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| 『暴力教室』(Blackboard Jungle)['55] 『暴力脱獄』(Cool Hand Luke)['67] | |||||
| 監督 リチャード・ブルックス 監督 スチュアート・ローゼンバーグ | |||||
| 今回の合評会の課題作には、邦題が「暴力」で始まる二作が並んだ。先に観たのは、'50年代の『暴力教室』。記録にも残っていないし未見作品だと思っていたが、若い時分にテレビ視聴している作品のような気がする。当時、どのように感じたか覚えがないが、四十三年前に二年ほど教護院(今は「児童自立支援施設」に改称)で教壇に立ち、茶畑で作業中の園生に口頭指導を加えた際に手にしていた鎌を振り上げられたり、別の園生が無断外出した際の捜索で追い詰めた屋内にて同僚が包丁を突き付けられた現場を目撃する体験などはまだなかった時分のことだ。 本作のクライマックス場面でのリック・ダディエ(グレン・フォード)を観ながら、自分が鎌を振り上げられたときに感じた“高揚と相反する極度に冷めた自意識の共存する不思議な感覚”のことを思い出した。ダディエはウエスト(ヴィック・モロー)を後ずさりさせ斬りつけられていたが、僕は鎌を振り下ろされる前に園生の手首を掴んで制止することができ、ダディエのように怪我することなく済んだ。殺意まではなく脅しでしかない者は心理的に追い詰めて“窮鼠猫を噛む”ような状況に追い込まない形で、矛を収めさせる契機を与えることができれば、大事には至らないものだという気がする。脅しでは済まない場合、構えて見せる暇なく攻撃してくるとしたものだ。本作に限らず、数多の映画作品での似たような設定場面を観て学習していたのかどうか理由は判らないが、我ながら上手く凌げたと思っている。 劇映画として本作を見渡した場合、ジョシュ・エドワーズ先生(リチャード・カイリー)が十五年掛けて収集した大事なレコードコレクションをあのような形で教室に持ち込んだり、序盤でハモンド先生(マーガレット・ヘイズ)が階段を降りるなかで、ストッキングを直しながらスカートを擦り上げるのを目撃して生徒が暴行に及んだり、夫に転校を懇願し夫の恩師に手紙まで出して伝手を得ながら、早産で生まれた我が子が危機を脱するや現任校に踏み止まって志を遂げる挑戦を続けるよう妻のアン(アン・フランシス)が励ましたり、座学に留まらずテープレコーダーや映写機を使った授業などの工夫を凝らして生徒の学習意欲や考える力の涵養に努めるダディエの姿とその効用による変化の兆しを目の当たりにして、負傷2回の皮肉屋古参教師マードック(ルイス・カルハーン)が失くしていた教育への情熱を再び蘇らせる気になったと伝えたり、いかにも唐突というか場面のための場面のような運びが随所にみられ、決してこなれていないのだが、いかにも'50年代アメリカらしい良心と志を訴える力に富んだ作品だったような気がする。人を育て善導する重要な職業が時給2ドルしか与えられず、「下院議員と裁判官は9ドル25セント、警察官と消防士は2ドル75セント、大工は2ドル81セント、家政婦も教師より上で教師の給与はアルバイトと同じだ」と指摘する場面もあった。 ♪ロック・アラウンド・ザ・クロック♪で始まり終える本作はまた、『野のユリ』『招かれざる客』『夜の大捜査線』などを残しているシドニー・ポワチエの出世作でもあったらしい。確かに彼が演じたミラーは美味しい役どころだったような気がする。彼がピアノ伴奏をしつつ、黒人仲間と霊歌♪ゴー・ダウン・モーゼ♪を歌っている場面も印象深い。 すると、ダディエ先生がミラーに「ニガー」と口走ってしまった後ですぐさま謝罪するシーンは、白人が黒人に頭を下げたアメリカ映画史上初のシーンだったと言われているとのコメントが寄せられた。本作と同年のバスボイコット運動から始まったともされる公民権運動を思うと、相当に先取りしている感じがある。改めて人種差別の愚を説くダディエ先生の授業がなかなか立派だったなと感心した。 二日後に観た『暴力脱獄』は、翌日の合評会に向けた一年ぶりの再見。前回の観賞メモには「これがポール・ニューマンの『暴力脱獄』か。収監者の顔役ドラッグライン(ジョージ・ケネディ)との殴り合いであれ、ポーカー勝負であれ、矯正施設野外労働作業所での舗装作業であれ、ゆで卵五十個食い勝負であれ、何においても意表を突く“何も無し”ルークことルーカス・ジャクソン(ポール・ニューマン)が、パーキングメーターの損壊くらいで刑務所入りして脱獄を繰り返した挙句に殺されるに至る話で、威圧してくる者には徹底的に反抗するタフな負けず嫌いを演じて、なかなか魅力的な人物造形を果たしていたが、やや緩慢で100分程度に収めていれば、もっとずっと面白くなった気がしなくもない。 徒手空拳ルークの誇り高き不遇な異才ぶりには、その奢りのなさを含め、奇しくも前日に観たばかりの『DOGMAN ドッグマン』のダグラスに通じる人物像を覚えた。ダグラスの人間形成に大きな影響を与えたシェイクスピアに当たるものは、ルークにおいては何だったのだろう。戦場で数々の武功を挙げて勲章や昇進を得ながら、除隊時には二等兵に降格されていたという軍隊におけるルークの姿を観てみたいと思った。」と記されていた。 ゆで卵五十個食いの後の横たわる姿が磔刑に処されたキリスト像のようだった。最後の「神さんよ、いるか?」とのルークの問い掛けには、今回の課題作としてカップリングされた二作を併せ観ると、妻の駈け落ちで失意に見舞われてと思しき公共物損壊によって野外労働刑務所に入れられたルークと、『暴力教室』での落ち零れ不良との烙印を押された高校生とが被さってくる部分もあるような気がした。