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| 『風と共に去りぬ』(Gone With The Wind)['39] 『地上より永遠に』(From Here To Eternity)['53] | |||||
| 監督 ヴィクター・フレミング 監督 フレッド・ジンネマン | |||||
| 今回の課題作には、第二次世界大戦が始まった年の作品と、第二次大戦への米国参戦を促した真珠湾攻撃前夜を描いた作品という二つのアメリカ映画が並んだ。両作とも既見作だ。先に観たのは『風と共に去りぬ』で、約九十年前にその約八十年前の南北戦争の時代を描いていた作品だ。十五年前に三十年ぶりに再見して以来の観賞となった。 感想としては、十五年前に記した日誌と変わるところがないが、当時「奴隷解放を掲げて起こした南北戦争も、結局のところ、イスラム世界の民主化やテロに屈しない正義を掲げて行なっている昨今の戦争同様に、所詮は利権争いが主要因のものだったのであろうことに気づかせてもらえる。歴史は常に“勝者の側から語られる記録”であるとしたものだから、南北戦争についても、北部の側からの見方が一般的になるのだろう。奴隷解放を謳いながら、黒人への対処の仕方や人権感覚において、北軍側が南軍側よりも格段に人権意識に優れているようにはとても思えない描かれ方だった。」と綴っている部分が改めてアクチュアルに感じられる昨今の有様に、アメリカの神髄を観せられているような気がした。 十五年前の日誌にバトラーの犯した致命的エラーとして言及してある部分に加えて今回は、メラニーが息を引き取った際に、真っ先にスカーレットの駆け寄った先が相変わらずアシュレーであることに対して、落胆する表情を見せてバトラーが自宅に引き上げる姿が印象深かった。今わの際にメラニーがスカーレットに遺した言葉に沿って、アシュレーではなくバトラーの元に駆け寄っていれば、修復が叶ったのではなかろうか。メラニーが命を代償に設けてくれた最後の機会を逸したスカーレットに、故郷タラの地に帰って考え直す修復方法は残っていないような気がした。 マックス・スタイナーによるテーマ曲を耳にするだけで、そのスケール感が蘇ってくる名作だと改めて思った。タラの土と夕焼けの赤、スカーレットがまとうドレスや帽子の緑の色が、今度こそ何度観てもと言える形で、鮮やかに映える作品だった。「古き良き南部」は風と共に去ったのだという、我儘娘がタフな女性に成長していく波乱の物語を観ながら、古稀も視野に入った我が来し方を振り返り、食うに困るほどの貧困も、豪奢な大邸宅に住まい、人々の羨望を集めつつ虚ろを味わう心境も経験したことのない平穏をありがたく思ったりした。 翌々日に観た、第二次大戦を挟んで十四年後に撮られたモノクロ作品の『地上より永遠に』は九ヶ月前に観た映画だが、合評会の課題作に挙がったので、再見しておくことにしたものだ。『風と共に去りぬ』と併せ観ると、両作に通じるものとして、九ヶ月前の日誌に記した「なかなか気骨のある映画だった」と記した部分が大きく浮かび上がってきた。最後にロリーンことアルマ(ドナ・リード)がフルネームで呼んでいたロバート・E・リー・プルーイット(モンゴメリー・クリフト)の死の顛末を日本軍の真珠湾奇襲にかこつけて隠蔽する軍隊の体質を、戦勝国となって程なくに描き出していた本作にしても、制作当時から遡って八十年前の南北戦争時における、北軍の立てた錦の御旗たる奴隷解放における欺瞞を映し出していた『風と共に去りぬ』にしても、気骨であれ、反骨であれ、昔の映画には骨のある作品があったなと改めて思った。 そして両作とも、互いに惹かれ合いながら、うまくより添え合えない男女の関係のむずかしさとままならなさを軸に描いていたことが興味深く、気丈な女性たちの美しさが印象深い作品だった。『風と共に去りぬ』のヴィヴィアン・リーにしても、オリヴィア・デ・ハヴィランドにしても、『地上より永遠に』のデボラ・カーとドナ・リードにしても、紛れもなくキャリアの代表作だという気がする。 新年会を兼ねた合評会では、主宰者から「アカデミー賞作品賞、戦争、悲恋と共通点が多いカップリングだったけど、批評家の評価は低くて、『風と共に去りぬ』は1952年にやっと公開されてキネマ旬報ベストテン第12位、『地上より永遠に』は1953年の第16位という結果が残っている」との紹介があった。そのことに驚く者が多かった今回のメンバーは、同世代の四男二女の六名。どちらを支持するかでは、『風と共に去りぬ』が四名で『地上より永遠に』が二名と分かれた。僕は、大いに迷った末に『風と共に去りぬ』のほうに投じた。九ヶ月前の日誌に綴ったように、高校時分の新聞部のOBサイトに寄稿した、齢九十二で講じてくださった特別授業が印象深い亡き師の九年前の告別式での感慨を改めて呼び起こしてくれる『地上より永遠に』が個人的にも特別な作品なのだが、やはり映画としての出来映えとなると『風と共に去りぬ』のほうが上だと思ったからだ。 実に面白かったのは、『地上より永遠に』はさっぱりだったという女性二人が揃って『風と共に去りぬ』のほうを支持しつつも、スカーレット・オハラの強烈なキャラクターには些か呆れ果てたと言い、彼女は今でいう発達障害に違いないという意見で一致して、大いに盛り上がっていたことだ。