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| 『アリスのレストラン』(Alice's Restaurant)['69] 『いちご白書』(The Strawberry Statement)['70] | |||||
| 監督 アーサー・ペン 監督 スチュアート・ハグマン | |||||
| 今回の合評会課題作には、ベトナム戦争時代の徴兵制下にあったアメリカの若者たちの姿を描いた作品が並んだ。先に観た『アリスのレストラン』は、名のみぞ知る作品だったが、徴兵検査に係るオフボイスとともに流れるオープニングクレジットを眺めていて、反戦ソングのレジェンドの名が続々と現れて驚いた。ピート・シーガーやジョニー・ミッチェル、ウディ・ガスリーなど錚々たるものだ。 そもそも主演がウディ・ガスリーの息子であるアーロ・ガスリーであって、ピート・シーガーも含めて自身の名で出演しているばかりか、作品タイトルになっている『アリスのレストラン』自体が劇中で歌われるアーロの曲だった。その、教会を改装して開店させたアリスのレストランに集う人々を通じ、'60年代から'70年代に向かう反ベトナム戦争運動が高まった当時の“運動とは違う場面での若者風俗というか時代の気分”を捉えた映画のように思ったのだけれども、徴兵制とは縁のなかった僕には、そこのところがあまりピンと来なかった。 それでも、入院している父ウディを見舞ったピート・シーガー(himself)とアーロ(himself)がデュエットで歌う場面と、アーロが終盤で言っていた「僕の人生哲学は、嫌なことはしない、だ。」は気に入った。徴兵検査に落ちて父親に自分はなぜか嫌な事からは免れると話していたことを意思的に自分の人生哲学に選び直していたわけだが、なんだか僕の人生にも通じるものを感じた。 それにしても、アリス・ブロック(パット・クイン)にとってのシェリー(マイケル・マクラナサン)というのは、何者だったのだろう。アリスのレストランに集う若者たちの勝手気ままに「駄々っ子が多すぎるわ」と憤慨していたアリスだったが、パートナーのレイ( ジェームズ・ブロデリック)との結婚に彼女を向かわせたのは、彼の死だったという形になっていた気がする。 翌日観た『いちご白書』の感想としては、十三年前に観たときと特に変わるところはない。ただ字幕で「アカのリベラル」という文字が流れたが、原語は何だったのだろうとは思った。リベラリズムをコミュニズムと重ねる呼び方が当時のアメリカで行われたとは到底思えないからだ。 また、今回再見して目に留まったのは、ニクソンが林芳正のようにピアノを弾いていたことと、警官隊が突入するキャンパスの外から金網越しにキャンドルライトを灯して学生を支援する民衆の姿だった。十三年前の日誌に使ったフレーズ「その姿はなかなか劇的だったのだが、そんな奇跡的な出来事が、1968年の実際のコロンビア大学紛争でも起こったのだろうか。」を思い起こした。 本作で印象深いバフィ・セント・メリーの歌う主題歌♪サークル・ゲーム♪の作詞・作曲が『アリスのレストラン』の墓地でギターを弾きながら歌っていたジョニー・ミッチェルによるものであるところにも、両作が共に負っている強い時代性を感じるような気がした。 同年代の男女五人が集まった合評会では、多くの者が両作同等とするなかにあって『いちご白書』のほうを推す者が四人と『アリスのレストラン』を圧倒したが、断然『いちご白書』支持だとしたのは、女性メンバー独りだった。女性だからというのではなく、劇中のサイモン(ブルース・デイヴィソン)&リンダ(キム・ダービー)を十代【中学生】で観ている作品だからなのだろう。十代において観ている作品が入れ替わっていれば、きっと『アリスのレストラン』のほうを推したに違いない。五人も揃っていて、両作を学生時分に観ている者が彼女一人しかおらず、彼女とて『アリスのレストラン』は今回初めて観たのだそうだ。当人は「この頃に観ていても私的にはヒットしなかった気がします。プロットが散漫で間延びして集中出来なかった」と言っていたが、いわゆる劇映画的ドラマツルギーを排したニューシネマ・スタイルを取っているのは同時代作の両作に共通していたように思う。 その文体的部分においては、両作ともやや古臭く感じられ、どこか時代劇観賞的な気分に僕は見舞われたのだったが、アメリカン・ニューシネマでもそういう気分にはならない作品もあって、その違いはどこから来るのだろうなどということを思ったりした。出席の叶わなかったメンバーから「僕も全く僅差ではないです。圧倒的とまでは言いませんが、『いちご』のラストは何度観ても(三回目)胸がしめつけられます。」との連絡があったものを加えると、五対一という結果になった。初回観賞が幾つのときだったのかは判らないが、牧師でもある彼にとっては、イエス・キリストは社会革命家でもあることによるのだそうだ。 結果的に単独票となったメンバーから述べられた『アリスのレストラン』支持理由としての「権力側の暴力組織である州兵と対峙するエスタブリッシュメント養成大学の学生という非常に政治色の濃い構図と違って、『アリスのレストラン』は若者像の普遍的な姿を描いているように感じたから」という趣旨の意見が面白かった。『いちご白書』の学生に対してそういう視点からの特殊性を観ていたのかと、ややシニカルなその視線に感心した。僕はむしろ、ウディ・ガスリーを父に持ち、その見舞いにピート・シーガーが訪ねて来てベッド脇で歌ったりする環境にあるアーロの特殊性のほうに目が向いていたからだ。そのなかにあって、プロテストソングを歌う父たちに対抗するのでもなく異なる道で歌う意思を込めたと思しき私小説的♪アリスのレストラン♪を歌うアーロの姿を描いた個人的色彩の濃い作品だと受け取っていたから、こちらの作品のほうに普遍性を感じたという観方が非常に新鮮だった。 ともあれ、『いちご白書』のサイモンの抗議行動への参加にしても、アーロたちの起こした警察沙汰にしても、政治的主張のもとに行われたものではなく主宰者がカップリングテーマとした「巻き込まれ流されるのが青春の蹉跌」であり、それが政治の季節を経た若者たちのむしろ実態であることを描いている点では共通しているように感じる。リンダに惹かれて集会に参加していたサイモンも、アリスのレストランの居心地のなかで緩くまどろんでいたアーロもともに、あの時代の若者の典型だったような気がする。 県外から参加したメンバーが「聖母のようなアリスもまた虚無感に苛まれているように感じられ、理想が潰えてしまったように思えました」と記していたが、そういう時代の到来を予見していた作品だったのかもしれない。 | |||||
| by ヤマ '26.10.13. DVD観賞 '26.10.14. BSプレミアムシネマ録画 | |||||
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