社会的不適合者は、ルールや規則を司る側からの拘束と抑圧によって不適合者になっていくよう仕向けられる面があるということだ。'60年代作品のルークは恐らく射殺され、'50年代作品のミラーは札付きから脱していく。その違いがどこにあるかは明白だ。ライフル銃を手に暴力で屈服させようとする看守たちと、手を変え品を変えて頭に考える力、手に技術、心に愛を育もうとする教師たちとの違いだ。 同年代の男四人が集まった合評会では、両作とも観応えのある映画だったとの声がもっぱらだったが、課題作選定者によるカップリングテーマ「早すぎたアメリカン・ニューシネマ?暴力には暴力を」に対しては、前段はまだしも後段はしっくりこないとの意見が多く、両作ともに芳しくない邦題に共通する日本語の“暴力”以外に、作品的に共通する部分は余りないのではないかとの声もあった。 僕としては、ルールや規律を守らない不適合者の烙印を押されることにおける事情には、妻の駈け落ちで失意に見舞われたことでの公共物損壊によって野外労働刑務所に入れられ、脱獄を繰り返したルークと、落ち零れの不良高校生たちの間には、元々持つ敵対意識からではなく“支配意識を持つ側のほうから押しつけられる抑圧や差別に対する反抗を触発された者たち”として観る視座が作り手それぞれにあるという点で、被さってくる部分もあるような気がしているのだが、あまり賛同は得られなかった。 『暴力教室』の前々年作『地上より永遠に』['53]での「恣意的な人事に異議を申し立てて伍長から二等兵に降格されたプルーイット(モンゴメリー・クリフト)」を想起させる“軍曹から二等兵への降格歴を持つルーク”という設えからか、今回外遊にて欠席の主宰者は、戦争の影を引きずる若者たちの「怒り」を観て取っていたようだが、合評会に集ったメンバーからは「戦争の影」に対する賛同意見はなかった。若者たちの怒りについての賛同意見はあったのだが、戦争の影というよりは人間の実存的な部分に依拠するもののように感じたとの意見だったように思う。ルークのパーキングメーター損壊に対して僕は、そういう漠然と内在する強い憤りではなくて、妻の駆け落ちに対する失意がもたらした酔態によるものと観ていたので、「戦争の影」やら「実存」との解釈には大いに意表を突かれた。 面白かったのは、僕も目に留めた“卵五十個を食べたルークがテーブルに横たえられた姿”に磔刑のキリストの影を観たメンバーから提起された『暴力脱獄』における信仰ないしは神の不在を読み取る視点を巡る談義だった。信仰心の内在を背景にしているように思うとの意見と神の不在とともにある実存主義的立場が現れているとの意見という対照的な受け取り方が示されて、なかなか興味深かった。ゴルゴダの丘への道を行く苦難を想起させるような“賽の河原の石積み”の如き苦行の果て衆人の失望を買いつつ、死して人々の心のなかに復活して伝説化したであろうルークには、イエスの受難に重なる部分が込められていたはずだと述べたところ大いに関心を示され、『パッション』['04]にも話が及んだ。取り立てて信心深い人物とも思えなかったルークが教会で発した「あんたはまるで負け札ばかりつかませてる 中でも外でも…あんたが俺を創った どうすればいい? いつ終わる? 教えてくれ…やっぱりな…自分で道を探すか」には「神よ、何故私を見捨てたのですか(エリ・エリ・レマ・サバクタニ)」にも通じるものがあったような気がしている。 恒例の支持作への投票に関しては、不在投票の主宰者による両作とも少し物足りなかったなかでの『暴力脱獄』から、両作とも観応えがあったとするなかでの『暴力脱獄』と、僕以外は全員が『暴力脱獄』のほうを支持して4対1となった。僕は、1955年の時点で“思わず生徒に「ニガー」と言ってしまい即座に謝罪する白人教師”を造形していた『暴力教室』に感心して同作に投じたのだが、そこには四十三年前の記憶を想起させてくれたことが作用していたかもしれない。 最終的にも共通テーマは見出しにくいとの結論に至ったように思うが、僕自身は上述のごとく“烙印を押された者”を観ていたから、『暴力脱獄』が舞台にしていた監獄そのものとは違っても、蔑視や貧困の檻たる社会という監獄からいかに抜け出すかを描いていた『暴力教室』もまた、ある意味、いわゆる監獄映画として観ることのできる作品だという気がしている。 また、ルークを演じて圧巻だったポール・ニューマンを差し置いてドラッグラインを演じたジョージ・ケネディがアカデミー賞を受賞しているのが解せないとの声もあったが、僕は、ルークに己がトップのポジションを奪われつつあるなか自身の敵わなさを思い知らされながらもルークに惹かれていくドラッグラインの心境の変化を巧みに演じたジョージ・ケネディに感心していたので、そのむね表明すると、確かにそうだと『あしたのジョー』の西と矢吹丈の出会いとその後を引きながらの賛同を得た。 そう言えば、『暴力脱獄』にも、打たれても打たれても立ち上がるルークのボクシング場面が登場する。帰宅後に調べてみたら、『あしたのジョー』の連載開始は本作の翌年からだった。矢庭にもしかすると、本作がかの『あしたのジョー』を生むインスピレーションを梶原一騎に与えたのかもしれないと思ったが、『暴力脱獄』の日本公開は『あしたのジョー』の連載開始後だった。 | |||||
| by ヤマ '26. 8.14. DVD観賞 '26. 8.16. BSプレミアム・シアター録画 | |||||
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