かに真赤な勝負服のボディコンスーツで現れた弁護士朝日道子(綾瀬はるか)の弁論には力があったし、原告たる上原恵(ファーストサマーウイカ)の下で働いていたバイトの吉井(鈴鹿央士)の勇気ある証言は得ていたけれども、結局は、被告側が仕込んだ証言を行なった小松(工藤阿須加)の証言態度の品性のなさが吉井の真摯さと比べて、裁判長(酒向芳)の心証を著しく害したことの差による形になっていたような気がする。

 これでは、チラシの裏面に記されていた「リーガルエンターテインメント!」とは言えなくなる気がする。エンタメであるのは間違いないが、リーガルではなくて人情劇たる大岡裁きのような代物になっているように感じた。

 オープニングで事件の再現を行なったものではないとの免責テロップが示されるが、実際の裁判では弁護団が証拠・証人においてかくのごとき徒手空拳ぶりだったとは思えない。本作で示された年号は、1980・1989・1992・1997だったように思う。1980年は、僕がいわゆる社会人になった年だから、1997年の均等法によるセクハラ防止規定の制定を含む今に至るまでを僕自身が同時代を生きてきた者として知っているわけで、その分、些か芝居がかった造りのほどが見え透いてもくるので、エンターテインメントとしての装飾を了としつつも、少々浅薄に感じられた。

 すると高校の新聞部の先輩から「セクハラがなかった時代(言葉がね、実態はそれだらけ)と、男女雇用機会均等法の下で女性たちが職場に入ってきた時代と、セクハラらしきものをしたらつるし上げを食う時代とを通して生きてきた私は、ヤマさんと少し受け止め方が違います。時代によって、社会全体の受け止め方、考え方、常識がちがいますので、そのはざまで裁判によって社会の意識を変えるには「証拠力や論理性」だけでは、難しいでしょう。そこには、感情の力を借りなくてはなりません。なぜならハラスメントとは相手に不快感や精神的な苦痛を与える行為である以上、感情の世界だからです。(私やヤマさんがしたらセクハラで、横浜流星がしたらセクハラにならないという話。何んたる不条理・不公平)それにこの映画は、リーガルのエンターテインメントをうたっているのであり、娯楽性の強い法廷記録映画ではないので、こういう作りになるのは自然かと。」とのコメントが寄せられた。

 題材としてセクハラを扱っているからこういう造りになるというよりも、僕が今様を感じるのは、いわゆる法廷ものにかねてより僕が感じていた緊迫感というものがまるで込められずに、大岡裁き的情緒性に訴える造りだったからなのだが、裁判によって社会の意識を変えるには「証拠力や論理性」だけでは難しいというのは、先輩の指摘通りだと思う。劇中でも朝日弁護士が「支援者をどれだけ集められるかが勝負よ」と恵に最初に告げていた。

 しかし、それは先輩が指摘しているように「だけでは」であって、本作ほどに「証拠力や論理性」をまるで没したような法廷ものは、余り観たことがないような気がする。だから、これでは御白洲ものだなと感じたように思う。少々浅薄だからダメというのではない。十代時分とは違って、そういうものもそれなりに面白く観るようになっているからだが、ただ、法廷ものの醍醐味というのも随分と変わって来たなという感慨が湧いて来たのだった。

 かなり情緒性のほうに寄った造りをしていた『半落ち』でも、ここまでの没「証拠力や論理性」には及んでいなかったように思うが、そのときでも映友との談義においては、そのあたりへの不満というか疑問が投げ掛けられてきて、なかなか面白い遣り取りをしたことを思い出した。特に[お茶屋さんの疑問点とその解釈4]以下の部分だ。

 また別の映友からは「日本の裁判の欠点については『真実の行方』のグレゴリー・ボブリットも指摘してました。裁判官偏重は危険ではないかと。本作でもそこにさりげなく触れてましたね。 原告と支援者の内紛についてはモデルの弁護人も言ってましたが概ね事実に沿っているそうです。私は伊藤詩織氏と元支援者の対立を思い出し、今も昔も変わらないなと思いました。」とのコメントを貰った。

 ホブリット監督の指摘は陪審員制度を持たないことへの危惧なのだろう。だが、陪審員制もまた危ういものであることは、七十年も前の秀作『十二人の怒れる男』['57]を観れば判るように、8番陪審員のような人物はそうそういるものではないことからも明らかだ。専門性と衆知のいずれにも全幅の信頼を置くことができそうにないのは、所詮は人知の限界ゆえのような気がする。

 また『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』['25]に捉えられた事案に限らず、原告と支援者の内紛というのはセクハラ裁判であろうが、ハラスメントを超えた暴行事案であろうが、公害訴訟であろうが、冤罪裁判であろうが、裁判沙汰に多くの人が絡むシビアな事案においては必ず起こるといっても過言ではないように思う。だからこそ、本作での朝日弁護士の原初に立った弁が際立つのだという気がした。

 「弁護士ドットコムニュース」に本作のモデルになった裁判の当事者の六年前の記事が掲載されていたのだが、原告女性が「今のネット社会では、性的被害を訴えることは、私の時代よりもはるかに難しくなっているんじゃないか」との懸念を示しているのが目に留まった。二次被害の苛烈さが、当時とは比較にならないからだろう。元大阪地検検事正の準強制性交等事件による裁判ではメディアに対して仮名で通しているようだが、二次被害はどの程度まで抑制されているのだろう。
by ヤマ

'26.10. 8. TOHOシネマズ5



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