それを受けてか、『地上より永遠に』のほうを支持したメンバーから、映画としては『風と共に去りぬ』のほうが上だと思うけれども、バトラー船長でさえも持て余すスカーレットの手に負えなさが災いして『地上より永遠に』のほうにしたとの弁があった。他方で『風と共に去りぬ』を「確かに凄い作品ではあるが、今から90年前の時代の内容だからと思いつつも、描かれ方が、マッチョというか、古いなあ・・・」と言っていたメンバーが『風と共に去りぬ』のほうに軍配を挙げていて大いに意表を突かれた。よほど『地上より永遠に』が意に沿わなかったようだ。 かのスカーレットに発達障害という昨今の流行り言葉のラベリングを施すことは、確かに今風としての正鵠を射ていると思う。それと同時に、彼女の強烈な個性は傍にいると手に負えない代物に違いないけれども、そこに障害という言葉を充てることについては、僕には違和感がある。一般的ではない、多数派ではないことを障害によるものとみなす捉え方に対する違和感なのかもしれない。少なくとも、あの時代、メラニーが繰返し感謝の言葉にしていたように、窮地にあるオハラ家、ウィルクス家の人々を救い支えたのがスカーレットの強烈な個性による処世力だったのは間違いない気がする。 主宰者の話では、両作はともに「我々の両親時代の心の一本」たる作品で、母親世代は『風と共に去りぬ』、父親世代は『地上より永遠に』とのこと。『地上より永遠に』については、確かに映友から父親のフェイバリット作で、父親から「ワシはモンゴモリー・クリフトに憧れとったのに、実際にはバート・ランカスターみたいになってしもた」と聞いているとのコメントが寄せられていた。九ヶ月前の日誌に僕が「権力者に追従する士官・下士官連中から露骨なパワハラに晒されながらも、屈することなく己が意思を貫くプルーイットの姿」と綴ってある部分に憧れつつも、実際には「昇進欲に駆られた横暴な権力者たる中隊長のホームズ大尉(フィリップ・オーバー)の求め」に対して完璧に応えてサポートし信頼を得るウォーデン曹長みたいになったということだから、それはそれで大したものではある。彼が上官ホームズに媚び諂っている人物ではないことは、事もあろうに彼の妻と恋仲になることに些かの躊躇いもないことから明らかだ。ろくでもない上官をサポートするのは彼のためではなく、純粋に自分のポジションを優位に置くための利用であり、彼自身に昇進欲などないことは、上官からも恋人カレン(デボラ・カー)からも望まれた将校試験を拒む姿にも現れていた。その意味では、己が意思を貫くプルーイットにも重なる人物造形だったように思う。 僕が『風と共に去りぬ』にするか『地上より永遠に』にするかで迷っているという話をした際に、どこがいいのかさっぱり判らない『地上より永遠に』と迷う余地というか、ろくでもない軍隊というものを描くのなら、何も二組の恋愛劇を挟む必要はないのに、最後にカレンとロリーンで終わる映画のどこが良いのか教えてもらいたいと求められたので、九ヶ月前の日誌に記した「兵士であることに囚われ、愛憎悲喜こもごも軍隊から離れられない男どもに対する無力さにひしがれているようでもあったカレンとロリーンが、恋するウォーデン曹長や日本軍の奇襲に浮足立った友軍に射殺されたプルーイット元伍長の任地であるハワイを離れる船のなかで会話を交わすラストシーンが利いている。…なにも二組もの恋愛事情を描かずともと思ったりしていたが、軍隊の阿漕を描きつつ刹那的にも映る恋愛譚の詳述にて軍隊生活を炙り出しているのかと思いきや、マッジオが死に至り、プルーイットによる葬送ラッパの場面あたりから俄然、色合いが変わってきた気がして吃驚した。そのうえで最後の場面を観て、男どもに対する女たちという構図を提示するためには、一組のカップルでは足りないことに納得した。」と記してある部分について詳述すると、さっぱりだったと言っていた女性二人から得心できたと喜ばれた。 ただ反軍隊という作品ではないわけだ。“兵士であることに囚われ、愛憎悲喜こもごも軍隊から離れられない男どもに対する無力さにひしがれているようでもあったカレンとロリーン”という点が重要で、軍隊が会社に替わったり、仕事に替わったりするのが男であって、男たちに過度の役割意識を植え付け、種の保存の原点たる家庭生活を軽視させる社会の仕組みというか組織構造に楔を入れているところが本作の優れている点だと思う。そして、そのような形で家庭生活から男を遠ざける教化訓練のなかで醸成される女性観は自ずと性欲に執心した享楽へと向かうことになりがちだ。そのうえで、ウォーデンもプルーイットも、カレンとロリーンを遊び女としていたのではない点がまた重要で、本気で好きになっていたのに、それでも大事なのは、ろくでもない軍隊のほうだったことがなかなか痛烈な作品だった。九ヶ月前に「おそらく亡き師は、'53年の公開時に三十路半ばで本作を観て、ラストシーンのカレンとロリーンことアルマに涙を誘われて仕方がなかったことだろう。」と記したのもそれゆえだし、亡き師が生前、孫息子に本作の葬送曲の演奏を託すほどの作品に本作がなったのも、そこに理由があるような気がしている。 | |||||
| by ヤマ '25. 1.12,14. BSプレミアムシネマ録画 | |||||
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